31.絵の中の草原
魔物狩りを終えた平原。
ふう、と上がった息をついた赤狼は、己の背後で手帳を抱きしめるルカーシュを振り返った。
「さあ、あらかた片付けたぞ。好きなだけ描くがいい」
足元に散らばった死骸を蹴り避けながらも、狼面の兜が笑う声は明るい。
ルカーシュは「は、はいっ」と慌てて返事をすると、ポケットの中から木炭を取り出した。
そしていよいよ描き始めるのか、と思えば———
彼はその場で両手の指を額縁のように合わせて景色にかざし始める。
「なにしてんだ?」
と赤狼が隣に立つと、彼は右左へ向きを変えながら「構図を探しているんです」と答えた。
「構図?」
赤狼は少し背伸びをして、指の額縁を覗き込む。
ルカーシュは暴れ者の赤狼に似合わぬ可愛らしい仕草にくすりと笑った。
「ええ。ただ目の前を描くのではなく、絵になる構図を探します。平原はただでさえ起伏が少ないので、木や花、池など...、絵は目を楽しませるものですから」
「ふうん...。でも俺は、平原に何もなくても好きだけどな。一面に草が波立てば、風と一つになれるだろ」
赤狼は身を寄せたまま呟き、ルカーシュは目を丸くする。
「ずいぶんと詩的な事を言うのですね」
まさか粗雑な彼にそんな一面があったとは。
思わず彼に目をやれば、赤狼はすとんと浮かしていたかかとを下ろして「そうか?普通だろ」なんて相変わらずぶっきらぼうに答えた。
「で?構図は決まったのかよ」
「...あっ、ええ。だいたいは」
ルカーシュはハッとして彼に返すと、「ここにします」と向きを決めた。
ようやくか、と赤狼が期待の色を見せる。
が、ルカーシュはそこから指で水平に視線を合わせたかと思うと、今度は垂直に構えて何かを測る。
そして彼はその場から真っ直ぐさくさくと一定の歩幅で歩いてもとの場所に戻り、次は右に歩いて、また戻った。
「今度はなにしてんだよ?描かないのか?」
すっかり待ちくたびれた赤狼が、朽ちて倒れた木に腰掛ける。
するとルカーシュは「んん...、もう少し」とまた左にさくさくと歩いて、やっと戻ってきた。
「距離を測っていたんです。大体の目の前の距離感さえわかれば、歩幅で景色の奥行きや広さの目測が付きますから。風景画はパースが合わないとおかしな絵になるので」
「パース?」
赤狼が首を傾げる。
ルカーシュは手帳を開くと、サッサッと慣れた手つきで上下に線を描いて見せた。
「パース...つまり遠近感のことです。人の目は遠いものを小さく、近いものを大きく見せる。当たり前のことですが、このバランスが整っていないと平面的な絵になります」
彼はそう言いながら、線に合わせて風景をサラサラと描写していく。
「ほら、この線がせばまるところに奥の山がちょうど入ります。すると手前の茂みが広がった線へと重なる。そうすると、見たままでしょう」
彼の描いた山や茂みが、手帳の中に奥行きをつくる。隣で眺める赤狼は、「へえ!」と興味深そうに感嘆した。
「すごいなこれは!絵ってのも、ただ描きゃいいもんじゃないんだなあ」
楽しそうに笑った彼は、ルカーシュの背をばん!と叩く。叩かれて「うっ」と声を上げた彼は、あまりに無邪気な反応に小さく笑った。
「ふふ。...嬉しいですね。そんな風に言ってもらえるのは」
彼は銀の睫毛を伏せて、頬を緩める。
「...純粋に評価されるのは初めてです。姫様も絵を褒めてくれはしましたが、それは見返りを求める賞賛でしたから」
赤狼は「ふうん?」と軽く語尾を上げる。
ルカーシュは彼の気の抜けた返事が妙に心地よくて、木炭をするすると滑らせながら言葉を続けた。
「姫様は、...きっと寂しいお人でした。我儘でいつも余裕がなくて、誰かを...美しい者を側に置きたがりました」
彼は穏やかな表情で、紙の上に水平線を描く。
「ですから、何も持たない見目だけの私に“逃げ場”を与えた。そうすれば私は、姫様なしには生きていけなくなる」
彼は言葉を続けながら、さ、さ、と木炭を走らせて、指でぬぐうようにそれらをぼかす。影となったそこにまたなめらかな線を加えていった。
「姫様は私を認め、絵を褒めることで、私の依存を求めたのでしょう。私の絵を“最高に素敵”と言いながら、あの人の視線はいつも絵になど向いていませんでした」
彼の手が生み出すのは、細く流れる雲、風に揺れる草の波。柔らかな日が当たり、影を伸ばして茂る葉の重なり。
王都には無い、澄んでひらけた風景だ。
「あの城の内は甘やかな世界でしたが、...虚しい世界でもありました。それは姫様も私も、きっと同じです」
ルカーシュは寂しげに紅の瞳を細めながら、動かしていた手を置いた。
そこには見たままの、雪解けの草原があった。
どこまでも見渡すほどの晴れた空。
薄く溶け残った雪に、風が吹き渡る平原。
奥に聳えるのは切り立つ山々と、足元には新芽を芽吹かせるイラクサの茂み。
そして黒い土の上で首を垂れる、白い花々。
まるで景色を切り取ったように、手帳の中に平原が広がっていた。
「その姫様っつうのはよくわからんが、この絵はいい。...特に俺には...良く、見える」
黙って絵を見つめる赤狼が、静かに言葉をこぼす。
「俺の好きな平原を、お前は見ている」
彼は手帳を受け取ってつぶやくと、愛おしげに指で絵の中の草原を撫でた。
予想に反する反応とあまりに優しいその触れ方に、ルカーシュは隣の狼面を見つめた。
てっきり豪快に「すごいな」なんて笑って、また肩でも叩かれると思っていたのに。
彼の中の荒々しさは消え去り、重々しい鎧の内には静けさが満ちている。
魔物の血がついた鎧をかすかに軋ませ、赤狼は手帳に描かれた草原をじっと見つめた。
絵の中の平原は、ただ穏やかに美しい。
そこには魔物の影もなければ、散らばる死骸も、争いの跡も見当たらない。
青い草の匂いのする、見慣れた景色。
赤狼は熱の込み上げる喉から、ようやく声を絞り出す。
「...空が高い、風がある...」
描かれた景色は、焼きついた記憶を呼び起こす。
「今にきっと鷹が輪を描いて飛び、馬の群れが若草を喰むだろう...」
兜の内で、彼の声が震える。
「そして、そこには...」
何かを言った彼の声は、くぐもって聞き取れない。
ルカーシュは両手で手帳を持ったまま動かなくなってしまった赤狼を、おず、と控えめに覗き込んだ。
「...とにかくいい絵だ。お前には才がある」
視線に気づいた赤狼がぱっと顔を上げ、ルカーシュに手帳を押し返した。
兜の内の声は、まだかすかに震えている。
ルカーシュはそれに気づきながらも、なぜか触れる事は出来なかった。




