33.背負うものと誇り
「どうして...、どうして兄さんはわたしのためと言いながら、わたしの気持ちを考えてくれないの...?」
イリーゼが膝に広がるスカートの上に、いくつも涙の雫を降らせる。
ぱた、ぱた、と音を立てて滲んでいく布を、小さな手が握って指の間でぎゅっと皺が寄った。
「わたしは、もう兄さんに苦労してほしくない...、王都の貴族に兄さんを嗤われたくない...!そんな奴らの膝元で、自分だけ囲われて過ごすなんていやなの...!!」
イリーゼはうつむいていた顔を上げ、イズラールへと必死に潤んだ瞳を向ける。
「ねえ兄さん、“在学の四年間で家が建つ”と言われる学費よ!飛び級したって、あと一年も払えるわけない額なのよ...!?このままじゃ兄さんが潰れちゃう、わたしは二人で苦労して生きる方がいい...!」
握ったスカートをぐしゃぐしゃにして、こめかみから下がる兄と揃いの三つ編みを小さく揺らした。
イズラールはそんな妹を思い詰めた顔で見つめる。そして少しの沈黙の後に、彼女の頭をさらりと撫でて「ごめんな」と優しげに笑って見せた。
「...でも俺はさ、もういいんだ。頭も悪いし、暴力や殺ししか知らずに8年も経っちまった。けど賢いお前には可能性がある。なあ、兄貴くらいどんなに嗤われたっていいじゃないか。利用して生きてやればいい」
イズラールの硬い手のひらは、愛おしげに、ゆっくりと彼女の髪を梳くように撫でていく。
「それに学園を辞めてどうするんだ。俺たちにはまともな家もないんだ。せっかくの賢い頭も意味のない、辛い仕事しか残ってない。そんなのさせちまったら、俺が辛いよ」
彼はまるで幼児でもあやすように、優しく彼女に言い聞かせる。
「だからさ。お兄ちゃんは、お前の幸せが“幸せ”なんだ。...イリーゼ、わかってくれるよな」
イズラールが髪を撫でていた手を滑らせ、イリーゼの濡れた頬をそっと拭う。
するとイリーゼはキリ、と奥歯が軋むほど肩をこわばらせ、兄の手を思い切り振り払った。
「わからない!!そんな兄を苦しませて生きて行ける神経なんて、絶対にわかりたくないっ!!!」
彼女は大きく叫ぶなり、部屋を飛び出して行ってしまう。
「イリーゼさん!」
ステラもソファから立ち上がり、彼女の後を追った。
開かれたドアが勢いよく音を立てて閉まる。
イズラールはやれやれとため息をついて、脱力するようにソファに腰を下ろした。
「あーあ...。また怒らせちゃった」
彼はそう言って、キイ、とまだ揺れるドアを眺め、セリウスを振り返る。
「...悪いねセリウス。迷惑かけたいわけじゃなかったんだけど、なんかややこしいことになっちゃったね」
「否定のしようがないな。どう収集をつけるつもりだ」
腕を組んでいたセリウスが呆れたように息を吐く。
イズラールは「悪いねほんと」と肩を上げて見せた。
「でもさ、本当にいい子でしょ。なんてったってあの子は俺の天使だからさ」
にこ、と庇うように笑った彼は、薄い笑みの余韻を顔に浮かべたまま瞼を伏せる。
「...でもあの子がどう言おうと、約束したんだ。死ぬ間際の母親と」
イズラールは右肩へ長く垂らした三つ編みに触れる。
妹と同じ側に編み下ろされた、全く同じ色の髪。
そして彼はぽつぽつと語り始めた。
「イリーゼと俺は10歳差でね。だから産まれた時から可愛かったよ。家族でそりゃもう、蝶よ花よとひたすら愛でて育てたものさ」
懐かしむように目を瞑る彼は言葉を続ける。
「お喋りも達者になった4才。“にいちゃんとけっこんする”なんて、ちょっとおませさんになってきた頃だ。隣国との戦争で...村に火がつけられた」
彼の言葉を受けて、部屋がしん、と静けさを増す。
パチパチとはぜる暖炉の音だけが響く中、イズラールは赤く燃え上がる炎を見つめた。
「俺の家にもあっという間に火が回って、屋根の梁が妹に燃え落ちてきた。目の前にいた俺はとっさに動けず、代わりに母さんが妹を庇って梁の下敷きになってね」
ルカーシュが息を詰まらせ、セリウスは何も言わずイズラールを見る。イズラールは彼らの反応を受け取ると、頷いて微笑んだ。
「で、妹だけなんとか押し出した母さんが、“逃げてイズラール、どうかイリーゼを幸せに”って俺に叫んだんだ。...俺が動けていれば、母さんは死なずに済んだのにさ」
燃え盛る炎の中、耳から離れない母の声。
“おかあさん”と泣き叫ぶ妹を抱きしめて、すくんで動かなかった自らの足を恨んだ。
彼の笑みには痛みが混じる。
そこまで告げたイズラールは、いつもの飄々とした顔に戻ってひらりと両手を開いてみせた。
