硝子細工の手は繋げない
「俺じゃダメなの?」
予想もしなかった問いを受けて、瞬間、言葉に詰まる。
ダメに決まってるでしょ、と笑いとばせるタイミングは完全に逃してしまった。
「……今そんな話してたっけ」
右隣からの突き刺すような視線を感じながら、ロックグラスの氷を回す。いくら舌先を湿らしたところで、散々くだを巻いた喉からは、渇いた感覚が消えていかない。
艶やかな無垢材のカウンターの奥では、壮年のマスターが黙々と食器を磨いている。間接照明に照らされた薄暗い店内には、寡黙な常連客がまばらに散らばるのみで、他人の会話に耳をそばだてるような野次馬は一人もいない。そういうところが気に入って選んだ店だった。
古めかしい食器棚の上に並ぶボトルの一本一本、ラベルを読んだところで価値もわからないワインの銘柄を、霞んだ目でぼんやりと眺める。
金曜の夜、22時。
会社帰りにくだを巻く。
約束もなく顔を合わせて、延々と。
明日の記憶には残らない愚痴を垂れ流す。
お決まりのルーティンは、どこで崩れたのだろう。
さっきまで何の話をしていたんだっけ。事あるごとに雑用を振ってくる上司。中々ひとり立ちしない後輩。付き合いが悪くなった友人。三年付き合った恋人と別れて以来、まともな出会いがないこと。そうだ。これだ。わかってる。私だけがわかっていなかったんだってことも、たった今、わかった。
弱りきった頭も口もうまく回らない。
意図的に逸らした視界の右端を掠めるように、細く筋張った大きな手が、コトン、と、珪藻土製のコースターにグラスを置く。隣客――久我晃平の利き手が左であることを、恨めしく思う日が来るなんて思わなかった。
「里穂」
常日頃、呼ばれ慣れない下の名前に、ぞわりと肌が粟立った。
なんとも言えない気まずさと同時に、カッと首元が火照り、組み替えた脚の上からブランケットが床に滑り落ちていく。
肘を立てて組んだ両手の上に額を乗せたまま動こうとしない私の代わりに、久我の上半身がカウンターの下に消える。いつもなら、ちょっと覗かないでよ、なんて軽口を飛ばすところなのに、言葉が出なかった。
「――ほら、落ちたぞ」
嫌だ。受け取りたくない。
「やだよ。久我は久我だもん」
ため息と共に、私と久我のグラスの間を隔てるように、乱雑に丸められたブランケットが投げ出される。
「だろうな」
見慣れた久我の指が、彼の鞄の持ち手を掴む。
綺麗な手をしている男だった。何度かふざけて絡ませたことがある私の手よりも、ひとまわり大きく、細く、白く、すらりと伸びた指が、洒落たグラスを掴む様子を、横目で眺めるのが好きだった。
ショーケースの奥に飾られた繊細な硝子細工を愛でるように、好きだった。
「じゃあな、森下。お元気で」
「……」
熱に浮かされた瞳をハッキリと視界に入れてしまったら、きっと戻れなくなるとわかっていた。
だから、久我の靴音がドアベルの向こうに消えるまで、私は頑なに俯きつづけていた。
お酒もつまみも中途半端に残っていたけれど、今夜はこれ以上飲み直す気分にはなれない。
「マスター。ごめん、私も帰るわ。会計――」
「先にもらってるよ」
そっけなく答えたマスターの目線が、戸惑う私の顔から、つい先ほど久我を見送った扉へと流される。
久我が精算していった。
私を置いて、勝手に、一人で。
酔いが一気に醒めて、全身から熱が引いた。気がつけば、通勤用のトートバッグとステンカラーコートを腕に引っ掛け、羽織る時間さえ惜しむように、一目散に店の外へと飛び出していた。
◇
ショートブーツのヒールを鳴らして、深夜の街を駆け抜ける。久我の住所を聞いたことはないけれど、いつも一駅分、高架下を歩いて帰ることだけは知っていた。
「――久我ァ!」
真白い吐息と共に、精いっぱい張り上げた声は、掠れて震えていた。
切れかけて明滅する蛍光灯の下、小さな公園のベンチに、久我は座っていた。
「お前さあ、振った男を追いかけてくんなよ」
「振って、ない」
芯まで冷え切った身体から出る声は、みっともなく揺れている。
「私まだ振ってないし、あんたも告ってないでしょ」
「……それ言うために、薄着で追いかけてきたわけ?」
呆れながら立ち上がった久我の手が伸びて、震えっぱなしの私の肩にコートを掛ける。そっと第一ボタンを止め、襟元を整えていく指先は、相変わらず見惚れるほど綺麗だった。
