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---師匠、お待たせしました。
浅い眠りの中にすっと入りこんできた意思。
薬師ヒビキは銅色の目をうっすらと開いた。
「暗躍してきたのかい?」
笑みを含んだ掠れた声は一見性別不明な中性的外見であるにも関わらず、妙な色気を含んでいた。
弟子は寝起きの師匠を見慣れてはいるが、その度不思議な思いをしていた。
普段は人を食ったような態度で他者から胡散臭い人物と思われている師匠だが、その時は息をのむほど美しく見えるのだ。
いらぬ弊害を避ける為、もしや常に姿変えの魔法道具を使用しているのではないかと思うほど。
---何もしていませんよ。事態が動き始めただけです。
「おや」
ヒビキはうっすらと笑ってゆっくりソファから身を起こした。
「令息も起こすべきかな」
---その前に浴室の男ですね。
ヒビキは不審そうな顔をしつつも笑みに混ぜた。
「懐かしいかい?世話になったからね」
---そうですわね。師匠とは違った森での過ごし方を教わったりもしましたし。
あの男だけではなく、下男の数人が暇を見ては調薬や畑作業に必要な棚等の小物を作ってくれたり、アズュリアへ道具の使い方を教えてくれたりした。薬草採取で森へ入る際なども、師匠と二人では危険だろうと交代で付き添ってくれたりもした。実質的に屋敷を管理している家令が彼らで周囲を固めてくれているのだろうと思っていたが、今考えるとあの家令も執事長やオズダトリアと連絡を取り合ってアズュリアの周辺を気遣ってくれていたのだろう。
「私よりも手際よく森の獣なんかの急所や仕留め方やさばき方を教えてくれたり、手ほどきしてくれたりしたね」
---ええ。おかげで多少の血や内臓などは平気になりました。あと、鉈剣の使い方も教えてもらいましたね。あれは本当に役に立っています。
本来は藪こきの為に覚えた筈だったが、彼らの指導は剣術の基本だったらしい。それも最近気が付いた。
刃物は危ないので、基本的な事から覚えましょう、とにこやかに言った最初の男の顔は忘れない。
ヒビキは笑いながらソファから立ち上がり、洗面道具を持って浴室へ向かった。
夏場の事とて夜明けは早いが、それでもまだ薄暗い時間ではある。
男の様子を窺うと、眠っていたようだったが目を開いた。
「おや、起こしたかな」
「いえ、そもそもこういう状況では眠りは浅いので」
人の気配や物音で起きるような訓練をされているのだろう。
ヒビキは男をそのままに、洗面台で顔を洗う為に踵を返したが、その後ろから現れた青い人影に流石の男も息をのむ気配を感じ取った。振り返りはしなかったが。
「アズュリア様……」
男は微かに声を震わせた。
---久しぶりね。
「一体、これは、どうしたことですか」
死んだはずでは、とは言えなかったのだろう。アズュリアは微笑んだ。
---幽霊みたいなものよ。
「はあ……。実体は、身体はどうなさったのです」
やはり炎と煙に巻かれて失われてしまったのか、と男は眉を寄せるがアズュリアは首を振る。
---色々あったのだけれど、最終的には蛇に呑まれて、王子の祈りという呪いの攻撃に圧殺されそうになって、転移したのだけれど、転移先が予想外で、どこか次元の狭間のような所だったの。出られるのは幽体というか、こういう影みたいな意思でしかなくて、まあ、つまり、だから幽霊なのよ。
「では、実体は失われてはいないのですね」
---今のところはね。
「先行きは判らない、と?」
---実体はどこともしれない空間で仮死状態だもの。そのうち朽ちてしまうでしょう。
「出られる可能性はあるのでしょう?」
---ないとまでは言えないけど、可能性は低いんじゃないかしらね。
何という事もないようにアズュリアは言う。
「脅かすのはその辺にしておかないかい、アズュリア」
顔を洗って適当に身支度を済ませたヒビキがついたての向こうから入ってきて、呆れたような口調で弟子を止めた。
「現状はそう、ということだよ。仮死状態なのか単に眠っているだけなのかもわからない。空間もこちらと同じような時の流れ方をしているかどうかも判らないんだ」
ヒビキは男の手を取り、脈や体温などを確かめ、包帯を取って傷の状態を診た。
「うん。大体塞がっている。だいぶ楽なんじゃないかい?」
ヒビキに言われて、男は不審な表情を浮かべたが、半身を起こして床に足をついた拍子にぱちりと瞬きした。
「痛みがない。身体が軽い、です」
ヒビキはにっこりと笑った。
「弟子特製の傷薬だからね」
「傷薬……。いや、しかし、そんなものでこんなに早くふさがるような傷ではなかった筈……」
