175
長い年月眠っていた。
眠りについたのは力を奪われたからだった。
誰あろう愛して心を許した人間に。
契約書が裂けた時、最も愛した人間に呪いをかけた。
全身全霊をかけて。
滅びを叫んだ。
美しい湖は激しく波打ち、水は溢れて周辺を洗い流し、その後、底が破れて全てが地中へ沈んだ。
湖を中心に栄えた都市とともに。
悲しみは恨みとなり、闇の中に沈み。
そのまま息絶えてしまえればとさえ思った心とは裏腹にその暗い感情が全身に染みわたって行った。
愛した人間との思い出を水晶の玉のように美しく磨き続け、繰り返し繰り返し想起しながら。
どうしてあの人間は我を拒絶したのか。
ぴったりと影さえ重なるほどに合わさり合い、境の区別もつかなくなるほど混ざり合い同化して、好きなだけ夢に遊び恍惚の時を過ごすことが出来たのに。
無上の多幸感に満たされながら。
我にとっての幸福は、あの人間にとっての幸福ではなかったとでも言うのか。
あれほど美しく微笑んでいながら。
我の嘆きは尽きることが無かった。
それが変じる恨みもまた。
眠りに入った事で、失われた力が少しずつ戻ってきた。
死の瞬間までも我に忠誠を誓った者達の残滓を取り込んでしまい、それらが周囲に寄り添って、我に信仰という名の力を与えていもした。
我が求めるのはあの美しい人間だった。
目覚めた所でもう存在しない。
だが、あの時力の限りにかけた呪いが。
存在の全てをかけて叫んだ呪いが。
そして尽きることなく湧き出し続けた呪いが。
生き続け、我を染め行き、そして覚醒を促すのだった。
我はうとうとと半覚醒状態で夢を見ていた。
忠実な司祭たちが、呪いに従って動く様を見続けた。
中でも一番昔から傍に着き従った司祭は、在りし日の我の姿を求め愛しすぎたため、銀色の依り代を作り出そうとさえした。
意味がある事とも思えなかったが、いつの間にか死は遠ざかり、残った長い時間の慰めにはそれに身を任せるのも良いかと思われた。
呪いは我の全身に染みわたって。
どういうわけか我の名を受け継ぐ事になった人間達の存在は、我に残された生贄でもあった。
あの人間が最後に捧げた供物。
そう、思った。
司祭たちがじわじわと広げていく呪いをただ見ていた。
我の名を持つ生贄たちはその愚かしさで我を楽しませ、かつて我が破壊した都市の上に築かれた新たな都市に集まり住む人間たちは、それはもう操りやすく、司祭たちの望みをかなえた。
近場や遠方の多少の力を持つ者たちも集まってきた。
我の身体から滲み出す力に魅かれて。
混ざりこんだ呪いに惹かれて。
負の感情を基にした力程、強大になっていくものであるが故。
そういった者達もまた新たに力を得て呪いに染まっていった。
呪いに染められた我の名を持つ者の中に、いつの間にか異分子が紛れ込んでいた。
さしたる脅威でもないと我も司祭たちも放置していた。
だがある日、その小娘は私に呪いを投げ返してきた。
長の年月降り積もり熟成されてきた呪いは重く深くまとわりついて離れず。
恐らくは今度こそ我の息の根を止める。
そう思った時咄嗟に。
周囲を見回し一番に目に入ったそれ。
死の寸前に我の力を得て蘇り、以前とは比べ物にならぬ程の権能をふるうようになったが故に深く忠誠を誓ったそれ。
一時の魂のありかとして肉体を奪った。
***
「あらまあ……」
イータハーサ少年によって隠し部屋から連れ出されたヴェルダル公爵夫人ロザリアは、それまでの体調不良に加えて突然の出来事に精神的にも限界が近かったアデレフ侯爵夫人を同室で宥め励まし続け、部屋から出てくる時も隣で身体を抱きかかえるように支えていたらしい。侯爵夫人付の侍女も恐縮しつつ深く感謝していたと伝えられ、艶やかな色の唇を微笑ませた。
そんなロザリアが事情聴取の為呼び出された部屋では、王都騎士団の小隊長と魔導士が待ち受けていたが、魔導士の姿を見た途端、ロザリアは呆れたように目を瞠ったのだった。
「無事でなによりだ」
仏頂面の魔導士は、ロザリアのはとこ、アルカミラ公爵だった。
「ありがとう。でもあなたこんなところへ来るような余裕はないのではなくて?」
領主であり魔力研究所の所長であり渇水事業の中心人物でもある。
「君や薬師が巻き込まれた以上、私にも責任がある。状況を確認し、明日には領へ帰る」
