提案
しばらく考えた末、俺は福岡へ行くことにした。
俺には医学しかなかった。幼い頃から、医者になるための勉強を親に叩き込まれた。それ以外のことはほとんど知らない。人付き合いのやり方も分からない。アルバイトのやり方も分からない。できる気がしない。
医学しかなかったのに、二度と、医学には関われなくなった。
俺は知らない土地に、目も見えないままひとり放り出されたような気分になった。真っ当な生き方は、もうできないし、する気力もなかった。投げやりだった。野垂れ死んだり、真っ当でない連中にぶっ殺されたりしても、それはそれで仕方がない。何者にもなれなくなった俺の最期としてはぴったりだ。
荷物も大してなかったので、すぐに引っ越して四畳半のボロアパートを借りた。煙草は嗜むが、その他に特に好きなものもない。金はかなり貯まっていたが、金を使う遊びにも興味はなかった。また贅沢もしたいと思わなかった。俺には、その資格はないと思っていたのだ。
だって、あの少女を、助けられなかったのだから。
とはいえ、働かずにしばらく暮らしていられるくらいの金はあったので、何もせずにただ時間だけを浪費する日々を続けた。しかし、そんな暮らしは、そう長くは続かなかった。
ある日、自宅のインターホンが鳴らされた。こんなボロアパートにやってくるのは、受信料の徴収くらいだ。セールスや宗教勧誘のたぐいも来ない。見るからに金がなさそうだからだろう。受信料の徴収も、敷布団と箪笥、簡易的なキッチン、ユニットバスがあるだけの部屋を見ると、すごすごと引き下がっていく。
そういうわけだから、俺はずいぶん久しぶりにインターホンの音を聞いた。外が見えるカメラなんてハイテクなものはついていないから、覗き窓を覗かなければならないが、それも億劫で不用心にもそのままドアを開けた。
そこには、老人が立っていた。歳の頃は六○歳くらいだろうか。顔には人生の波乱を象徴するように深い皺が刻まれているが、背筋はぴんとしており、目つきはこの世のすべてを憎むように鋭い。頬には刀でつけたような傷があり、両手には黒い手袋を嵌めている。
只者ではない、と俺はすぐに分かった。
「君が、北神悠次かね」
なぜ俺の名前を知っている。
「違いますが」
否定したが、遅かった。躊躇う僅かな間で、老人はこちらの嘘を見抜いていた。
「やはりそうか。君は半年前、医師免許を剥奪されているな。児童ポルノ法違反だとか。嘆かわしいことだ」
「……俺は、そんなことはしていない」
俺がそう言うと、老人はくつくつと喉を鳴らして笑った。
「ふっ。分かっている。いつだって、社会とは腐りきっているものだよ。弱者とは権力の犠牲になるために存在しているのだ。だが、権力を得る方法は、何も正当な方法だけではない。それと同じだ。君がかつて剥奪された青臭い正義感だって、正当ではない手段の上でも確立できる」
「……あんた……一体誰だ?」
「白鷺組組長……里中仁三郎だ。うちに来ないかね、若いの。もう一度君を、医者にしてやろう」




