34.少女と鎧の女主人
「よお、元気が無いんだってお嬢ちゃん?」
早朝。ぼんやりと俯くイリーゼの部屋の扉がばんっ!と勢いよく開かれる。
ベッドにまだ座り込んだままのイリーゼの目の前に現れたのは、狼面の甲冑に身を包んだ赤狼だった。
「あ、あなたはえっと、赤狼さん...!?」
驚いた彼女は目を見開く。
まだ昨日の涙の跡が残る彼女の目元は、じわりと赤く腫れたままだ。
だが、いきなりの訪問者が兄かと思えば、まさかのろくに話したこともない甲冑の男。
まだ夜着姿の彼女は慌ててばっと身構えた。
「ああ、大丈夫だ。お前に危害を加える気は全くない。ただお前の気概が気に入っちまったもんだから、ちょっとばかし励ましてやろうと思ってな」
赤狼はベッドの上を後ずさる彼女に、からっと笑うと兜に両手をかける。
そしてすぽんと脱ぐと同時にふぁさりと真っ赤な髪が肩に広がり、そこには見覚えのある女の顔が現れた。
「さあ、顔を洗っておいで。朝飯をしっかり食ったら出かけるぞ」
息を飲む彼女へにかっと牙を見せ笑ったのは、なんとこの屋敷の女主人。
その後ろからキュッと床板を鳴らす音がして、カートに朝食を乗せたジェンキンスが微笑んだ。
・・・
「まさか、赤狼さんが奥方様だったなんて...」
ジェンキンスによって目の前の机に湯気を立つ朝食が並べられていくイリーゼが、向かいの椅子に掛けるステラをまじまじと眺める。
重い鋼の鎧に身を包み、開いた片膝の上に兜を置いた女主人は普段の優雅さから打って変わって勇ましい。
整ったその面立ちは全く同じ顔だというのに、含みのないさっぱりとした表情はまるで別人のようだった。
「驚いたか?普段の上品な奥様然とした振る舞いは全部演技でね。このことを知っているのは身内だけだから、騎士達には内緒にしといてくれよ」
軽く片目を瞑る仕草は貴婦人とは思えないほどの親しみ易さで、ますます面食らってしまう。
けれど王都で耳にした“蛮族の生き残り”という噂を思い出せば、納得せざるをえない姿だった。
「その、奥方様が赤狼さんということは...、魔物討伐もされておられるのですよね...?」
貴族の夫人が自ら鎧を纏って戦うなどと、今まで聞いたこともない。大概はみな屋敷の中で優雅に過ごし、外に出るのもメイドの手で着飾られ、やれ茶会だ夜会だと煌びやかな場へ馬車で赴くのだ。
暇つぶしの菜園や庭の手入れくらいなら聞いたことはあるものの、あくまで狩りは紳士の遊び。
淑女が自ら戦に出るなど、とんでもないことである。
「そうだよ。信じられないか?」
「は、はい。恐れながら、まだとても...」
笑顔で答えたステラへ、イリーゼは恐縮しつつも肯定する。するとステラはあはは!と豪快に笑って「正直でいいことだ」なんて口の端を上げた。
「じゃあイリーゼ、さらに信じられない話を特別にしてやろう」
ぐっと身を寄せるステラへ、イリーゼは「?」と不思議そうな顔をする。
するとステラは自慢げに立てた親指で、己の左胸をとん、と指した。
「聞いて驚け。なんとこのあたしはかの北方蛮族の長の生まれ変わりで、今やこの屋敷で宿敵の子であるセリウスを転がす妻なのさ」
「ええ...?」
いきなり突拍子もないことを言い出した女主人へ、イリーゼは困惑した顔をする。
落ち込んだ自分へ冗談を言っているのかしら、とステラの顔を見つめてみるものの、彼女は以前として微笑んだままだ。
「信じてないな?だが嘘みたいだけど本当の話だ。そうだな...、かつての我が平原の民はおよそ二万、兵は五千。三つの氏族を統合した我がバザロフスカは、わずか百余りの勇士が戦に出れば辺境の騎士を五百は殺した」
「猛者どもの名も覚えているぞ。特に強かったのは鷹目のダレイオス、猛熊のウルスラヴァ、雄山羊のオルガロフ...。皆同じ谷の戦で死んだがな」
ステラは懐かしむように話しながら黒パンに鮭の燻製をつまみ乗せて、ディルとたっぷりのサワークリームを塗りつける。
そうして出来上がった自分のパンをざくっと大きく齧る姿は、嘘をつくにしてはあまりにも堂々としていた。
「それが本当だとして...、なぜそんなことを教えてくれるんですか」
全く意味が分からず問いかけると、ステラはもぐもぐとパンを咀嚼して、ジェンキンスに注がせた紅茶をぐいっと煽る。
「昨日はお前の抱えてきた覚悟を教えてもらったからな。腹を割って話すには、あたしの秘密も話すべきだろう。つまりは敬意を評してこれで対等ってわけだ」
イリーゼはその答えに目をぱちくりさせる。
