07
迷惑な話だ、と思った。
神力などと。
アズュリアは腕輪に目をやる。
「遺言」によれば、この腕輪は神力を知覚できるという。
だが、それがなくとも、指輪で一通りの説明を受け「理解」してしまった段階で、この地にも存在するそれを意識できるようになってしまった。
アズュリアに最初に目覚めた異能は魔力によるものだった。
ほんのささやかな、恐らく母方の血に由来する。
だが今のアズュリアの異能の源は神力だ。魔力と同じようで少し違う。
切っ掛けは、恐らく、毒だ。
あの毒には、解析した結果判った事だが、魔力の巡りを阻害する成分が付加されていた。
アズュリアは毒の進行を止める為に、魔力が使えず、代わりに神力を使ったのだろう。無意識に。
不必要なトラブルを避ける為、ささやかな力であれと祈ってきたが、曾祖母の鞄を使い始めた事で神力は刺激され目覚めてしまっていた。
結果的にそれが功を奏したという事になる。
もとより状況に不満はあり、「一刻も早く家からも王宮からも逃げたい」と思い続けていた。
それが叶った以上、力を押さえている必要もないのかもしれないが。
腕輪を取り出して嵌めてみた。
これまた吸い付くようにぴたりと止まった。
途端に周囲がきらきらと輝き、咄嗟に目をつぶった。
眩暈のような物が一瞬通り過ぎたがそれ以上は何もなく、ゆっくりと目を開く。
己の視覚が切り替わったのを感じた。
薄青い柔らかな光が満ちている。
見回すと薬草類を整理している棚や、つりさげた薬草、香草の束、作業台に置いている煮沸した水などに集まっている青が濃い。
それらはアズュリアの神力が凝っている場所だった。
アズュリアは己の右手を見る。
ゆったりと己の中を巡っている神力を軽くそこから押し出すようにすると右手は青い光を帯びた。
作業台の上のナイフスタンドから愛用のナイフを取り出し、刃の部分に光る指で触れてなぞる。
押し出す力は何の抵抗もなく刃の中へ染み込んで行った。
付与したのは、鋭利、刃こぼれしない、折れない、錆びない。
曾祖母の本来持つ力。
それまでは勘で把握していた物が視覚化されると、驚くほど操作が容易だった。
籠の中から昼間詰んだ薬草を一束取り出し、刻んでみると、明らかにそれまでの切れ味とは違い、研ぎたてよりもするすると刃が通って細切れになった。
ナイフを目の前へ持ってくる。
一つの汚れも見えなかった。
極端な効果だと思うが、便利だなとも思った。
次にそろそろ鎧戸を閉めようと思っていた窓へ目をやる。
畑は一面、青い光に満たされていた。
薬草の葉も野菜の葉もたっぷりとその光を含んで輝いている。
一つ息をついて視覚切り替えを意識する。
それで視界は正常に戻った。
最後に残った金鎖のネックレスを見やる。
これは神力の隠形が出来るらしい。
逃亡の為の道具を作ろうと思った時、一番最初に手を付けたのはこの手の物だったと指輪は語った。
アケヒがどれほど追っ手を恐れ嫌悪していたかよく判る。
具体的には弟。
ふとアズュリアは、こちらでその弟にあたるのは書類上の夫ではないかと思う。
先祖代々異能の根源である「魔力」を研究する家の男。
アズュリアの能力を知れば、余計な実験を望むかもしれない。実質的な夫婦関係は結ばないと明文化して契約を交わしたのは良かったと思うが、反故にされる可能性もなくはない。
想像するだけでぞっとした。
躊躇うことなくネックレスをつけた。
濃い紫の花弁が幾重にも重なって大輪の薔薇が開いた。
ビロードのような艶の花の美しさにアズュリアは溜息をついた。
「ああ、これは……」
庭師ガルドウが感嘆の声を上げた。
「思った通りです」
どう思った通りなのか尋ねると、通常の土で育てる花の一.五倍はあるという。
その上花弁の数も多いように思うと。
「色の深みも艶も比べ物にならない」
「そんなに違うのね」
そもそも三日でしっかり根を張り、太い茎を伸ばしたのだ。
そして一週間で花を開かせた。