「ま、あとは知っての通り。這い出たところを敵兵に見つかって、落ちてた槍を手に取った。傭兵の人生の始まりってわけさ」
足元にしがみつく小さな妹を、今度こそ守らなければと無我夢中だった。母を犠牲にした自分に苛立ち、不甲斐ない己への憎しみのまま、めちゃくちゃに槍を振るった————
全てを話し終えた彼は、ことも無げに笑う。
そしてセリウスに向き合い、彼の金の目をじっと見据えた。
「ルカーシュはさておき。...セリウス、君ならわかってくれるだろ。護るべきものが、許されない罪が...、託された意思があるんだよ」
「大まかに言えば、君の立場も同じだろ?」
————
「...なるほどな。イズラールにも引けない理由はあったわけだ」
寝室に戻ったステラが腰に手を当てて息をつく。
ソファで待っていたセリウスの隣にぽすんと腰掛け、背もたれで伸びをしながら足を軽く組んだ。
「イリーゼは泣き疲れて寝たよ。だが、彼女の言い分もよくわかった。至極まともな内容だったよ」
部屋を飛び出したイリーゼは、与えられた部屋のベッドに突っ伏して泣いていた。
ステラは彼女の背を優しく撫でながら、自ら事情を話し出すまで待ったのだ。
「どうやら学園では酷い虐めを受けているらしい。貴族の子供たちはイズラールの苦労を嗤い、イリーゼは兄を侮辱した貴族にいずれ囲われる未来を拒んでいる」
「金の話だけじゃない。なんとも誇り高い娘だ」
ステラはそう言うと、背もたれに頭を預けて微笑む。その表情はどこか嬉しそうで、セリウスは状況にそぐわぬ彼女の態度に眉を寄せた。
彼は唇の端を上げたステラへ渋い顔で返す。
「とはいえ、イズラールは引かんぞ。あやつの行動原理は贖罪と使命感だ。それがいかほどに力を持つかは俺とてわかる」
事実、セリウスにとってイズラールの感情はあまりにも共感足りうるものだった。
彼の告白した、母を見殺しにした己への罪悪感、託された願い、妹を護ると決めた生き方。
それはこちらの負うた血の業と、親から受け継いだ領土、護るべき民と重なる。
内容こそ違えど、芯にあるものは変わらない。
だからこそイズラールの自己犠牲と、押し付けとも言える幸福すら否定する事はできなかった。
己も同じ立場に置かされれば、彼と同じ判断をしただろう。
「イズラールは己を使い潰すことを恐れていない。何をしてでも学費を払おうとするだろう。実際、あの妹が学園を辞めれば、日雇いで食い繋ぐか身売りとなるのは明白だ」
騎士の兄にただ養われることをイリーゼはおそらく良しとはしない。貴族への奉公を嫌う彼女は、ここでない市井で何かしらの職を見つけようとするだろう。
だが流れ物の人間は、まともに雇われるのは難しい。日雇いのきつい肉体労働か、さもなくば盗人や乞食。力の無い女は身を売るのが行き着く先だ。
「ま、このままだとそうなるな」
「なぜそう楽しげにいられる...」
ステラが答え、セリウスが渋い顔で目元を押さえる。一人の少女の未来が掛かっているというのに、この妻は何を考えているのだろうか。
するとステラはセリウスの表情を見てくつくつと笑う。
そして嬉しそうに微笑むと背もたれから体を起こした。
「あたしはあの子の覚悟を評価したい。誇りを失って飼い殺される人生なんてまっぴらだ」
すっと背を正した彼女が前を向く。
セリウスは彼女の口から発された言葉に金の目を見開いた。
ステラの前世は父によって殺され、巡り合わせとはいえ今や宿敵の子の妻となった。
“欲しいもの”“好いている”とは己のことを言ったものの、この状況は敵による飼い殺しと何が違うのか。
「ステラ、君は...」
思わず開いた彼の口を、ステラは指先で軽く押さえる。
「誇りってのは、どんな状況でも己の中に揺るがぬものだ。そしてそれを証明するのは、自分自身で選んだ生き方だ」
「お前もそうだったろう?元聖騎士様」
彼女はにっこりと笑うと、唇から指を離した。
「要するにわからせてやればいいんだ。あの子の力の使い所と、生きるための活かし方を。それを見せつけりゃ、イズラールだって彼女の幸せがどこにあるか認めざるを得なくなる」
何かを見据えるエメラルドの瞳は、輝きを増して誇り高い。
上品なドレスを纏った、身の内に火を宿す女。
彼女の火はかつての己に燃え移り、今また少女の心をも灯そうとしている。
その手段が何かは見当も付かないが、自信に溢れた彼女を疑うことなど出来るわけもない。
なぜなら彼女に焚き付けられた己は、すっかりこの妻へ心酔してしまっているのだから。
「...やはりいい女だな、君は」
美しい横顔を見つめて、セリウスが呟く。
「なんだ今ごろ。当たり前だろうが」
ステラは余裕たっぷりに笑って、片目をぱちんと閉じて見せた。




