32.噛み合わぬ想い
ルカーシュ達から少し離れた背後。
討伐の後始末をしながら様子を伺っていたセリウスが、赤狼の背を見つめる。
「今にきっと鷹が輪を描いて飛び、馬の群れが若草を喰むだろう...」
「そしてそこには...」
彼女が言いかけた言葉は、おそらく失った故郷。
ルカーシュの絵の中にかつての平原を見たのだろう。
この地に生きた彼女が、命を賭けて護ろうとした暮らしと営み。そして、それを奪ったのは紛れもなく己の父親だった。
重い鎧をガチャ、と鳴らして立ち上がった妻にセリウスは思わず口を開きかける。
彼女が喪失の痛みを見せるのは初めてだった。
初めて出会った夜から今日に至るまで、憎まれ口や売り言葉はあれど、平原を失った悲しみを吐露することなどなかったのだ。
けれどその痛みが、ルカーシュの描いた“たった一枚の絵”によって初めて顔を出した。
その事実が、ステラの震えた声が、彼の胸を凍らせる。
何か、言葉を———
だがこちらを振り向いた表情の読めない狼面は、セリウスと目が合うなり「なあ、想像以上だ!」と明るく笑った。
「こいつはすごい才だぞ!まるで視界をそのまま切り取ったみたいだ!」
ほら見せてやれ、とルカーシュの背を押す姿は先ほどの静かな感傷を感じさせない。
セリウスは紡ぎかけた言葉を飲み込んだ。
そして腹の底に押し留めてから、彼女を気遣おうなどとした己の傲慢さに気付く。
彼女に声をかけたとして、民族を根絶やしにした血族が何を言おうというのだろうか。
たとえ己が手をかけた訳でなくとも、背負った血の業を勝手に下ろしていい訳がない。
「ふうん。俺に上手さはわかんないけど、まあいいんじゃない」
「そ、そうでしょうか」
イズラールが手帳をつまみ上げて眺め、ルカーシュが萎縮したような笑みを浮かべる。
何も言えぬままのセリウスに赤狼は気付くと、歩み寄って肩を強かにぶつけた。
「なんつー辛気臭い顔してやがる。英雄の子の名が廃るぞ」
彼へ低く囁いた平原の長は
「一族を自ら賭した戦だ。今さら負けを認められんほど堕ちてはいない」
と、見上げてからりと笑って見せた。
鎧の戦士は兜飾りをしなやかに揺らして踵を返す。
遠ざかるのは、たとえ敗者となっても誇りを忘れぬ、一族全ての命を負った背中。
己の知らぬ痛みを知り、こちらが触れることも癒すことも叶わぬ前世の記憶。
セリウスは族長の矜持を未だ宿す妻へ、返す言葉を見つける事は出来なかった。
————
「お帰りなさいませ」
屋敷に戻れば、暖炉の前のソファにちょこんと掛けたイリーゼが待ち構えていた。
彼女はすっと立ち上がると、深く頭を下げる。
「旦那様、奥方様。この場をお借りしてお話したいことがあります」
彼女はまだおぼこい見た目に似合わぬ凜とした声で、部屋に足を踏み入れた辺境伯夫妻へ視線を上げた。
視線を受けた二人が顔を見合わせる。
セリウスはかしこまったイリーゼを見下ろすと、向かいのソファへと腰を下ろした。
「いいだろう。こちらも事情を知っておく必要がある」
「感謝します、辺境伯様」
イリーゼは頷くと、二人の斜め後ろで目を丸くするイズラールを真剣な瞳で見つめた。
「いつも兄さんは話し合いから逃げるから、皆さんに同席していただくことにしたわ。...お願い、ちゃんとわたしの話を聞いて」
イズラールはいつになく改まった様子の妹へ、ごくりと唾を飲む。その後ろに立ったルカーシュまでもがつられて唾を飲んだ。
全員がソファに掛けたことを確認したイリーゼは、静かに口を開く。
「兄さん、わたしは学園を辞めます。これからはもう、莫大な学費を払うなんて現実的じゃないわ。それにわたしは兄さんの苦労したお金で、貴族になんて嫁ぎたくない...」
「生活が苦しくても、兄さんの側で支えたいの」
彼女は自らと同じ、薄紫の瞳を見つめる。
するとイズラールは慌てて目を見開き、ばっとソファから立ち上がった。
「だめだ!!学園を辞めるなんてそんな事させられない。俺はお前に学をつけて、どうにかして幸せにしたくて入学をもぎ取ったんだ!今更辞めてどうする!」
「でも、兄さん」
言いかけた妹へ、彼は吊り目の瞳を険しく向ける。
そして言い聞かせるように強い口調で告げた、
「俺の側にいたって良い暮らしはできない。お前を絶対に幸せにするのが俺の使命なんだ。こればかりは譲らない」
バン!と机に手をつくと、彼はイリーゼの口が開く前に説得のための言葉を並べる。
「いいか、お前こそよく聞いてくれ。人殺しやゴミ漁りで飯を食わなくていいように、土に塗れて自分の腹に入らない作物を育てなくてもいいように。清潔な服着て、腹いっぱい飯食えて、人に愛される生活のためにお前を学園に入れたんだ」
「辞めるなんて、絶対に許さないからな」
鬼気迫る彼の圧力は彼女に有無を言わせない。
「...っ、どうして...」
イリーゼはぐっと目を瞑って頭を振ると、押し殺すようなため息と涙を膝へ零した。
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