19.去りし冬、訪れる春
ファビアンが屋敷から去って二週間余りが経った。
辺境はようやく春を迎え、雪溶けと共に緑が芽吹き始めている。肌を刺すような寒さは緩み、灰色だった空は時折雲間から青空が覗くようになった。
そして訓練場にて鍛錬を終えた騎士達が休憩をする中、一人の騎士が口を開いた。
「ファビアン殿は元気にしているかなあ」
彼はまだ20代の、ファビアンと変わらぬ歳の青年。
晴れた空を見上げてつぶやいた彼に、隣の騎士も頷いた。
「あのまま残ってくれれば、良い戦力だったのだが」
少し寂しげに言う中堅の彼に他の騎士達も続いた。
「楽しい奴だったよなあ」
「もっとあいつの剣も見たかった」
「酒は飲めるし、場が明るくなったし」
「軽く見えてなかなか見どころのある男だった」
そう、辺境にはない陽気さと人懐っこさ、加えて確かな実力を見せたファビアンにすっかり彼らは絆されてしまっていたのだ。
口々に言った彼らは盛り上がると、もう帰ってしまった事実にはあ...とため息をつく。
「あんな奴がまた来ないものかなあ」
過酷な訓練、厳しい土地、増える魔物。
そんな辺境に身を置く彼らは、去ってしまった“良き新顔”が恋しくてたまらないのだった。
・・・
「すっかり士気低下だなあ」
彼らの様子を眺めていた赤狼が、首元の汗を拭くセリウスに声を掛ける。セリウスは一つため息をつくと、やれやれと彼らを見やった。
「まったく、人ひとり居なくなっただけで軟弱な。突然騒がしさが消えて慣れんだけだろう」
実際、あのファビアンの騒がしさが急に消えると拍子が抜けたように辺境は静かだ。
だが奴は今頃、あの聡明そうな奥方と共に領地経営に精を出している頃だろう。
それにどうせ、あいつの事だ。またしばらくしたら騒がしく訪ねてくるに違いない。
「俺としては、ようやく奴が帰ってくれてせいせいしている。こうして君と話せる時間まで奪われていたからな」
そう言って赤狼に微笑みかければ、鎧の中の妻は少し怯んで背を向ける。
「ったく、それくらいで嫉妬するなんてお前の方が軟弱じゃないのか」
言い捨てた彼女が「鎧を脱いでくる」と屋敷に向かう後ろ姿を、セリウスは満足そうに見送った。
「だからってなんでこうなるんだよ!?」
屋敷でドレスに着替えたステラは、戻ったセリウスに後ろからもたれかかられるように抱き込まれていた。
「君のせいで俺は軟弱になった。だから君が責任を持って癒すべきだと思う」
セリウスはそんな事を低く囁きながら彼女のこめかみに頬をすりよせ、ぎゅう、と抱きしめる手に力を込める。
ステラは真っ赤になりながら、彼の腕の中で身を捩った。
「だからなんであたしの責任になるんだ!ファビアンが帰った途端にどこでもべたべたくっつきやがって!ひっつき虫かお前は!」
「虫とは傷つく事を言ってくれるな。軟弱な俺には耐えかねる言葉だ。君の愛で治療されなければこの傷は治りそうにない」
「自分で言ってて恥ずかしくないのか!?」
かあっと耳まで赤くなったステラは、首筋に顔を埋められて肩を縮める。
だが彼の大きな体で抱き込まれると、まるで逃げ場がない。そのままいくつもキスを落とされていく感触に耐えながら、ステラはぎゅっと目を瞑った。
「君が“興味がある”だとか“懐かせた”などと誤解を招く発言を繰り返したせいだろう?俺は君を奪われるのではないかと気が気ではなかった」
長い指でするりと頬を撫でられ、ステラはぐっと言葉に詰まる。事実、こいつは派手に誤解をして強硬手段にまで持ち込んだのだ。あの怯えたような金の瞳は衝撃的で、まだ記憶に残っている。
「だが、君は俺を好いていると言った。ならば存分に妻を愛でていいはずだ。君自身が合意をくれたのだからな」
セリウスはあれからさらに余裕を纏うようになり、遠慮一つなくこちらに触れるようになってしまった。かつては無表情が常だったと言うのに、今や毎日機嫌がいい。その浮き立った様子たるや、そのうち鼻歌でも歌い出すのではないかと思わせるほどに。
「合意はしたが、ここは書庫だぞ!?なんで調べ物をする為に入った書庫でこうなるんだっ!」
今世に来るまでに変わってしまった辺境の歴史と地理について調べたい、と入った瞬間にいきなり抱き込まれたのだ。仕事ついでに手伝うと言ったくせに、これでは話が違う!
