17.辺境に消えたい男
「お前は馬鹿真面目だから気づかなかっただろうが、ファビアンはいくつも嘘の皮を被っている」
「嘘の皮だと?」
ベッドの上に運ばれた朝食に待ちかねたとばかりに手をつけるステラの言葉を、側に掛けたセリウスが繰り返す。
「言ってみれば入れ子人形だ。あたしはあいつの隠してるものを暴こうとしてたんだよ」
黒パンの上にバターとコケモモのジャムをたっぷり塗りつけると、ステラはざくりと大きくかじった。
空きっ腹に甘酸っぱさが沁みるようで、噛み締めながら「うまい」と唸って瞼を閉じる。
そんな姿にセリウスはようやく昨夜の合点が入って、呆れたため息と笑みを零した。
まったく。奴へのあの意味深な言葉はすべて、分析対象としての興味だったと言うわけか。
「あの笑顔を剥いでやろうと懐かせて一枚剥がしてみたが...まだ腑に落ちんところがあってな」
ステラは紅茶を傾けると、ごくんとパンを流し込む。セリウスも皿からパンを取ってナイフでバターを均しつつ、「ふむ」と相槌を打った。
「あいつは“自分の立場と妻の立場を比べ、それが原因で何年も当たり散らした結果追い出された”と告白した」
潰したゆで卵をベーコンに乗せて、はくり、と口に含んだステラはフォークを弄ぶ。
「だがそれが本当なら、なぜそんなクズが抵抗しない?ヴィオレッタが奴を責めて叩き出そうとしたとして、相手は女だ。剣を握れるファビアンが易々と追い出されると思うか?」
薄く削ったブラウンチーズをパンに乗せたセリウスは、「否だな」と答えて上品に齧った。
ステラは薄緑色の豆のスープを掬いながら続ける。
「簡単に女の手で追い出され、わざわざ遠く離れた辺境まで着の身着のままやってきて、“追い出されて当たり前だ”なんて事を言う。長く妻を虐げてきた人間がコロッと善人に変わるなんて、話が上手すぎるだろう」
「つまり何だ」
紅茶のカップを置いたセリウスがステラを見つめると、彼女は口からスプーンを抜き取って答えた。
「あいつはこんな場所に逃げてくるだけの理由が他にあるってことだ。やましさがなきゃ、そんな嘘をついてまで厳しい辺境に身を置くわけがない」
そこまで言うと、彼女は得意げに口の端を上げる。
「おそらく奴は今日中に新しい名前と借家を欲しがる。ジェンキンスが戻るまで上手く引き留めておけよ」
————
ステラが言った通り、その日の夕食前にはファビアンが執務室の扉を叩いた。
書類の積まれた長机で彼を迎えたセリウスは、堅く四角張った字を書き付けながら「何の用だ」と彼の方向を見ずに尋ねる。
ファビアンは相変わらずつれない様子の彼に、にっこりと微笑んだ。
「昨日は奥さんに好きって言ってもらえた?」
予想外の台詞に、セリウスは思わず咽せ込む。
何度か大きく咳払いして慌てて羽根ペンを置くと、彼は少し顔を赤らめて眉を寄せた。
「そんな話をここまで聞きにきたのか」
「だって気になったんだもん。でもその様子だと大成功だったみたいだね?さぞかし甘くて熱い夜を過ごしたんでしょ?いいなあ〜!独り身になった僕には羨ましい話だよ〜」
にまにまと顔を覗き込むファビアンに、セリウスは「下世話な憶測をやめろ」とじとりと睨み返す。
ファビアンはそんな彼にあはは、といつものようにおかしそうに笑うと「ごめんごめん」と軽く詫びて見せた。
「それでさ。お熱いご夫婦の邪魔をしちゃ悪いから、そろそろどこかに家を借りたいと思ってね。ついでにせっかく新しい土地に来たし、名前も変えちゃいたいんだよね。領主の君なら出来るでしょ?」
机の端に腰を預け、世間話のように問いかける彼にセリウスは「ほう?」と眉を上げる。
「ずいぶんと急な話だな。てっきりお前はここに居座るのかと思ったが」
彼の訝しむ表情に、ファビアンはわざとらしくため息を吐いて語り出す。
「僕だって良識くらいはあるからね。いつまでも元同僚の屋敷に居候なんてできないよ。そうそう!新しい名前なんだけど、トビアスなんかいいと思うんだ。飲み屋で騎士達に教えてもらったここらの名前の中じゃ、イケメンっぽいと思わない?僕にピッタリでしょ!」
「だが何故、名前まで変える必要がある」
「そりゃあここで馴染んで生きていきたいからね。そうだ、トビアス・コールマンなんかどう?そのへんに居そうな感じでしょ!」
ひら、と手のひらを見せて笑うファビアンに、セリウスは書類を纏めて立ち上がると、審査するようにじっと見下ろした。
「えらく焦っているな、ファビアン。何かに追われでもしているのか?」
ファビアンはセリウスを見つめ返すと、何でもないように瞳を細める。