この女主人は自分のような年端もいかない子供を、対等になどと扱おうとしてくれているのか。
誰よりも心を許してきたあの兄でさえも、自分のことは“小さな妹”としてしか見てくれなかったというのに。
驚きで喉を詰まらせていると、ステラはにっこりと笑って「お前も食べろ」とパンを差し出す。
「とにかくちゃんと腹に入れな。今日は気分転換にこの砦の案内をしてやるつもりなんだ。すべて回り切るには足を使うからな」
「は、はいっ」
イリーゼは促されるままパンを齧り、豆のスープを喉に送る。クリームのまろやかな酸味としっとりした鮭の塩気、それを押し流す温かく素朴な味わいは、波立った心をほぐすように胃の中をゆっくりとあたためた。
「...おいしい...」
昨夜あんなに泣いたのに、勝手に目尻に涙が潤む。
ごし、と目元を擦ると彼女はまた一口パンを齧る。
ステラは「そうか、美味いか」と優しく微笑んで、控えるジェンキンスも同じ顔でそっと頷いた。
————
「ここは訓練場。庭から見えていただろう?お前の兄貴も含めた騎士達が日々鍛錬に励む場だ」
赤狼がイリーゼを連れて訓練場に現れると、セリウスは異様な組み合わせに目を見開いた。
彼は重い剣をヒュッと振って収め、赤狼に歩み寄る。
「なぜその姿でイリーゼと共にいる。まさか正体を明かしてなどいないだろうな」
周りに聞かれぬように声を抑えて聞けば、ステラは軽く肩を上げて「明かしたよ」とあっけらかんと彼に答えた。
セリウスは「なっ...!?」と声を詰まらせ、焦りを浮かべて二人を見比べる。
「何を考えているんだ君は。相手は子供だぞ」
「イリーゼは馬鹿じゃない。この娘にはそのくらいの分別はついてる」
イリーゼは訝しむセリウスの視線に、こくこく、と真面目に頷いて見せる。
...確かに、昨日の様子を見る限りは、少女らしからぬ思考と物言いをする子供だった。
彼はその真面目な仕草に多少安堵してから、なにやら楽しげな赤狼に視線を移す。
この妻ときたら、今朝起きるなり“イリーゼに朝食を持って行く。今日の鍛錬は休むから”と言ったかと思えば、まさか鎧を着込んで彼女の部屋を訪れていたとは。
どういった考えかはわからないが、ステラの事だ。
おそらく何かしらの企みがあるのだろう。
セリウスは一つため息をつくと、呆れた顔で「相変わらず信じられんことをしてくれる...」と呟いた。
そして気を整えてイリーゼを見下ろすと、彼は憮然と告げる。
「歩き回るのは良いが、怪我をせぬよう気を付けろ」
セリウスの低い声に彼女は「はいっ」と答えながらきゅっと身をすくめる。
「後で教えろ」とだけステラに告げて背を向ける彼に、ステラはくすりと笑みを溢した。
「あれでお前を心配してんだよ。実際、危ない物も周りに多いからな」
セリウスは様子を窺っていた騎士達に「誰が休んで良いと言った」とぴしゃりと嗜め、騎士達は慌てて剣の打ち合いを再開する。
激しく打ち合う金属音の中。
イリーゼはその中で槍を振るう兄と視線がちらりと合うなりばっと逸らして、赤狼の影に隠れた。
「兵舎に入るぞ。見せてやりたい場所がある」
隠れるその背を軽く叩いて、赤狼は彼女を促した。
・・・
「よう、来てやったぞおっさん。今日は可愛いおまけ付きだ」
赤狼が開けたドアの向こう。
イリーゼがそっと覗き込むと、そこはハーブと消毒液の匂いがした。
「またお前か。怪我もしないくせに、ここは遊び場じゃ無いと言っただろう」
低く掠れた声で返すのは、髭面の熊のような男。
椅子にかけた彼は白衣を纏っているが、左の目から頬にかけて大きく走る傷跡があった。
「ほら、入んな。こんな見た目だけど怖くないから」
手を引かれておそるおそる室内に入れば、現れた小さな少女に白衣の男は眉を寄せる。
並ぶ簡素なベッドに、壁を覆うような薬品棚。
机の上にはカルテと思われる紙が重なり、作業台にはすりこぎや見たこともない危なげな器具が散らばっている。
「なんだこの子は」と見やる男に「見学だよ」と親しげに答えて、赤狼はイリーゼの背をぽんぽんと安心させるように撫でる。
「挨拶しな」と軽く促され、イリーゼは慌てて頭を下げた。
「イリーゼ・エランベルクと申します、よろしくお願いいたします」
きちんとした挨拶を受けた白衣の男は、相変わらず不機嫌そうな顔でじろりと彼女を見る。
強面の視線にイリーゼは思わず小さく後ずさると、髭面の男はぶっきらぼうに答えた。
「ゼーマンだ。見ての通り、ここで軍医をしている」