今回の侯爵家への訪問もエスタリアの薬師の紹介もヴェルダル家の事情であってアルカミラ公爵には何の責もないはずではあったが、薬師はエスタリアの腕利きであり、紹介した以上何かがあればエスタリア家に対する説明責任も生じると公爵は言う。
確かにかの領は薬師を育成保護する事で有名ではあるが、それは方便であろう。
ロザリアは愛用の扇で口元を隠したがその下で唇は笑っていた。
「でもご活躍だと聞いたわよ。そんなに急いで帰って今度はこちらの現場は大丈夫?」
小隊長へ目を向けると、年若い彼は緊張しきったような顔で「いえ」と答えた。
「本来であれば、今回の派遣隊に魔導士の帯同は無かったはずなのです。公爵閣下の完全なる好意ですのでご都合が一番に優先されます」
恐らく第三部隊の小隊長なのだろう。第三の仕官は貴族でも下級貴族の所属が殆どで、本来近衛として侍る第一とは違って王族や上級貴族との関わりはまずない。ガチガチなのも仕方がない。そして子弟などではなく公爵本人の同道はさぞや気を使った事だろう。多少気の毒に思いながら「あらそうなの」とロザリアは頷いた。
「申し遅れました。私は王都騎士団第三部隊所属エディル・デルフ・ロンツバールと申します。第十三小隊隊長を務めています」
気を取り直したように小隊長は名乗った。確か男爵家にロンツバールという名があったと記憶しているが、この青年が主家の直系なのか傍系なのかは判らない。
「ロザリア・デルフィナ・ヴェルダルよ」
微笑んでみせると、ロンツバールはうっすら頬を染めて、「この度は大変な思いをなさったにも関わらず、時間も置かずにお話を伺わねばならず申し訳ありません」と詫びた。大柄な身体に艶のある茶色の髪ときりりとした瞳、物慣れない様子ではあるが近衛にいても不思議ではない容貌で夫人には好印象だった。
「お仕事ですもの。それにアデレフ侯爵夫人のご心労に比べればわたくしはどうということもなかったし、手早く済ませてしまいましょう。でも私、殆ど何も見聞きしていないのよ。突然あの白い覆面の男達が押し入ってきて、侍女ともども客室棟の三階の一番端っこに閉じ込められて、食事も出されず一夜明けたら今度はご令息イータハーサ様が部屋へ駆け込んでいらっしゃって、今騎士団が来ていて、覆面の男達と戦闘になるだろうからと別部屋へ案内されてアデレフ侯爵夫人と合流したの。扉は魔法障壁で固めるから、呼ぶまで隠れているようにとおっしゃって、それだけ」
「取り敢えず、お座りください」
ロンツバールにソファを示され、「あら、そうね」とロザリアは優雅にドレスの裾をさばいて腰を下ろした。
「そもそも今回のご訪問は、ご子息の診察の為と伺っておりますが間違いございませんか?」
「ええ。王都の一部界隈で噂された病、具体的にはエスタリア公爵夫人の患われた御病気の症状を聞き及んでイータハーサ様からもご相談を受けたのが発端ね」
「そう、ですか……」
シュベタハ周辺の出来事がどれだけ公になっているのか。少なくともアルカミラ公爵の同道を許可されたのだ。騎士団上層部も全く把握していないという事はないのだろう。であれば、今回派遣されたこの小隊長もある程度の情報は開示されていると考えられるが、先ほどロザリアを見て頬を赤らめた青年がこの件に関しては表情を変えなかった。
「エスタリア公爵夫人を診察し、快癒へ向かわせた薬師をアルカミラ公爵にご紹介いただいて帯同してきたのが一昨日の事よ。幸いご子息に罹患の兆候は見られず、ご子息は薬師が気に入って、このところ調子がお悪い侯爵の診察もご希望になったから、今、事情がこうでしょう?なので騎士団へ一応連絡して許可を取ってから侯爵の診察に向かって……そう言えば、侯爵の診察はどうなったのかしらね。そのタイミングで襲撃を受けたのよ」
ロンツバールは頷いた。そして背後の机についている記録係へ合図して下がらせた。
「アデレフ侯爵のお具合には波があるそうです。先ほど当の薬師殿の聴取の際にそう伺いました」
「そうなの。ヒビキに怪我などなかったかしら」
「ええ。お元気です」
「そう。良かったわ。わたくしとしても、借り受けた責任がありますし」
ちらりとアルカミラ公爵へ目をやる。公爵は仏頂面で腕を組んでソファへ沈みこんでいる。
「覆面の男達ですが、どういった勢力かご存じですか?」
ロザリアはぱちりと瞬きして、小隊長の顔を見、小首をかしげた。
「さあ。でも聞いた事はあるわね」
もう随分と前のような気がする王家主催の夜会。第二王子の突然の茶番劇。黒髪の公爵令嬢の冷ややかな態度。激昂した王子の足もとへ投げられた何かから湧き上がった煙幕。なだれ込んでくる暗殺者たち。
