09
アズュリアは室内へ戻ると、もうひと瓶同じものを作った。香草の抽出液はあと一つ分くらい残ったがそれは鞄へ放り込んだ。
台所の掃き出し窓を閉め、鍵をかけると、出来上がった化粧水と鞄を持って居間へ出る。
そして台所への扉の隣の隣。奥の壁に直角に交わった所にある扉を開いた。
家の三分の二を玄関から見て二対一で水平に分けたのが台所と居間であれば、端の三分の一を垂直に分けたそこは寝室だった。
ただし、台所横半分にあたる部分は四角く石塀で囲われた小さな庭になっており、裏庭とは隔絶されている。
表からは見えない場所で、あまり手入れされていなかったのか最初は慌てて除草処理だけしたような、荒れた庭だった。
本来なら寝台からの眺めを良くするために綺麗に手入れされているべき場所だったのだろうが。
外からの侵入を防ぐためか、裏庭からも石塀で囲われて入れなくなっている為、実は不便に思っている。そのうち、壁の一部を取り壊すか扉をつけたい。
寝室は広々としている。
空間を持て余す程だ。
この家は、廊下というものがない上、浴室トイレを除けば部屋は居間と台所と寝室しかないので、どこもそれなりの広さはある。
中でも寝室は、ぽつんと寝台が置かれているのみで、他に何もないという、恐ろしく空虚な空間だった。
壁際にドレッサーも置いてはあったが、暫く眺めて漸く気が付くくらい、存在感がない。
先代が愛人を住まわせていたという話だが、その痕跡を残さず撤去した結果なのだろうか。
どうせ寝るだけの場所なので寝台さえあればいいと言えばいいのだが。
人目に触れないのを良い事に、箱庭のような寝室裏の庭を香草だらけにした。
おかげで色とりどりの小さな花が沢山咲く、目に楽しく、とても居心地の良い庭になった。
部屋は殺風景なままだが。
その部屋の何もない真ん中に立ち、鞄から一枚布を出して敷いた。
その上に乗り、鞄から一枚鏡を出す。
備え付けのドレッサーの物より大きい。
これだけの鏡は公爵家でさえなかなか手に入れられないだろうと思われるが、鞄に最初から入っていた。曾祖母の作った物らしい。
曾祖母の指輪を嵌めた際、この鞄に最初から入れられている物の目録が示された。
どれも曾祖母の神力による作品で、「役立ててほしい」と綴られていた。
その一枚鏡を前に置き、ぺたんと布の上へ座り込むと、緩く編んでいた腰まで届く長い髪を解いて二つにわけ、前へもってきた。
これまた曾祖母の逸品である鋏を取り出し、躊躇うことなく切り落とす。
まず、毛先が目に入る肩の下あたりで。だいぶ軽くなった。
あまり短くし過ぎると却って手入れに手間がかかるのでこのくらいでいいかと思ったが、鏡を見るとなんとなく中途半端な気がした。
思い切って肩の上で切りそろえた。
ぎりぎり後ろでまとめられる長さだ。毛先が多少不揃いでも問題ない。
ハーフアップにして内側をより短く顎のラインで切る。どんどん軽くなる。
さっさと切ればよかった。
王宮でのしかかるようだった重圧からもこれで漸く解放されたような気がした。
先ほど作った化粧水を瓶から手に取って髪になじませる。
香草の香りが立つ。
ほっとして、力が抜けた時だった。
その声が聞こえたのは。
---髪の毛は不用意に捨てないで。
ぎょっとして周囲を見回す。
人の気配はなかったが、庭に、植えた覚えのない花が一輪、大輪の花を咲かせて輝いているのが目に入った。
真紅の八重咲きの花は豪華で美しかった。
タチアオイの花に似ているようにも思ったが、見たことが無い種である。異能もそう告げている。
---あなたが神力を地に注いで、私が生まれたの。名前を付けて。
この世に今のところ一体だけらしい花はそう願った。
「その前に、髪の毛を捨てないでってどういうこと?」
日差しを避ける為に麦わら帽子を被って庭で花と対峙している。
