36.少女の決意
赤毛の馬は森の中を駆け、木々を抜けると開けた平原へと飛び出した。
見渡す限りの萌葱色の若草の波は、ところどころがまだ霜を纏う。黒く湿った土からは白く小さな花々が芽吹き、地平線の先には雪を頂く青い山々が切り立っていた。
「きれい...」
ステラの前で抱えられたイリーゼが吹き上がる風に三つ編みを揺らす。
鎧のままの元族長は兜の中で微笑むと、馬をゆっくりと歩かせた。
「ここは元々我が土地だった。多くの馬が走り、羊が肥え、幕屋からは暖を取る火の煙が細く上がっていたものだ」
イリーゼは頭上の声が笑っているのに寂しげな気がして、そっと彼女を振り向いた。
「奥方様は...、滅ぼした血が、憎くないんですか」
誰とはとても言えずに、イリーゼはそっと尋ねる。
ステラは「ああ」と答えると、彼女の気遣いに答えるように肩を撫でた。
「あれはかつてのあたしとクラウス...、先代の辺境伯との戦だった。当時のセリウスは3歳やそこらだぞ。仇の子とはいえ、ガキを手にかける気にはなれん」
最後は総力戦だったのだ。
魔物も多く隣国と地続きのこの地では、戦力を失った民はあらゆる脅威に徐々に数を減らしたのだろう。
屋敷の書物には、辺境騎士達が女子供まで処刑したという記述はなかった。
ならば、今さら仇の子を手にかけるのはきっと、...違う。
本当はそれだけが彼を殺さない理由ではなくなっていたが、この平原ではとてもそんな事を考えるのは気が咎めた。
誰に見られているわけでもないのに、同胞にはこの感情を隠したい自分がいる。
「...とにかくだ。美しく見えるが、平原は今や魔物の巣窟だ。...見ろ。あの木陰の黒く濁ったのは池じゃない。魔物の湧き出る魔力澱みだ」
イリーゼが目を凝らすと、黒いモヤのような澱みからはずぶずぶと犬に似た異形が湧き出て、這いずるように歩き回る。
「あれはまだ雑魚だ。お前の兄貴はもっと手強い奴らを相手にしている。敵国の間に跨るこの平原から魔物を退け、確固たる国境を築きたいこちらの命でな」
ステラはそう告げると、触れていたイリーゼの肩へぎゅ、と力を込めた。
「魔力の具現化である魔物を狩るほど、澱みは徐々に縮むが...。一つじゃないんだ。おそらく、長い戦いになる」
その言葉を受けたイリーゼは、魔物の湧き出る澱みを見つめた。そして小さく息を吸うとしっかりと頷く。
「貴方がたの目指すものが...、兄の投じる戦がよく理解出来ました」
辺境の地は、民を護るための過酷な土地だ。
医務室でのゼーマンの言葉、砦の過剰な程の堅牢さ、そしてこの平原の現状を見てまざまざとそれを思い知らされた。
いつまた隣国から侵されるともわからない平原。
厳しい気候に、魔物が絶えず湧き出る魔力澱み。
だがこの景色を辺境伯夫妻は愛し、取り戻すことを誓い、そこに兄は騎士として身を置く事を決めたのだ。
ならば自分も決めねばならない。
「戻りましょう」と答えたイリーゼの瞳には、確かな焔が灯されていた。
————
「俺の弟子になりたいだと?何の冗談だ嬢ちゃん!」
ゼーマンが目を見開いて後退り、ぶつかった机からばさばさと書類が落ちる。
だが向かい合ったイリーゼは深く下げていた頭を上げて、真っ直ぐにゼーマンを見つめた。
「冗談ではありません。わたしはここで戦う兄を支えたいんです。それに、学ぶ力には自信があります」
「だが俺の話を聞いていただろう?俺の志は汚れてるんだ。嬢ちゃんの理想の医者なんかじゃない」
落ちてしまった書類を拾い集めながら、ゼーマンはぶっきらぼうに答える。
「理想がなんですか。わたしは目の前の命の話をしているんです。たとえ志が汚れてようと、貴方がここの騎士達を治しているのは事実でしょう」