「その通りだが?そしてここは俺の屋敷だ。どこでどうしようが俺の自由だ」
「はあ!?」
まさかこんな場所で、と慌てて声を上げかけたところですっと後ろから手が伸びて、目の前の本棚の背表紙に指をかける。すると取り出した分厚い本を手の中に押し付けられた。
「君の探していたものだ。持っていろ」
両手に握らされたのは“北方地方の歴史地理における推移記録書”と記された厚い書物。
ステラが驚いて目を丸くした途端、セリウスは彼女をぐいっといきなり抱き上げた。
「わっ!?なんなんだ急に!」
いわゆる姫抱きというものをされて、ステラは恥ずかしさに本を抱えたまま抗議の声を上げる。
セリウスはそんな彼女にも楽しげな笑みを浮かべるばかり。足で器用に書庫の扉を開けるとそのまま廊下を進んで行ってしまう。
「お、下ろせってば!自分で歩ける!!」
「何を当たり前のことを。俺がこうしたくてしているだけだ」
じたばたと足を動かす奥方に悪戯っぽく口の端を上げて歩む主人に、通りかかったラウールが生温かい視線を向ける。
あの剣にしか興味のなかった堅物がずいぶんと人間らしくなったことで。だが主人夫妻が円満なのは、家臣として何よりである。
くすりと笑って彼はその場を後にした。
ステラを抱えたセリウスは執務室の扉を開けると、長机に備えられた肘掛け椅子に腰を下ろす。
彼の腕におさまったステラが意味がわからず見上げると、彼は書類を一枚広げて羽根ペンを取り出し、何事もないようにインクを付ける。
「俺は仕事をするから、調べ物ならここでしろ」
軽く額に口付けを落とされ、ステラはますます意味がわからず「はあ?」と疑問の声を溢した。
「何がしたいんだお前は」
「見てわからないか。君を抱えたまま仕事をすれば、どちらもこなせて効率がいい」
「いや効率悪いだろ」
呆れて言えば、セリウスは「それは君が決めることではない」なんて返してサラサラと羽根ペンを滑らせる。
ステラはすっかりこちらを手放さなくなってしまった彼を、なんだこいつ...、とばかりに見上げた。
見上げた先には、通って引き締まった輪郭に、低い声を紡ぐ張り出た喉仏。
質量をもってさらりと流れ落ちる黒髪に、その内から覗く涼やかな金色の瞳。
改めて彼の男性的な色気に当てられ、どきりと跳ねてしまった胸を本で抑えてステラは誤魔化す。
そして小さな息を逃して、不満ではあるが逃げられないなら仕方がない、と諦めるフリをして本を開く。
セリウスはそんな彼女をちらりと眺めると、満足そうににまりと唇を上げた。
ようやく夫婦の日常が帰ってきた。
それもより甘美に、愛しい妻の独占が叶う形で。
春の陽気を纏った午後の日差しの中。本をめくる妻がゆっくりと体の重みをこちらに預け、微睡んでいく。長い睫毛に縁取られたエメラルドの瞳がゆっくりと瞬きをする姿は、これ以上なく美しく、幸せな光景で————
そんな幸せに浸っていた瞬間。
コンコン、と扉が外から叩かれる。
セリウスはぞわりと嫌な予感に襲われ、目を瞑って眉をぐっと寄せた。
————
「やっほ〜セリウス!また来ちゃった⭐︎僕がいなくなってそろそろ寂しかったんじゃない?まあ残念ながら僕はすぐ帰るんだけどさ!」
ファビアンはにっこにっこと屈託のない笑みを浮かべると、両脇に立った二人の男をぐいっと前に突き出した。
「ほら、懐かしいでしょ?聖騎士仲間のルカーシュにイズラール!王都で困ってるところに出会してさあ、せっかくだから二人とも連れてきちゃった!ここなら僕が抜けたぶん空きがあるし、戦力にもなるでしょ?僕の顔を立てて置いてあげてくれる?ね、いいでしょ?奥方様!」
てへ、と微笑むファビアンに、両脇で気まずそうに目を逸らす二人の男達。
「あらあら、また賑やかになりますわね」
なんておかしそうに微笑んだステラを順に見て、セリウスは激しい頭痛に見舞われ頭を抱えた。
「ファビアン、貴様と言う奴は...ッッッ!!!!」