違って当然だろう。もはや別種なのかもしれない。
アズュリアは少し考え、ガルドウが薔薇を育てている場所の土を一部掘り返してみようかと提案した。
「私が鍬を入れるなり、スコップでならすなりしてみればいいのよね」
「よろしいのですか?」
「構わないわよ?」
「その……実験は契約には無いとおっしゃっていたので」
あの時、そう言えばアルカミラ公爵との会話を彼はここで聞いていたのだった。
「別にいいわよ。異能研究の為にやるわけじゃないもの」
綺麗な花が咲くといいわね、と言うと、ガルドウは申し訳なさそうに、だが嬉しそうに頷いた。
薔薇の品種改良の為の庭は、庭師小屋の近くに設けられていた。
庭師小屋は道具や肥料等を置いておく物置と皆が集まって食事などとる休憩所を兼ねていて、アズュリアの住んでいる離れの台所と物置を足した程度の広さと作りだった。
ガルドウが中から鍬とスコップを持って出てくる。
庭師頭に確認を取って、使っていい場所を確保してもらい、そこへ鍬を入れた。
狭い区画なので数度掘り返しただけで済んだ。
元々花の為にきちんと手入れされていた場所でもあり、先日のアズュリアの畑の時程の変化はない。
そこへガルドウが薔薇の苗を運び込んできた。
植える場所を聞いて、そこへ穴を掘ってやる。
アズュリアの庭と同じ薔薇を植えてみるらしい。
更に隣の区画にガルドウが同じように土をならして同じ薔薇を植えた。比較するらしい。
「興味深いですな」
それを見守りながら庭師頭が言う。
「薬草の為の土だと思うからうちの庭程の効果が出るかどうかは判らないけれども」
「ガルドウが以前より楽しそうなのでそういう意味では効果は既に出とりますよ」
庭師頭は穏やかに笑った。
「前は無表情ですし、仕事は真面目ですがいまひとつ皆にも馴染めとらんようで、多少心配しとったのです」
今でも無表情に思えるが。
そう言うと、首を振られた。
「僅かでも笑うようになりましたよ」
笑うというか、申し訳なさそうな笑みなら見たが。
「そういう人間らしい表情もあまり浮かべる事のない男だったので」
そうなのね、とアズュリアはガルドウを見る。
薔薇を植え、肥料をたっぷり撒いて水をやっている。楽しそうではある。
勿論アズュリアの方は肥料は無し。水は……庭師頭にことわって、水路脇に置いてあった如雨露を借りた。
この屋敷は小川が北側を流れていて、そこから水路を引いている。少し低い場所を流れているので水車で水をくみ上げているそうだ。
広大な庭を南に向かって三か所。起伏に沿って蛇行もしているがやがてぐるりと廻って元の川へ戻る。
井戸もあるが、庭師たちはこの水路を使って水遣りや庭造りをしていた。
アズュリアの庭にもこの水路から水を引いた小さな流れが巡っている。水槽も作ってあって、庭仕事に使えるようにもなっていた。
「奥様、少し休憩していきなさらんかね」
水をやっていると、庭師頭に再び声をかけられた。
振り返ると庭師頭の細君らしき女性が傍にいて頭を下げていた。
庭師小屋へ入った。
「汚い場所で申し訳ないですが」
「いえ、良い休憩所だと思うわ」
素朴なテーブルと椅子がおかれ、数人で休憩が出来るようになっている。奥に炊事場があり、アズュリアの家の台所と構造が同じだ。あの家も本来は庭師小屋だったのかもしれない。
「お口に合えば良いのですが」
出されたのはハーブティーだった。少し驚いた。
「こちらの地方では、水や白湯よりこの草を煮出した茶を飲むことが多いのです」
一口飲んで、薬草の種類を特定する。
「ゴシュフクの葉ね」
「よくお分かりで」
「あとはノギクの花、ノイズルの実、スイセイ草……かしら」
「その通りです。他の野草を混ぜる事もありますし、家によってそれぞれ違いもありますが」
「ゴシュフクの葉は身体の調子を整える作用があるわ。これが広く飲まれているなら良い事ね」
「風邪知らずと呼ばれたりします」