「どうして?僕を追う者なんてもうどこにもいないよ。妻にも見放された、何の価値もない男だ。ひっそりと生きちゃ駄目なのかい?」
やれやれ、と肩をすくめる彼に、セリウスは視線を向けたままほんの少し口の端を上げた。
「いいや。だが今のお前は、何かから逃げているように見える」
「...何の話かな」
ファビアンは声を低めつつ笑みを浮かべる。
セリウスは近づくと彼の二の腕をぐっと掴んだ。
これ以上逃さないとばかりに、布の上から力を込める。
「聖騎士の地位を失い、落ちぶれた烙印を押された三男坊は、出来た妻の側にいるのがよほど心苦しかったか」
「...離してくれ、セリウス」
金の瞳で見定められたファビアンが、掴まれた腕を強張らせる。セリウスはぐいと彼の腕を引き寄せると、間近で低く問いかけた。
「己に向き合おうとする努力家の妻へ、耐えがたい負い目を感じていたそうだな」
「......離せ」
「嘘をつく輩というのは、総じて己に自信が無い輩だ。お前は自分の所業を隠し、罪悪感を塗りつぶし、己の存在を消し去ろうと躍起になっている」
「離せと言っているだろう!!」
バッと腕を振り払い、ファビアンが後ろに引き下がる。その瞬間、背後の扉が大きな音を立てて開け放たれた。
「ファビアン!!!」
その場に飛び込んだのは、亜麻色の緩やかな巻き毛の貴婦人。小さな丸眼鏡の奥には、すみれ色の瞳がいっぱいに涙を溜め込んで溢れている。
「ヴィオレッタ...!?」
振り向いたファビアンが青い目を見開く。
ヴィオレッタは彼に駆け寄るとその手を振りかぶり、思い切り彼の左頬を引っ叩いた。
パンッ!と高い音が執務室に響き、ファビアンが頬を抑える。
ステラとジェンキンスが廊下に控える前で強かに夫の頬を叩いたヴィオレッタは肩で息をすると、ぼろぼろぼろっと瞳から涙を溢して両手を握った。
「どれだけ、心配したと思うの!あなたが急に姿を消して、どれだけわたくしが必死に探し回ったと...!!」
ヴィオレッタは怒りに肩を震わせながら、ファビアンに激しく詰め寄る。
「あの置き手紙はなんなの!“二人は白い結婚であったと血判を以て証明する”、“ここにヴィオレッタ・リュシエール伯爵との婚姻を解消する”、“どうか僕を忘れて幸せになってくれ”!?」
「こんなものだけ書き置いて、ラングロワ家にも黙って消えて!わたくしは...、あなたがどこかで、命を絶ってしまったんじゃないかって...!!」
そう、ステラの言った“王都の行方不明者”とはまさに、辺境へと消えたファビアンの事だったのだ。
ヴィオレッタはそこまで叫ぶと、震えながら彼の袖を握って俯いた。
「ほんとうに、気が、気じゃ、なくて...」
消えていく声とともに、ぽろ、ぽろ、と透明な雫が絨毯へと滲みていく。
「ヴィオレッタ...、ごめん、でも、僕は...」
ファビアンは焦って涙を流す彼女に触れかけて、ぎゅ、とその手を握って体の横へと押し込める。
そして見られたくないもののように、自らの顔を妻から背けた。
「僕は聖騎士じゃなくなって、君を養えなくなった...。その上、“姫殿下のお人形”だった僕だ。姫君を毎夜のように抱くばかりか、何年も殿下の前で君の事を嘲笑い、見下し、妻としての品格を地に落とした...。君の悪口で笑うような男だよ、僕は」
ファビアンはそう言って視線を昏く落とす。
「今や“男娼まがいの騎士崩れ”として見下される存在でしかなくなり、所属する場所もなく、伯爵としての君の立場まで危うくする。もう、君にとって不要な男なんだ。僕は最低な人間だよ」
己が許せないとばかりにきつく爪を立てた彼の拳を、ヴィオレッタは上から柔く包み込む。
声を震わせ、赤く腫らした瞳で彼女は呆れたように笑った。
「嘘付き、あなたはいつだって嘘ばっかり...。あなたは姫殿下の前でわたくしを貶すことを、楽しんでなんていなかった。身体を差し出す事を、割り切ってなんていなかった...」
そっと手の甲をさすられ、ファビアンは感触に耐えられないように目を泳がせる。
ヴィオレッタは小さく鼻を啜って、そんな彼の瞳をじっと見上げた。
「...城から帰った貴方が隠れて吐き戻していたことを、気付いていないと思ったの?わたくしに触れないのも、あなたが部屋の鏡を全て布で隠して、結婚式の絵姿を裂くほどに“己が醜い”と苦しんでいるからだと、気付いていないと思ったの...?」
「...っ」
ファビアンが小さく息を呑む。
ヴィオレッタは震えた声のまま、言葉を紡いだ。
