第1話 琥珀の匂い
夜風に混じった乾いた草の匂い。璃月は目を閉じ、懐に忍ばせた小瓶の蓋をそっと外した。瓶の中の液は夕陽を映して琥珀色に輝き、ほのかに鉄と柑橘の残り香が混じっていた。――この匂いが病を語るとき、嘘はひとつずつ溶けていく。
「璃月、もう閉めなさい」
薄暗い路地の奥、母代わりの小屋から声がした。今日も砂糖と薬草を秤り、花街の客に渡す仕事を終えたばかりだ。小瓶を仕舞いながら、璃月は深く息を吐いた。今夜も平穏に終わる――そんな願いは、いつも裏切られる。
闇の中から人影が現れた瞬間、体が硬直した。柔らかな布の手袋、静かな足取り――だが、次の瞬間には手首を掴まれ、口を塞がれた。璃月の小さな抵抗は容易く押さえ込まれ、意識は闇の中に吸い込まれる。
――目を覚ますと、見知らぬ天井の下にいた。石畳ではなく、漆塗りの床。光は蝋燭に揺らぎ、壁には金箔の模様が浮かんでいる。ここは――後宮?
小さな荷物と共に押し込まれた部屋の隅で、璃月は冷静に香りを探った。布の匂い、木の匂い、遠くに漂う薬草の香り。身体は固まっているが、感覚は研ぎ澄まされていく。――匂いは、ここがただの住まいではないことを告げていた。
数日後、璃月は後宮の医官に呼ばれた。表向きは“毒味役”。だが医官の眼光は、ただの試練以上のものを彼女に求めていた。
「お前、匂いを嗅ぎ分けられるそうだな」
小さく頷く璃月。心の中で計算する。どこまで観察を許されるのか、どこまで秘密を守るべきか――。
最初の仕事は、後宮の妃のひとり、瑞香妃の体調不良の診断。寝室に残された痕跡――枕に残る微かな柑橘の香り、衣の袖に染みた油の匂い、口の中のわずかな鉄味。璃月は小瓶に採取し、慎重に調合を行う。
「この薬を少量、舌下に」
施すと数時間後、妃の顔色は回復した。医官の白蔵は感心するふりをして眉をひそめた。
「お前、ただの毒味役では済まんようだな……」
その夜、宦官の壬が静かに部屋を訪れた。
「璃月、君の才を知っている者がいる。だが後宮は危険だ。信頼できるのは、僕だけだと心得よ」
璃月は言葉なく頷く。胸の奥で、未知の連帯感が芽生えていた。
窓の外では、帝都の灯が揺れている。香りと薬、そして密やかな陰謀――璃月は気づいていた。後宮に潜む嘘を、匂いで暴く日々が、今、始まったのだと。