白い覆面の。
「私は領地にいたので実際見たわけではないけれど。ただ、連日新聞などでも騒いでいた割に、続報はないわね。尻尾を掴ませなかったのか、それともどこかから横槍が入ったのか」
笑みを浮かべたまま表情を変えないロザリアに小隊長は軽く頷いた。
「あの調査については騎士団の特務部隊が当たりましたが、一般の我々には殆ど何も情報は知らされませんでした。が、何事も完璧とはなかなかいかないものです」
「あら、では情報が漏れていたと?騎士団の綱紀に係わるのではなくて?」
「いえ、情報漏えいではなく、あの風体の男達の目撃情報があったのですよ。王都から離れた、辺境に近い領地のさる神殿で」
あら、とロザリアは扇で口元を押さえた。
「その教団については少し前から動きが不穏だとの情報もあり、そのことについては我々騎士にも周知はされていました。が、南領を中心に信徒を増やし王都でも勢力を広げ、簡単に介入も出来ない程大きくもなっておりまして」
「手をこまねいていた、というわけね」
「面目ないとしか申し上げようがありませんが」
ふふとロザリアは笑った。
「でもねえ、当家としては協力しますよと申し上げていたのよ」
「は……」
微かに目を見開くロンツバールに頷いて見せた。
「ま、陛下にもお考えがおありでしょうから黙って見ていたのだけれど、わたくし自身も巻き込まれてしまったわけですしねえ」
扇を広げて軽く仰ぎながら「まったく、相変わらず慎重すぎる方だわ」と溜息をついた。
「とはいえ、今回、王妃殿下の失脚がなければ迅速にはいかなかっただろう」
言葉を発せずにいる小隊長の代わりにアルカミラ公爵が言ったそれは、王妃の失脚が王の企みであると言っているようなものでもあったが、ロザリアは軽く鼻で笑った。
「それ以前に時間をかけすぎよ。そもそも私、あなた方が取るに足らない存在と見なしていた頃からアズュリア様には目を付けていたのよ。遇し方も利用の仕方も気に入らないわ。彼女の存在を引換にするほどの価値をシュベタハにもデルフォイにも感じない」
自分であれば、もっと早くにアズュリアの有用性を示せていたと言いたげなロザリアであったが、そうならないように過ごしていたアズュリアにしてみれば有難迷惑と言う所だった。勿論それもロザリアは承知の上ではあった。
「あの教団が胡散臭いのも随分前から陛下には報告していたわ」
最初は南領で勢力を伸ばしたのだ。ヴェルダルが王家に先んじて調査しているのも当然である。
アデレフでの盛況な様子を見ながら、あまりシュベタハが力を持ちすぎないように女神教の神殿に足しげく通い、女神教を通じて慈善事業を行ったりしていた。その為、アデレフ程布教活動もはかどらず、ヴェルダル領内のシュベタハ信者の数は横ばい傾向にある。
「もっとも、陛下が早い段階で処理しようとしたら、あの教団はもっと巧妙になったでしょうから、良かったと言えば良かったのかしら。結果論だけれど」
当初に思った以上にやっかいな団体なようだから、とため息交じりに呟いた。
「王妃殿下と繋がりが深くて、暗殺部隊まで抱え込み、色々な謀に重用されていた事も陛下の決断を躊躇わせる一因だったのかしらね。それが王家の利害と一致している間は有用と言えば有用だったもの。まあそうやって見逃している間に王妃殿下と教団は味を占めたというか舐めてきたわけだけれど」
王家には王家の諜報部隊がある。だが指揮権は王にあり、王妃にはない。故に王妃は、教団の暗殺部隊を己の手足として利用した。
多少の事は目こぼしするつもりであった王も、気が付くと度が過ぎていたのだろう。
「あの人、色々と策を弄するのがお好きだったわよねえ」
その割に最終的に何を目指しているのかがよく判らなかったけれど、と続けた。
国を安定して存続させるため、とも思えず。己の地位を安泰に保つため、にしてはアズュリア周辺の予算の件など随分中途半端でもあった。異能研究所との癒着については、何か裏事情でもあるのかと思いきや、使い物にならない貴族家の次男以下を引き受け賄賂を受け取るような単なる裏金作りしかなされておらず、特定の貴族家との繋がりは出来ただろうが、それだけだった。
それで得た資金をどうしていたかと言えば、多少の贅沢はしていたが、シュベタハの暗部の為以外にはあまり使用されてもおらず。
