30.春告げ花
広く堅牢な屋敷の中。
厨房、執務室、書庫...、と時間をかけて丁寧に案内されて回る道筋。
ゆったりと先の廊下を歩むジェンキンスが、外へと繋がる扉を引いてイリーゼを振り返った。
「こちらは庭園でございます」
「雪解けの今はスノードロップのみですが、もうしばらくしたら一面にクロッカスが咲き始めるでしょう」
針葉樹と背の高い白樺に囲まれた、小さな庭園。
まだ雪の残る芝生に、枝先にようやく葉が芽吹き始めた裸の木々たち。その中央に置かれた木製のティーテーブルと椅子が一組。
それは庭というにはあまりに無骨で、どちらかといえば森に近い。華やかな王都の庭園とはまったくかけ離れたものだった。
「ほら、こちらがスノードロップですよ」
ジェンキンスの指し示す指先には、小さく首を垂れる白い花。透明な朝露を纏う花びらは、黒く湿った地面を淡く照らすよう。
「かわいい花...」
思わずしゃがみ込んで見つめた彼女に、ジェンキンスも同じく腰を下ろして穏やかに微笑んだ。
「花言葉は“希望と慰め”。“雪の耳飾り”とも呼ばれます。辺境に最初の春を告げる花ですよ」
彼は雫のように下がる花弁を指先で揺らす。
揺れた花弁はまさに小さな耳飾りのようで、イリーゼは口元を綻ばせた。
「植生の勉強はしたけれど、この花は初めて見ました。ジェンキンスさんって物知りなんですね」
感嘆した彼女へ、彼は「もちろん」と頷く。
そしてほんの少し胸を張って、にこっと彼女へ笑みを向けた。
「この屋敷の事であれば、わたくしは何でも知っているのです。庭の花も、書庫の本の数も、絨毯のほつれも...。もちろん旦那様や奥様の事から、ここでお過ごしの兄君のご様子まで」
自慢げに言って見せた彼が悪戯っぽくぱちんと片目を閉じると、イリーゼは目を見開いて薄紫の瞳を彼へと向けた。
ジェンキンスは柔らかに鈍色の目を細める。
「イリーゼ嬢。貴女の兄君はよく鍛錬に励み、よく働く立派な騎士です。先日も旦那様がおられない中、魔物を誰より多く狩って戻られました」
「我が領の騎士団は他と違い、討伐数に応じて基本給へ上乗せた報酬が与えられます。彼はそれを知って休憩も取らず狩り、それでも“妹の学費にはまだ足りない”、と」
その言葉を聞くと、イリーゼは何かを堪えるような顔をする。
そして悲しげにうつむくと、
「いいのに、学費なんて」
と独り言のように呟いた。
だがジェンキンスはあえて触れずに、優しく微笑んで彼女を待つ。
聞こえるのは木々のざわめきと、鳥の囀りだけ。
しばらくの沈黙の後に、イリーゼが静かに口を開いた。
「...王立学園は貴族の学舎ですから、学費が莫大なんです。本来はわたしなんかが通える場所じゃありません」
彼女は自嘲するように薄く笑う。
それはどこか、自分を責めるような笑みだった。
「遠征先でたまたま聖女様に見初められて、兄はわたしの入学を条件に聖騎士になりました」
足元には雪とよく似た春告げ花。
しゃがみ込んでようやく目に入る、純白の野花。
イリーゼはうなだれた花びらをそっと持ち上げた。
「だから兄さんは...、わたしの為に聖女様に身を差し出したようなものなんです」
かすかに睫毛を震わせた彼女は、花びらが指の熱で萎れる前に手を離す。
朝雫が黒い地面に落ちて、じわりと消えた。
「わたしは納得してなかったけど、兄さんが“学をつけろ”、“お前のためだ”と言うから受け入れました」
そして彼女は、きり、と小さく奥歯を鳴らす。
「...平民上がりですから、“土臭い家畜”、“身売りで得た学”と歓迎はされませんでした。ようやく得た教科書を手洗い場に沈められた時は、思わず手が出そうになったけど...。兄の顔を潰したくなかったから、なんとか耐えました」
ジェンキンスは彼女の幼い顔立ちが悔しげに歪むのを、痛ましい顔で見つめた。
辺境で育った彼は、遠い王都の学園については存在を知るくらいのものである。
だがよもや王国を担う貴族の学生が、ただ平民生まれという理由だけで少女を痛ぶる陰湿とは。
旦那様が王都を好かれないのは、そういった王都の気質ゆえだろうか。
「兄を侮辱した貴族達を見返したくて、わたしは全力を尽くし、飛び級してついに主席を勝ち取りました。それが兄さんのためになると信じて」
うつむいたイリーゼは己の小さな手のひらを見つめる。そしてぐっと握ると「...なのに、」と声を詰まらせ、手の中に爪を立てた。
「貴族教育の行き着く先は、そんな奴らの元へ奉公し、あわよくば嫁ぐ事だと言うじゃないですか...!!兄のために学んだ全てを、わたしは兄を嘲った貴族達の為に捧げるんです!それが私の幸せだって!」
ぎゅっとつむった睫毛にじわりと涙が滲む。
彼女は体を震わせ、怒りを足元に吐き出した。
「いやです、絶対に嫌...っ!!兄さんが必死に稼いだお金で、意地の悪い貴族の子を産んで、王都でなんか暮らしたくない!」
「それでどんなに裕福になろうとも、それが唯一の希望だなんて慰められても、そんな生活で...笑って生きるなんて出来ません...!」
掠れた少女の白い息が、昇って空へと消えていく。
ぱた、と赤い頬から落ちた雫が足元の花弁を打って揺らした。
「それに、もうお金はどうやったって足りないんです。ここでどんなに頑張っても聖騎士の時の稼ぎとは天と地の差。これから先きっと、兄は借金をすることになります」
そこまで言い切ったイリーゼは、顔を上げて立ち上がる。
「...だからわたしは、兄を止めに来ました」