「生水を飲まないということだし良い事だと思うわ」
「腹を壊したりする事も少ないですから」
良くないと判っていても、一度煮沸した水を用意するのは面倒だったりするものだ。平民であれば不用意に生水を飲んだりすることも多い。
「ゴシュフクってこちらの地方では沢山生えているのかしら」
王都周辺でも見ない事はないが、そこらに群生しているような草でもなかったはずだ。
「御屋敷の北に流れている小川に沿って、沢山生えているのですよ。小川は領都の中心を流れている川へ注いでいますが、そちらの川辺にもそれなりに。他領ではあまりないとも聞いておりますので、水か土壌の差だろうと思われますが」
採取しても採取しても生えてくると言う。雑草扱いの草でもある。
「実は庭園にもうっかりすると生えてきたりするもので、まあ、抜いて乾燥させて茶葉にするわけではありますが」
なかなか厄介な草でもあるらしい。
「うちの畑でも気を付ける事にするわ」
ゴシュフクの葉を使った薬はいくつかあったような気がするが、皮膚の水分を保ったり、それによって傷の再生を促したりする作用があった筈だ。
顔の傷のケアに良いだろう。
いい加減、毎日包帯を巻くのも面倒になってきている。
ことりと目の前にクッキーの皿が置かれた。野菜と肉や卵が挟まれたパンの皿もある。
「こちらはお屋敷から差し入れにと頂いた物です」
菓子の皿をまじまじと見ていると庭師頭の妻にそう言われた。
「ああ、そうなの……」
休憩時間は順番に取るという事なので、一度に全員がこちらへ入ることはないのだろうが、軽食や茶などは用意しておくのだろう。
「いつまでも長居していてもお邪魔でしょうから、これ一杯頂いたら帰るわね」
木のコップに注がれたゴシュフクの茶は三分の一程残っていた。
「いえ、いつでもおいでください。奥様は土の神の祝福を受けておいでのようなものです」
庭師頭はにこやかに言った。
「我々にとっては、験が良い方です」
目の前で肥えた土を作りだして見せたりしたので、庭師にとってはそうなのかもしれないが、不思議な気持ちになった。
生まれてこのかた、誰からも存在を喜ばれた覚えがなかったからだ。
幼い頃は母に受け入れて欲しくて必死だったが、何をどれ程頑張っても顧みられることはなかった。最初のうちは父がまだまともな対応をしてくれていたようには思うが、それもわずかな間だった。
妹の物心がついてからは家中が敵のようなものだった。
いや、使用人たちは気の毒がってはくれていたとは思う。
特に下働きの人間は。
妹が鬱陶しくて妹が寄り付かない場所を探して移動すれば、そう言った人間達に接触する機会が多くなる。
彼らは妹と違って簡素な服装で本を抱えて動き回る長女に素知らぬ顔をしてくれていた。
それは無視とは違って思いやりだった。
そういう意味では上級使用人より、馴染みがある存在ではあった。
だが、同情されてはいても喜ばれてはいなかったと思う。
うっかり両親や妹に見られてしまう可能性を思えば。
「ありがとう。時々花の様子を見に来るわね」
残りの茶を飲み終わると、席を立った。
ガルドウに貰った麦わら帽子を被り、外に出る。
今日の服装も庭師のようだった。作業するので当然と言えば当然だった。
見送る庭師頭に妻が溜息をついた。
「形だけの奥様だとか、都で良くない噂があるだとか、色々聞いていたけれど、悪い方には見えないけれどね」
「そうだな。噂なんぞあてにならんさ」
「元は王子様の婚約者だったくらいのお嬢様なんだろう?何故またこんな気の毒な事になっているのか」
「さあなあ。わしらのような下々の者には判らん事情があるんだろうさ。だが、奥様も存外楽しそうに過ごしていらっしゃるように思うよ」
「そうなのかい?ならいいんだけどね」
ガルドウが離れまで送るようだった。
無表情な二人がぽつぽつと何事か話しながら移動していく様を少し見送ってから、二人は小屋の中へ引っ込んだ。