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可能性

 僕は父の書斎の中で、意味も分からない、興味もない分厚い科学書をただ開き、文字を追っていた。恐怖心を頭の中から追い出すように。内容など、意味が分からないことを抜きにしても、一切頭に入っていない。ただ視界に何かを入れ、古本の黴びた臭いを嗅いでいると、少しは気持ちが落ち着くような気がしたのだ。

 コン、コン、コン、コン。

 ドアを叩く音で、僕は我に返った。

 四回のノックは、キタガミさんが来たときの合図だ。キタガミさんは、僕の家に来るときにインターホンは鳴らさない。

 玄関に行くにはリビングを通らなければならないので、僕は少し気後れしたが、誰かに会えるという期待感のほうが勝った。息を止め、なるべく死体を見ないようにしながら、僕は猛ダッシュで玄関へと向かった。

 ドアを開けると、キタガミさんがレインコートを羽織って立っていた。いつの間にやら、外ではまた雨が降り出している。真っ黒いレインコートに、ノリのことを思い出した僕は、肌が粟立つのを感じた。

「おい、何ぼけっとしてんだ。……リビングのドア、開いてんだから、玄関、早く閉めねえと。どけ」

 キタガミさんは僕を手で押し退けると、すぐに玄関のドアを閉め、鍵を掛けた。それから、ドアが開けっ放しになっているリビングを眺める。

「この死体は……誰だ」

 キタガミさんは怯える様子もなく、靴を脱いでドカドカと家に上がり込むと、しゃがみこんで死体をまじまじと眺めた。

「それが……僕にも、分からないんです。なんとなく、見覚えがあるような気はするんですけど……。その、如何せん、めちゃくちゃなので、その」

 僕は死体を直視することができなかった。あの時、一人で死体をひっくり返すことができたのは奇跡だ。あれから何度も手を洗ったが、まだ臭いと感触がこびりついているような気がしてならない。

「……ところで、ノリは?」

 廊下の奥を覗き込みながら、キタガミさんが言う。ノリのことも、話しておかなければならないだろう。

「……それが」

 僕は死体発見時のことを順を追ってキタガミさんに説明した。黒いレインコートを着たノリが、家を飛び出して行ったことも。

 ノリの話をすると、さすがのキタガミさんも渋い顔をした。

「考えられる可能性は、ふたつ」

 キタガミさんが指を二本立てた。

「まずひとつ」

 立てた指を一本、折る。

「第三者がこの家でこの女を殺した、という可能性。泥棒に入って仲間割れしたとか、そんな感じかね」

「それ以外に、なんの可能性があるって言うんですか」

 僕は思わず、口を挟んでしまった。キタガミさんが次に言わんとしていることが、分かってしまったからだ。

 しかしキタガミさんは、僕の言葉など聞こえていないかのように、残った指を折り、続けた。

「ふたつ。ノリが殺し、それから逃亡した可能性だ。可能性としちゃあ、こっちのほうが何倍も高いだろうな。わざわざノリがいるときに泥棒に入るとは考えにくいし、そもそもこの家にゃ盗られるものなんかねえだろ」

 それはそうだ。現金も金目のものもうちにはほとんど置かれていない。研究に関する大切な資料は研究所にあり、自宅には置いていないと父が言っていたから、研究目当てでもないだろう。

 でも……それでも。

「そんな、そんなわけがないです。ノリは、殺しなんかやらない」

「どうしてお前にそんなことが言える。証拠でもあるのか」

「証拠は、ないけど……ノリは僕の分身だから、だから」

「自分が殺しはしねえから、ノリもしねえ、ってか」

「そうです」

 僕は言い切った。キタガミさんは頭をぼりぼりと掻いている。何か考えているときの彼の癖だ。

「人はなぁ、窮地に立たされりゃ、誰だって人殺しにくらいなれるもんさ。分かりゃしねえよ」

「キタガミさんも、窮地に立たされたら、人を殺すんですか」

 キタガミさんは少し黙ったが、それから口を開いた。

「殺すよ。俺は殺す」

 あまりにも真剣な表情だったので、僕はそれ以上何も言えなくなってしまった。

「……まあ、ともかく今は、犯人当てをしてる場合じゃねえ。この死体をどうにかしねえとな。ひどい血の臭いだ。このまま放っておいたら腐って、とんでもねえ臭いがし始めるぜ。そうなりゃあ、誰かが通報するだろう」

「それは……そうですけど。でも、死体なんて一体どうすれば……」

「ちったぁテメェの頭で考えろや……サツも救急も頼れねえとなりゃ、自分たちでどうにかするしかねえだろう」

「自分たちで、って……僕たちで、死体を処分するって言うんですか? それって、犯罪じゃ……」

「馬鹿か。人死にを隠蔽しようとしてる時点で、もう犯罪かどうかを考えるフェイズはとっくに過ぎてんだよ」

 それは、そうなのだが。キタガミさんのこの落ち着いた様子は、一体何なのだろう。元々落ち着いた人ではあるが、目の前に死体が転がっているというのに、ここまで冷静でいられるものだろうか? それとも医者だから、死は身近なものだったのか。それにしたって、落ち着き過ぎているような気がするが……。

「……安心しろ、お前に死体の処理を手伝えなんて言わねえよ。お前に任せたら、足がつきそうだしな」

 キタガミさんがやれば足がつかないんですか――とは訊けなかった。

「……いいんですか。こんなことに巻き込んでしまって……」

「仕方ねえよ。お前の親父に、頼まれちまってるからな。お前らのこと」

「……優しいんですね、キタガミさん」

 キタガミさんはぼりぼりと頭を掻く。照れくさいときにもこの仕草をするのだな、と僕は思った。

「そんなんじゃねえ。お前の親父から、遺産いくらかもらってんだよ。もらったぶんの仕事はしねえと、寝覚めが悪いってだけだ」

 それを優しいと言うのではないだろうか。

 この家で死体と二人きりで、警察にも救急にも連絡できず、この世界に味方など一人もいなくなった気がしていた。だからキタガミさんの厚意が、僕は泣きそうなほど嬉しかった。

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