男は他の薬を塗っただけで包帯をしていなかった傷を確かめたが、痕すら残っていない事に絶句した。
「弟子の薬はある界隈では有名でね。組合は薬効が高すぎて通常の流通に乗せられず、職人組合に特殊な薬として流しているんだ。数も少ないし、皆口が堅くて驚いているが、他からよこせと変な横槍を入れられるよりはと思って黙っているのかもしれない。じわじわ漏れ出してはいるようだが」
---あら、そうなんですか。
アズュリアは他人事のように言った。
「君だって、変に人にばれないように、気を使って薬の効果を落としていたじゃないか」
---まあ、そうですね。面倒なことになりそうだったので。
「知られていれば、王家が君を手放す事はなかったろうからね」
---ああ、でも、私、王宮で作った薬は全部「多少他よりは効くかな?」程度の物でしかなかったんですよ。不思議なことに組合に年一回納品する薬だけは薬効が高かったようですけど。どうも無意識に王宮内に収める薬にはあんまり異能発揮してなかったようです。せめてもの抵抗だったんでしょうかね。
感情を殺して淡々と過ごしているだけのつもりだったが、内心腹は立っていたのだろうとやはり他人事のように自己分析する。
異能が今のように変化したのもアルカミラへ移ってからの事だ。自己制御できる頃でもなかった故に、感情がそのまま結果に反映されていたのかもしれない。
「我々も、あなたの薬の効果については知りませんでした」
---年に一度、十個程度を卸しているだけの薬だもの。王都の職人組合限定で使われているだけで。
「とはいえ、これだけ劇的な効果があるなら、評判になっても不思議ではないと思われます。恐らく職人組合と薬師組合の口が想像以上に堅かったのでしょう」
では、もう少し感謝しなければ、とアズュリアは思った。
と、同時に、これからは恐らく納品も出来なくなる事に少しだけ申し訳ない気持ちにもなった。
身動きが取れない時に苦労して取った薬師資格でもあるだけに、失効してしまうのも悲しいが、肉体を失ってしまった以上は致仕方ない。
「さて、次は少年を起こしてこよう」
ヒビキは浴室を出て行った。
意外にすっきりとした顔をして入ってきたイータハーサは起き上がっている騎士を見てほっとしたように微笑んだが、その傍らに立つ人形の青い影に気が付いて顔をこわばらせた。
ヒビキに「弟子です」と紹介され、躊躇うように口を開いた。
「アズュリア様、ですか」
どこか、何かを求めるような眼差しで問う。
---初めまして。アデレフ侯爵令息。
はっと我に返って少年イータハーサは礼をとった。
「初めまして。イータハーサ・デルフォウ・アデレフです」
---アズュリア・デルフィナ・シルド・アルカミラです。
今の所は、と付け足した。
その意味を三人は察したが、敢えてそれについて問う事はしなかった。
「シルドって?」
そのかわり、ヒビキが耳慣れないミドルネームに首をかしげる。
---準男爵を賜った時に、新しく家名を用意するよう国王陛下に命ぜられまして。確かにエスタリアから籍を抜くわけですし、その場で適当に思いついた名前を届け出ました。国王陛下も別段反対されず、すんなり了承されました。
「適当にね……」
呆れたように呟くヒビキ。
---数日後にはアルカミラ家と婚姻を結ぶわけで、あまり意味のない家名だなと思ったもので。正式名称を署名する時くらいしか用のないものですし、初めて名乗りました。
「今、敢えて名乗ったのは?」
---アルカミラを名乗るのもこれが最後かなと思いまして。家名はシルドになるので慣れておこうかなと。ただ、それも本当に名乗る可能性は殆どないと思うのですが。まあ、気まぐれです。
アズュリアの微笑にヒビキは肩をすくめるしかない。
「あの、アズュリア様」
少年は勇気を振り絞るように声を出した。
三人が視線を向けると一瞬気後れした様子を見せたが、軽く息を吸った。
「ありがとうございました。その、色々と」
アズュリアは微笑んだ。
---全ては精霊の望んだ事です。それよりも、始末をつけなければなりません。覚悟はよろしいのですよね?
少年の顔色は青かったが、決意を込めた表情でうなずいた。
見に来てくださってありがとうございます。
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書いているうちに最初の設定を色々忘れていく事に慄いています。なんてこったい。
途中で思いついた事も数分後に忘れ、ちょっと心配になるレベル。
毎日暑くてしんどいですね。
皆さまご自愛くださいまし。




