電話
「もしもし。キタガミさんですか」
「おう。なんだ、タツ。お前から電話してくるなんて珍しいな」
キタガミさんこと北神悠次は、定期的に我が家に訪れて、僕とノリの健康診断をしてくれる医者だ。歳の頃は父と同じ四十代半ばくらい。医者というよりプロレスラーといったほうがしっくりくるくらい体格が良い。髪は伸ばしており、後ろでひとつに括っている。顎髭も伸ばしているが、しっかり手入れされているのか、不潔な感じはまったくしない。父の旧くからの知り合いらしく、遺産の相続や役所への手続きなど、まだ小学生だった僕とノリには難しい手続きも代わりにやってくれた。母は行方知れず、父方の祖父母はすでに死別しており、面識のある親戚はいない。つまり僕たちは孤児となってしまったわけで、本来ならば児童養護施設やら里親やら、行政のサポートを受けることになるのだろうが、そのあたりもキタガミさんはうまくやってくれたらしい。児童養護施設や里親となると、ノリの存在がバレてしまうか、うまく隠せたとしても離れ離れになってしまうところだったから、とても助かった。
キタガミさんは態度こそぶっきらぼうだが、何かと面倒見がいいし、医者ということもあってか所作は丁寧で慎重な人だ。それに頭も良い。相談事をするなら、これ以上ない相手だった。
「実は……」
そこで僕は、言葉がつっかえてしまった。感覚の麻痺が解け、恐怖がぶり返してきたようだ。吐き気がして、僕は口を押さえた。
「おい。なんだ。どうした」
「実は……」
僕はもう一度同じ言葉を繰り返す。深呼吸をしたかったが、血の臭いがひどかったために諦め、浅い呼吸を繰り返してなんとか息を整える。それから一息に言った。
「し、死体が、帰ってきたら死体が、あったんです。僕、どうすればいいのか分からなくて。キタガミさん、助けてください」
最後のほうは声が震えていた。あまりの恐怖に涙が出そうだった。怖い。不安だ。今すぐ叫び出したかった。
「落ち着け。今すぐ行く。そこから動くなよ。警察や救急も呼ぶな。いいな」
「わ、分かりました」
「……大丈夫かよ」
「だ、大丈夫です」
「本当か? 不安なら、電話、繋げたままでも構わねえよ。ガキと電話を繋げっぱなしにしておく趣味はねえが、気が動転して、変なことされるよりはマシだ」
「いえ。大丈夫です。僕もその、考えたいことがあるので。……一人で考えます」
「そうか。分かった。じゃ、待ってろ」
電話が切れた。
考えたいことというのは他でもない。ノリのことだ。ノリの行き先と、そして……この死体との関係について。
ノリが殺しなんてするはずはないのだから、他に犯人がいるはずだ。では、その犯人とは誰なのか? 被害者の女性はそもそも誰で、犯人とはどういう関係だ? なぜここで犯行は行われた? 被害者や犯人と、ノリは関係があるのか? ノリはなぜ家を出た? 考えることは山ほどあるが、考えたところで答えが出るとも思えなかった。早くも思考は行き止まりにぶち当たってしまう。結局のところ、ノリを見つけて話を聞くほかなさそうだ。
キタガミさんが到着するまで、あとどのくらいかかるのだろうか。そういえば僕は、キタガミさんがどのあたりに住んでいるのかも知らない。キタガミさんは常に忙しそうにしていて、診察を終えるとすぐに帰ってしまうから、世間話をすることもほとんどなかった。
やはり厚意に甘えて電話を繋げたままにしておいてもらえばよかったかもしれない、と僕は早くも心細く思い始めていた。知らない女性の死体と、血の臭いが充満する家で二人きり。そう思うと、さらに恐怖心は膨れ上がる。なるべく考えないようにしたくて、僕は特に用もないのに父の書斎へと飛び込んだ。




