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帰宅

 自分の家だというのに、僕はなかなかドアを開ける勇気が出せなかった。

 家に入ればまだ、死体が転がっているかもしれない。あの無残な死体が。死体は残っていなくても、臭いは残っているだろう。

 もしかしたら、キタガミさんがまだ死体を「処理」している最中かもしれない。もし、バラバラになった肉片が落ちていたりしたら……。

 僕は恐ろしくなって身震いしたが、いつまでも自宅の前で立ち往生しているわけにはいかない。覚悟を決めて鍵を開け、ゆっくりドアを開けると、そろりと体を家の中へ滑り込ませた。

 リビングに面したドアはぴしゃりと締め切られていた。その奥から、微かに人の話し声が聞こえる。キタガミさんが誰かと話しているようだ。相手の声は聞こえないから、電話しているのだろう。

 好奇心に負け、僕はそっとドアの前に近づいて聞き耳を立てた。ドアはそんなに厚くないはずだが、キタガミさんは声を潜めているらしく途切れ途切れにしか聞こえない。

「仕方ないっす……やっちまたもんは……ええ、その節はご迷惑を……ああ……責任は俺が取りますんで……はい、引き続き……」

 そこで声が途切れ、いきなり目の前が開けた。キタガミさんが僕を見下ろしている。

「盗み聞きたぁ感心しねえな」

「す、すみません、つい」

 僕は慌てて謝る。キタガミさんは溜め息をつくと、ドアを開け放った。

 その瞬間、強い匂いが僕の鼻腔を刺激した。血の臭いではない。香水を煮詰めたような甘い匂いだ。

「芳香剤を置いて、消臭スプレーを大量にかけてる。これはこれで良い匂いとは言えねえが、鉄臭い臭いと肉の腐った臭いが充満するよりはマシだろう」

 なるほど。言われてみれば、複数の芳香剤の匂いがする、ような気がする。

 僕は死体があった場所を見た。カーペットが取り替えられている。そこにはもう、何もなかった。血痕一つ残っていない。

「キタガミさん……死体……どうしたんですか」

「山に埋めた」

「山って……どこの」

「うるせえな。お前が気にするこたぁねえ。それより、飯は」

「あっ」

 すっかり忘れていた。僕は食欲など湧かないからなくても構わないが、キタガミさんを呼びつけておいて何もなしというわけにはいかない。

 冷蔵庫に残っている食材を思い出す。どうにか一人分くらいはできそうだ。

「ちょっと待っててください。用意します。ありあわせのものですけど」

「いいよ、作らなくても。食ったのかどうか聞いただけだ」

「僕ですか? 食べてないですけど……」

「じゃあこれ、食え」

 キタガミさんはソファの上に置かれていたビニール袋を手に取り、僕に突きつけてきた。中を覗き込むと、半額シールが貼られたとんかつ弁当が入っていた。

「食欲はねえだろうが、お前には早いとこノリを見つけてもらわなきゃならねえ。体調を崩されでもしたら困る。無理矢理にでも詰め込んどけ」

「あ……ありがとうございます。キタガミさんは?」

「俺はもう食った」

 キタガミさんが親指でキッチンの方を指す。そこで食べたということなのだろう。確かにリビングは、死体の発見場所ということを抜きにしても、匂いがきつくて食事などできそうにはない。

 食べ物を見てもやはり食欲は湧かなかったが、キタガミさんの厚意を無下にするわけにはいかない。それにキタガミさんの言うとおり、僕には明日からもすることがあるのだ。明後日からは普段通り仕事も始まる。そのときに状況がどうなっているかは分からないが、怪しまれるから出社しないわけにもいかないだろう。

「じゃあ、キッチンでいただきます。本当に、ありがとうございます。色々と……」

 色々。本当に色々なことを、キタガミさんには押し付けてしまった。

「いいからさっさと食ってこい」

 キタガミさんはそれだけ言うと、ポケットから煙草を取り出した。これから一服するつもりらしい。普段キタガミさんは、煙草は外で吸う。僕とノリが煙草の臭いを嫌がることを知っているからだ。だが今日は、キタガミさんにとっても今までとはまるで違う一日だったのだろう。文句は言えまい。

 キッチンに行き、衣だらけの硬いとんかつをおかずに冷めた白飯を食べた。最初は食欲がなかったが、食べ始めると胃が食べ物を求めはじめた。思えば早い昼食を摂ってから、何も口にしていなかった。

 僕が昼間から野球観戦に行くとき、ノリは買い込んで部屋に置いているらしいカップラーメンを食べる。今日もそうしたのだろうか。カップラーメンだけでは腹が減るだろう。僕が昼過ぎに帰ってきてしまったから、もしかしたら昼飯も食べそびれているかもしれない。

 ノリは腹を空かせていないだろうか。

 頼れる人もなく、行く場所もなく、濡れたレインコートに身を包み、路地裏で飢えた野良猫のように丸まっているノリを想像して、僕は胸を痛めた。本格的な夏の到来はまだ先で、そこまで暑くないことは救いだろうか。けれども梅雨の夜はさぞかしじめじめして気持ちが悪かろう。

 ここへなら、いつでも帰ってきていいのに。

 僕はそんなことを思いながら、弁当殻をゴミ箱に捨てた。

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