第2話 寝室に残る痕跡
帝都・後宮の朝は静かだが、重苦しい。璃月は小さな部屋の戸口に立ち、深呼吸した。昨夜の蜃気楼のような灯り、蝋燭の匂い、湿った木の香り……匂いはまだ、部屋に残っている。だが今日は、ただの診察では済まない。
「璃月、来てもらえるか?」
声の主は、若い宦官の壬。昨日から密かに後宮の動きを観察している。璃月は短く頷き、廊下を抜けた。床の漆と蝋燭の香りが交じる空気に、後宮の息づかいを感じながら進む。
廊下の奥の寝室。妃の一人、雪蓮妃の寝室だ。侍女が扉を開けると、香水や花の匂いとは異なる、不快な鉄と薬草の香りが漂っていた。
「昨夜、ここで倒れたのです」
侍女の声は震えている。璃月は目を細め、枕や床の布を嗅ぎ分けた。微かな柑橘、油、そして少しの鉄味。――誰かが毒を仕込んだ痕跡だ。
璃月は小瓶を取り出し、匂いの断片を採取する。調合台に向かい、少量の薬を作り、妃の体に少しずつ投与する。
「匂いから、どの薬が混じっているか分かります」
白蔵が隣で眉をひそめる。
「なるほど……だが、匂いだけで判断するとは大胆だな」
「匂いは嘘をつきません」璃月は淡々と言った。
数時間後、雪蓮妃は落ち着きを取り戻した。しかし、璃月の観察眼は止まらない。枕の下に敷かれた小袋の残り香、手紙の端に残る香油――わずかな痕跡から、犯人の手がかりを読み解こうとする。
その夜、璃月は壬と廊下の影で会った。
「璃月、匂いを手がかりに、誰が妃に近づいたか分かるか?」
璃月は小瓶を取り出し、軽く揺らす。琥珀色の液体から、ほのかな柑橘の香りが漂った。
「この匂いは、昨日の夜だけではなく、同じ香りがほかの部屋にも残っている。つまり、誰かが宮中を動き回っている――」
壬の瞳がわずかに光る。
「つまり、後宮内に潜む人物か……」
翌日、璃月は侍女たちの間を歩き、匂いの軌跡をたどった。布の端、階段の手すり、柱の裏――細かい痕跡を拾いながら、徐々に犯人の行動範囲を絞り込む。
その時、廊下の奥から低い声がした。
「……誰だ?」
璃月は瞬時に身を隠す。影が通り過ぎた後、残されたのは微かな油の匂いと、金属の冷たい香り。――刺客の影かもしれない。
後宮の闇は深く、香りの痕跡だけが真実を語る。璃月は胸の奥で決意する。
「匂いをたどり、真実を見つける――たとえ、後宮の誰も知らなくても」
夜、灯の下で璃月は小瓶に残った琥珀色の薬を見つめた。微かに柑橘の香りと鉄味が混じる。その香りは、昨日の事件の手がかりだけでなく、後宮での自分の居場所をも示しているように思えた。
後宮の廊下は静かだが、闇に潜む何者かの足音が、遠くから聞こえる。璃月は小瓶を握りしめ、ゆっくりと呼吸を整えた。香りが、今日も嘘を見破る――その感覚を、彼女は信じていた。