---あなたの神力がこもっているからうっかり捨てたりしたらそこからまた新しい種が出てきたりするかもしれないし。
「ええ……」
思ってもみない事を言われて渋面を作る。
---あなたから切り離されたら神力は薄まっていくけど、そこまで長くて大量だと抜けるのにも時間がかかるし。
要するに、危険物扱いせよということらしい。
「燃やすのはどう?」
---勿体ないけど、それがいいかも。灰はこの庭に撒くといいわ。
燃やしても幾ばくかは力が残るらしい。厄介な事である。
床に敷いた布の端を持ち上げて、中に落ちた髪の毛が落ちないよう包みこんで庭に出ると、調合用の大鍋を出してその中へ髪を入れた。
調薬の力で一気に髪の毛を包んで温度を上げる。
一瞬、白熱の光が生まれ、気が付くと何も残っていなかった。
---まあ、灰も残らず燃え尽きたわ。
花は呆れたように呟いた。
「手間が省けた」
ぱたぱたと布をはたいて畳みながらアズュリアは言った。
「灰だって残さない方がいいんでしょう?」
---私たちの養分に出来たのに……
惜しそうに言う花へ肩をすくめて見せた。
盥を出して、水路から引かれている水槽へ行って(この庭にもしっかり水の流れが作られていた)水を汲み、浄化して布を浸すと自作の洗剤で軽く揉み洗いする。
---ねえ名前をつけて。
水を変えて濯ぎ、布を絞る。
---お願い。
青空の下で揺れる真紅の花が心なしかうなだれた。
「どうして名前がそんなに欲しいの?」
---名前が無いと呼び掛けてもらえない。私と言う存在が固定されない。
首をかしげる。
「あなたはここにいるじゃない。名前が無くても」
何気なく口にした言葉だったが、ふわりと青い光が地面から湧き上がり、花の輪郭と重なった。
---まあ、花の子の言祝ぎを頂いたわ……
花が呆然と呟いた。
嫌な予感がしてアズュリアは黙り込む。
---アキミズホの国の王姪アケヒは庭園のユスラの木に愛されていたけれど、最後までそれに気づくことが無かったから、ユスラは次に出会う事があれば意思の疎通ができるようにしたいと考えていたの。私はその方法の一つ。
「次って……アケヒはもうとっくに亡くなっているんだけど」
---樹木に人間の時間の観念は無いからそういう思考になっちゃうの。もうアケヒはいないのね……
「私の曾祖母よ。私が生まれる前に亡くなってるわ」
---そうなのね。ではあなたはアケヒに会った事はないのね。
「ないわね」
---でも、あなた、アケヒの遺産を受け取っているわね。
「好きで受け取ったわけじゃ……、ああでも鞄は実家の物置部屋にあったのを持ちだしたわね」
花は風もないのにゆらゆらと揺れた。
---アケヒは国を出る前、色々な導具を作っていたけれど、その鞄はその中の一つね。空間拡張だけでなく一度に色々な効果を付与しようとしていたから厄介で、ユスラが神力の操作がうまくいくように枝を与えたりしていたわ。
「枝?」
---ユスラは大昔に神力を得た長きを生きる樹木なの。誰も知らないし気が付いてもいなかったけど。神力を分ける意味もあってアケヒの頭の上に枝を落としたわ。
「ああ、それは本当に愛し子だったのね」
---とても愛されていたわ。彼女の性質は穏やかで、ユスラの神力とよく共鳴を起こしていたの。ユスラは心地よさそうだった。
まるで見ていたように言う。
「あなた今生まれたばかりなのよね?」
---ええ。でも、ユスラの記憶は私の中にある。アケヒとの思い出も。
「ユスラって今もアケヒの故国の宮殿にいるの?」
---いるわ。眠ってしまったけれど。
「……どういうこと?」
---アケヒが国を出てしまったから。愛し子の存在は神力を揺らしてユスラのような存在を目覚めさせるけれど、いなくなれば眠ってしまうの。
それは興味深いと同時にある予想も頭をよぎる。
「ねえ、神力って……」