実の回想 その三
私は文昭さんの紹介で、物理学に関する様々な研究が行われている大きな研究所に転職することができた。末端の研究員であるため、給料は少なかったが、先輩の科学者たちから学べることは非常に多かったし、好きなことを仕事にできているのだから、多少生活が苦しいことなんてなんでもなかった。これまでの勉強と倹約の日々と比べると、特にだ。
物理学のことばかり勉強していた私は知らなかったのだが、文昭さんは生物学の世界では相当な権威らしい。実に様々なところに顔が利くようだ。
とはいえ、文昭さんと会ったのはその食事会のときのみだった。あとは姉を通じて連絡が来て、転職先が決まってからは、姉を通じた連絡もなかった。そのときにはもうさすがの私もスマホを持っていたけれど――姉は私の電話番号を母から聞き出して掛けてきたらしい。母にしつこく電話番号を聞かれたとき、かなり嫌々教えたのだけれど、それが吉と出るとは夢にも思わなかった――連絡先は交換しなかった。妻の妹ということで、文昭さんも私も気を遣ったのだ。
それから時間はあっという間に過ぎた。私は一心不乱に研究者の卵として働き続けた。やらされることといえば雑用ばかりで、科学者らしいことはほとんどなかったけれど、研究所でその道のプロである研究者たちと過ごせる時間が楽しかった。文昭さんと会ってから、化粧やお洒落を勉強するようになった。そのためか、単に女が珍しいからなのかは分からないが、私に好意を寄せる男性もそれなりに現れたが、私はその誰にも興味を抱くことができなかった。
ある日、再び、姉から電話が掛かってきた。転職を決めてからは一度も掛かってきていなかったので、ずいぶんと久しぶりだった。姉ではなく文昭さんのおかげであるとはいえ、勤め先を紹介してもらった恩があるのは事実なので、無視するわけにもいかず仕方なく出ることにした。それに、もしかしたら文昭さんからの伝言かもしれない、という期待もあった。
開口一番、姉は驚くべきことを口走った。
「私、文昭と離婚したの」
「離婚? どうして?」
私は、膨れ上がる気持ちを抑えることができなかった。
姉が文昭さんと離婚してくれて、嬉しい。醜い感情だとは分かっていたが、どうにも止められなかった。
「口止めされてるから詳しくは言えないけどさ……。気持ち悪い研究、始めてさ。耐えられなくなって」
どんな研究なのかと私はしつこく訊いたが、姉は絶対に口を割ろうとはしなかった。諦めて私は他のことを訊いた。
「子どもとかはいなかったの?」
「いたよ。でも、置いてきちゃった。あんまり可愛いと思えなくて。最低だよ。私、お母さんみたいにはならないって思ってた。子どもができたら、いっぱい可愛がるんだって……。でもさ、血は争えないのかもね」
言い訳ではないか、と思ったが、私は言わなかった。姉の機嫌を損ねたくなかったからだ。離婚したのならば、どうしても頼みたいことがあった。
「ねえ、文昭さんの連絡先、教えてくれない?」
「あんた、文昭を狙ってんの? やめたほうがいいよ。ハンサムだし金もあるけどさ、倫理観がないよ」
「狙うとか、そんなんじゃないから。ちょっと仕事のことで、相談があるだけ」
半分は本当だが、半分は嘘だった。文昭さんとお近づきになりたい、という欲望をもう私は無視できなくなっていた。
もう疑いようもない。私は文昭さんに、好意を持っている。
「そう。じゃあ、教えたげる。……私はもう、あの人にはついていけないから。もし深い仲になるんなら、あんたが止めてやりなよ。私の代わりにさ」
姉がそこまで言う文昭さんの研究とは、一体何なのだろう。
知的な欲求と恋愛的な欲求とが、私の中でぐるぐると渦巻いていた。