「それなのに、貴方はいつだって笑顔で...わたくしを支えてくれたわ。努力を誉めて、毎日冗談で笑わせて、たくさん話を聞いてくれて...。植生研究の為の現地調査も、膨大な資料を纏めるのも...、私の苦手な対面取引を引き受けて、領地経営に尽力してくれた...」
ファビアンは彼女の言葉にはっと顔を上げると、痛みを堪えるように目を細めた。
「それは、違う。僕には何もないからそうしただけだ。騎士の矜持も、何かに向ける努力も、勤勉さも...。君に関わることがただ、僕にとっての救いだったんだよ。何も持っていない自分を見なくて済むから...。ヴィオレッタ、卑怯なんだ、僕は」
吐き捨てるように言った彼は、ぐ、と目を瞑る。
ヴィオレッタはそんな彼の手に力を込めて身体を近づけ、優しく頬を撫でた。
「卑怯だってなんだっていいわ。それに貴方は忘れてる。まだ貴方には残ってるものがあるじゃない。聖騎士じゃなくなっても、ちゃんと貴方の中に」
ファビアンは頬を撫でる手に微かに指で触れた途端、怯えたように距離を取る。
そして机に背が当たると、震えた己の両手を光のない瞳で茫然と見つめた。
「...無い、...無い、...何も無いよ...。僕には君を貶めるものしか、残ってない...」
「君は美しい伯爵当主だ。清らかなまま子供もいない。今からだっていい相手を見つけられる。もっと価値のある人が君には必要なんだ...。何も無い僕に奪われた君の人生を、...やり直して欲しいんだよ...」
「僕は、からっぽなんだ...、何も君に与えられない...!」
ファビアンは伸ばされたヴィオレッタの手を振り払うと、両手で顔を覆ってうずくまる。
「だから、帰って...僕を忘れて...。君に僕は、相応しくない...」
その身体はひどく震えて、まるで無防備な幼子のよう。ヴィオレッタはぐっと唇を噛んで涙を堪えると、彼の前にしゃがみ込んで、そっと頭を胸に抱えた。
ひく、とファビアンの背中が驚いたように跳ねる。
「ファビアン。あなたは、本当は誰よりも努力の人よ。わたくしは知っているの。だって、ずっと見てきたもの。ずっと、ずっと...子供の時から」
彼女は震える彼の頭を、さらりとした金髪を優しく梳くように撫でていく。
「貴方の剣は、努力の剣。技を極めて、研ぎ澄まされた美しい剣。わたくしは貴方の剣が好きだった」
「...、やめて...」
「貴方は相手の気持ちが気になって仕方ない怖がりさんだから、誰にだって優しくて紳士的。そんな貴方はどんな騎士よりも騎士らしかった。わたくしはそこにずっと惹かれていたの」
「...やめて、ヴィオ...頼むから...」
ファビアンが、懇願するように頭を振る。
けれども彼女は両手で彼の輪郭に触れると、そっと顔を上げさせた。
「見ないで、ヴィオ...僕は...」
濡れた青い瞳が耐えられないように歪む。ヴィオレッタはそんな彼に向かって、潤んだすみれ色の瞳で包み込むように微笑んだ。
「いやよ、わたくしは“弱くて努力家の幼馴染”が大好きなんだもの」
「...っ!」
ファビアンの目が大きく見開かれる。
ヴィオレッタは彼の頬を両手で愛おしそうに撫でると、目尻を細めて囁きかけた。
「貴方が聖騎士じゃなくなって、やっと本当に夫婦になれるんだと思ったわ。わたくしは嬉しかったの。ねえファビアン、“貴方とやり直せる”って思ったのよ...!」
「ヴィ、オ...レッタ...」
青く透き通った瞳から、筋となって涙が零れ落ちる。
「...取り戻しましょう、二人で、少しずつ」
赤く頬を濡らしたヴィオレッタが両手を広げると、ファビアンは眩しさに眩んだようにぎゅ、と一度目を瞑る。そして息を吸うと————
————思い切り彼女の身体を抱き締めた。
「ごめん、ごめんね、ヴィオレッタ...、本当に、ごめん...」
少年のような拙い言葉で何度も謝るファビアンの姿は、もう嘘の微笑みなど纏っていない。
幾重にも重ねられた嘘はすっかり溶け去り、そこには確かな妻への愛情だけが残されていた。
舞台に立ち続けた人形は、一人の平凡な夫に戻った。嘘で塗り固められ、本人すら見失っていた己の価値を、ようやく彼は見つめ直した。
セリウスとステラは彼らを挟んだ部屋の内と外から視線を向けて、互いに小さく微笑みを交わす。
そして王都へと馬を往復させた功労者のジェンキンスは、ふっと満足げなため息をついて口髭を撫でるのだった。
ファビアンの入れ子人形の層は、陽気な道化、聖女の人形、最低な加害者、改心した男、罪からの逃亡者、空っぽの自己否定、本当は努力の男という層になっていました。皆様の予想はどんな感じだったのでしょう?お聞かせいただけると喜びます。
まだ続きます。