ロザリアには単に、「己の権勢をふるう事に快感を覚えている」人間にしか見えなかった。
「王妃に向いているようで向いてない人だったわ」
そうして己の策に溺れて破滅してしまった。
「その点アズュリア様は実のところ王妃に向いていたのではないかと思っていたわ」
アルカミラ公爵は眉を寄せた。ふん、とロザリアは顎を上げた。
「陛下もあなたも遅いのよ」
今では罪人になってしまった王妃はともかく王太子妃も差し置いた言である。
公爵は憮然とした顔をしたのみだったが、小隊長はいささか慌てた。
「あなたが記録係を下げたのは、好きに発言していいって事ではなかったの?」
それへロザリアが平然と問うと、小隊長は何か言いかけ、肩を落とした。
「その通りです。失礼しました」
「小隊長に当たるな。関係ないだろう」
公爵が取り成したが、ロザリアは眦を上げた。
「そうね、他人事みたいな顔をしているけれど、関係者はあなたよ」
腕を組むと南領夫人独特の綿のワンピースの袖がゆるりと上がる。ゆとりある袖から覗いた腕には紅い痣があり、恐らくは襲撃者の誰かに強く掴まれた痕なのだろうと思われた。
「傷は無いと聞いたが?」
それに気が付いて公爵が問うと、ロザリアは視線を追って己の腕のそれに今初めて気が付いたかのような顔をした。
「何をするにも手荒な連中だったから」
袖を引いておろした。
公爵夫人に近づいた男を退けようと間にはいった侍女を殴りつけられ、扇で男の腕を打ち据えたと聞いた。
鉄扇等の武器ではない筈だったが、思いのほか重く男の腕に響き、男は暫く腕が上がらなかったとも。
思わず遠くを見てしまった公爵だった。
「所でヒビキはどうしているの?」
「アデレフ侯爵夫妻の様子をご令息と見ていらっしゃいます」
小隊長が答えると、ロザリアは軽く目を瞠った。
「夫人はともかく、侯爵はかなり衰弱していらっしゃいます。専属医師も呼びましたが、ご令息のたっての願いで」
「そうなの。勤勉ね」
解放されたばかりで疲れているだろうに。
「ご令息についていて怪我をした騎士も手当して下さったようで」
「へえ……」
「どうやら深い信頼を得られたようです」
「そう。まあ、ヒビキなら彼の傍にいてくれてもいいけれどもね」
「で、君はそのヒビキを利用してなにをするつもりなのだ?」
公爵の問いに心外だとばかりに畳んだ扇を口元に当てた。
「まあ、王妃殿下と違って私は謀を楽しむ趣味はなくてよ」
「体裁は良い。記録係もいないのだ。そもシュベタハをどうするつもりだ」
ロザリアは扇の端を顎に当て、暫く公爵の顔を凝視した。
氷の青と言われる瞳はまっすぐロザリアを見返してくる。
「今回の件で証拠は十分でしょう?当主は謹慎中とはいえ上級貴族の屋敷を襲撃してきた上、訪問中だった上級貴族夫人かつ王妹が巻き込まれたのよ」
さっさと国から追い出すか、いっそ教団を追及して潰してしまえ、と目が語っていた。
「流石に陛下もそのおつもりではあるようだが、確実にシュベタハ教を示す証拠が残されていない」
「上級貴族の証言だけでは不足かしら?」
「物的証拠がない以上、言い逃れは出来る」
それでも王命とあらば、神殿の家宅捜索等は速やかに行われるだろうし、何なら国から撤退させる事も出来るだろうが、時間を置いて別の形で入って来る事は確実だ。もっと決定的な、息の根を止めてしまえる程の証拠が必要だった。
ロザリアは畳んだ扇を顎先に当てたまま天を仰いで溜息をついた。
「わたくし、良い物を持っているのだけれど、あなた覚えているかしら」
問われて公爵は眉間に皺を寄せた。
「今回、誰が持っているのが一番良いかしらと考えて、ヒビキに渡しておいたのよ」
公爵の眉間の皺が深まった。
「最終的に、ヒビキはご令息に渡したようよ。正解だったのではないかしら」
ぱさりと扇を開く。
「あなたの奥様から借りっぱなしの魔法道具」
にっこりと笑う。
「色々映っているのではないかしらね?」
見に来てくださってありがとうございます。
いいね、評価、ブックマークありがとうございます。
大雨降りました。
前回「足りるかなあ」とか言ってましたが、充分でしたね。
そして梅雨明けのように晴れ上がり、まためっちゃ暑くなりました。
友人から昼にメールが来て、普段誰も住んでいない実家で法事だそうで。
「坊さんを待っている所だが暑い!」とのことで。
ご苦労様な事です。
盆の行事もこう暑くては、どうしようもありませんよね。坊さんの袈裟暑そう……