声をかけたのは私だった。顔よりも名前よりも言葉よりも先に、不意に目に入ったその手が気になって、すごく綺麗な手してるのね、と何の気なしに隣に座った。
いつのまにか、そこが定位置になっていた。
「俺は言っただろ」
「あんなの冗談みたいなものでしょ」
憎まれ口を叩きながら、冗談にしそこねたことなんて、私が一番わかっていた。
「告白やり直して断らせろって、さすがに非常識だと思わねえ?」
「ダメだとは言ってない」
「嫌なのに?」
「いやだけど」
久我との関係が変わってしまうことが、嫌だった。怖かった。でもそれ以上に、久我との繋がりを失ってしまうことが、怖かった。
「勝手に諦めないでよ」
「ひどい女」
わざとらしく笑って距離を置こうとする久我の袖口を捕まえて、引き留める。今この手を離したら、久我は二度と私に会うつもりがないのだと、直感的に理解していた。
「離して、森下」
聞き分けのない幼い妹を宥めるような声色だった。
目線の先を久我の手に固定したまま、私は首を左右に振る。
「――里穂」
条件反射で肩が揺れる。
頭の中はまだぐちゃぐちゃだ。久我を異性として意識したことなんて今まで一度もなかった。自分が意識されていると想像したことだってなかった。
時間が足りない。
どうせ一週間経っても答えは出せない。
次の金曜日には、久我はいない。
「わかってるだろ。受け入れるつもりがないならその手を離して帰れ」
「私の答えを勝手に決めないで」
「じゃあお前、俺とキスできるの?」
弾かれたように見上げた先で、久我は笑っていた。
「俺の手以外、好きでもなんでもないくせに」
想像の中の情欲に濡れた瞳からはかけ離れた、まるで飼い主に見向きもされず雨に打たれつづけた子犬のような、凍えた哀切を感じさせる瞳だった。
久我はこんな眼をしていたのだろうか。
店にいたときから?
もっとずっと、以前から?
わからない。
私は久我の手ばかりを見ていた。
似たり寄ったりの話題を繰り返す酔っぱらいの戯言に、飽きることもなく適当な相槌を返していた久我が、いつもどんな表情をしていたのか、私は知らなかった。
振り解かれまいと久我の袖口を強く握っていた指先から、力が抜けていく。
わからない。
久我は久我だった。
得体の知れない何かに変わったわけでもなく、ずっと私が眼を逸らしていただけで、今でも久我のままだった。
わからない。
久我を追いかけて私はどうしたかったのか。
そっと久我の両肩に手を伸ばして、彼が座っていたベンチに逆戻りさせるように、後方へと押し倒す。久我は抵抗しなかった。されるがまま膝を折り、ベンチの背もたれに身体を預けた久我の上に身を乗り出すようにして、彼の瞳を覗き込む。
わからない。
久我は動かない。
美しい手は硝子のように冷たく、硬く、ひざの上に投げ出されたまま。
ゆらゆら、ゆらゆら、揺れる瞳の奥に沈んだ熱は遠く。
いつ切れるともしれない不安定な蛍光灯の輝きだけが、瞬きのたびに明滅して、私を誘う。
わからないのは、私の心。
ならばもう、確かめてしまおう――。
お互い冷え切った身体のまま、ほんの僅かな熱を伝え合うように重ねた唇は、かさりと乾いた感触がした。
◇
私が顔を離した後も、久我は呆然と固まっていた。上から見下ろす角度が新鮮で、思わず指先を久我の耳元に滑らせ、しげしげと観察したくなってしまう。
「あんた、指だけじゃなくて、髪も顎も細いのね」
「……は? いや森下お前今なに」
「里穂って呼ぶんじゃなかったの? 久我晃平」
じわじわと久我の耳元が熱をもっていくのがわかる。指先に伝わる他人の体温を心地いいと思うなんて、随分と久しぶりの感覚だった。
ああそう、そっか。
これが答えか。
私の中で渦巻いていた不安と恐れは、いつのまにか溶けて消えていた。開放感に満ちた気持ちで、くすくすと笑う。
「私の答えを勝手に決めるなって言ったでしょ、――キス。できたけど、まだ文句ある?」
「こんの酔っぱらい……!」
都合よく記憶飛ばしたら許さねえぞと呟きながら顔を覆う久我の手は、やっぱり惚れ惚れするほど綺麗で、けれどそれよりも赤く染まった顔をよく見てみたいと思ったことは、まだ少しだけ伏せておきたかった。
たぶん私は、自信なさげに震える久我の瞳に、恋をした。