イリーゼも書類を拾うと、ばさ、と彼の机の上に重ねて言い返した。
「いやだが、嬢ちゃん」
「嬢ちゃんではありません、イリーゼです」
ずい、と詰め寄った彼女に、ゼーマンはぐぬ...と口を引き結ぶ。そして赤狼を見やると、困り果てた顔で「どうすんだよ、奥方様」と眉を下げた。
「知っておられたんですか!?」
イリーゼがばっと振り向くと、ステラはひらりと手を上げて見せる。
「兵舎で敬語なんか使われちゃ、騎士にいつバレるとも限らんからな。雑に扱って貰ってんのさ」
イリーゼは驚くが、ゼーマンは呆れ切った顔をする。この奥方様ときたら、まだご自分の正体が騎士達全員にモロバレな事に気づいていないのだ。
だがまあそんな事は今はいい。
少女が目の前で無茶を言っているというのに、楽しげに見物しているとはどういう事なのか。
「あたしは賛成だよ。この子は実際かなり頭がいいし、肝も座ってる。医者になるには悪くないだろう」
「まさか焚き付けたのか!?ったくなんて奥方様だ...!お遊びじゃねえんだぞ」
はあやれやれ、と頭を抱えるゼーマンに、イリーゼは「遊びで言ってなんかいません!」と彼の手を引いた。彼は小さな手に触れられ、体を強張らせる。
「この三つ編みは、兄が元々“自分が戻らなければ、同じ髪色の三つ編みを探せ”と必ず給金が私に払われるよう始めたものです。わたしはいつも安全な町で、三つ編みの男の無事を祈りました」
「けど、もうただ祈って待つのは嫌なんです。兄がわたしの為に戦うなら、わたしは兄を救えるようになりたい。兄の隣で、本当の意味で支えたいんです」
小さな少女の手が、ゼーマンのゴツゴツとした大きな手をそっと握り込む。
その感触には...、その言葉には覚えがあった。
ゼーマンはぐっと息を詰めるとしばらく黙り込み、瞑った瞼を震わせた。
「...娘と同じ事を言うんだな」
愛しい娘も、どんなに説得しても同じ事を言っていた。
“父さんの隣で、私は人を救いたい”
見下ろした少女は、大きな瞳を必死にこちらに向けて握った手に力を込める。
娘は柔らかな亜麻色の巻き毛に、焦茶の瞳だった。
目の間の少女とは全く違う。
なのにその姿が、失った娘と重なってしまう。
「...娘の歳は、嬢ちゃんと同じくらいだった...」
人を救うこの仕事を、しがない村医者の父を誇りに思っていた。
いつか自分も誰かを救うのだと意気込んでいた。
なのに今の自分は救うためでなく、復讐の為に...人を殺すために味方を治す。
もう己はあの頃には戻れない。
まともな医者ではなくなったのだ。
娘に顔向けなど出来るわけもない。
なのにこの娘は、まっすぐこちらの顔を見つめてくる。
「わたしは貴方のもとで医療を学びたい。教えてください、人を救う技術を」
こちらを見据える、娘とそっくりの志を宿した瞳。
純粋で誇り高い瞳から、荒み切った心へ眩しい光を当てられた気がした。
この娘は、こんな暗い動機を抱える己の過去を知ってなお、まだ“救う医者”だと信じ切っているのか。
ゼーマンはゆっくりと椅子に座り込むと、こちらの手を握っていた彼女の手を、そっと上から包み込む。
...とうとう、向き合う時が来たのかもしれないな、ミリア。
心の中で、愛しい娘に囁きかける。
幻影として瞼のうちに見続けた娘が、彼女の隣で微笑んだように見えた。
ゼーマンは震える声でようやくつぶやいた。
「...イリーゼ。君は、救うために救う医者になれる。俺はその為に教えるという事を、きっと忘れないでくれ」
白く濁った瞳は傷の内からイリーゼをじっと見つめる。
イリーゼはその瞳をしっかりと見つめ返した。
「約束します。わたしは必ず、救う医者になると」




