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薄い眠りからふと浮上する。
この所、夢はよく見るが以前に比べるとよく眠れるようになったというのに。
エスタリア公爵夫人はゆっくりと半身を起こした。
喉が渇いていた。
侍女を呼ぼうとサイドチェストの上の呼び鈴に手を伸ばしたが、手は呼び鈴を通り抜けた。
驚いて止まり、そしてこれは夢なのかと周囲を見回す。
そういえば、これほど身軽に半身を起こせたのは久しぶりのような気がする。この所、手足に常にまとわりついていた重さもない。軽い。
手を目の前で広げて、その向こうが透けて見える事を確認して「夢だろう」と結論付けた。
最近は現と夢の間の様なぼんやりした世界をよく漂っていた為、あっさりと受け入れてしまった。
ふと、目の端に何かの光が見えてそちらへ意識を向ける。
そして息をのんだ。
良く知っている男が立っていた。
それは夫でも護衛でもない。
幼い頃から傍にいた、銀髪の美しい庭師。
震える唇で男の名前を呼ぶが、男はただ黙ってこちらを見つめるのみ。
いや、こちらを見ているのではない、どこか別の所を眺めている。
「どうしたの。私の声が聞こえないの?」
まだ以前の体力は戻っておらず、声にもなかなか力が入らない。それでも、出来るだけ大きな声を出して話しかけた。
男は何かに気が付いたように首を巡らせ、そして漸くこちらへ視線を向けた。
「私よ。判る?」
男は小さく首を傾げた。
「私は、夢の世界からもう出られなくなっていた筈だが……」
不思議そうに公爵夫人の顔を見る。
「これも夢か……。おかしいですね。夢の世界でまであなたに会うなんてことは無いと思っていたんですが」
「心配していたのよ……。あなた来なくなってしまったのだもの」
男の自問自答らしき独り言にも耳を貸さず、公爵夫人はゆっくりと手を伸ばす。
以前はこうすれば、男はその手を取ってくれた。
だが今は一歩たりとも動こうとはしなかった。
夫人の手はぱたりと掛布の上へ落ちた。
「もうあなたには触れられないのかしら」
夫人の声は震えていた。
「触れ合う必要もないですから」
「どうして……」
「判っているのでは?」
夫人の青い瞳に涙が滲んだ。
男の瞳は、ずっと薄茶色だったはずだが、今は光彩が赤く血のようだった。
「あなた、私に草木の名前を教えてくれたわね」
夫人は不意に男から視線をそらした。
「小鳥の名前も。パンくずが小鳥の餌になる事も。花の育て方や剪定の仕方まで」
「他に話題が無かったですから」
「でも新鮮で楽しかった」
男はつと胸をつかれたように口をつぐんだ。
「私は、あなたが好きだった。出来るなら結婚するとき公爵家へついてきてほしかった」
「側近でもない、公爵家には専属の庭師がいる、余程腕のいい庭師でない限り、ついていくなんてありえない話ですよ」
「それでも一緒にいたかったの」
夫人の唇は震えながらも微笑の形に変わった。
「あなたのいる庭が好きだったの」
男の唇は歪んだ。
「だから実家の庭にはよく通ったの。庭師小屋であなたが作っていたお菓子作りを手伝ったり、楽しかった」
「あなたは昔は控えめで大人しいご令嬢でしたね」
「あなたの小屋の近くに繁っていた甘い香りの薬草が、私の性格を変えてくれた。外が怖くなくなって、大胆に振る舞う勇気をくれたわ。気持ちが楽になって、何でもできるような気さえした。今なら判る、私、変だったわ」
万能感に酔って、大胆を通り越し奇天烈な行動を繰り返していた。
「本来なら、あんな振舞い出来るはずがない。私は小心者だもの」
男は笑って、手の平を前に出した。
小さな種が現れ、見る間に芽吹く。
夫人は息をのむ。
「ここにありますよ。あなたが大胆になれる素が。差し上げましょうか?」
夫人は震える手を伸ばしかけて下した。
「受け取ってはいけない事くらいは判っている」
男は皮肉に笑みを歪めて小さな花を咲かせ始めていた草を握りつぶした。
「賢明ですね。公爵閣下との関係は改善なさったのですか?」
「旦那様は驚くほど寛容な方だったわ」
夫人はため息交じりに堪えた。まるで責められた方が楽だったと言いたげな口調だった。実際そうだったのだろう。
「私との関係を知っても寛容でいらしたのですか」
男は心底驚いたように皮肉な笑みを消した。
「判らないわ。そのことについて話したことは無いもの。もしかしたら気づいていないのかもしれないけど……、いえそんなことはないわね、きっと」
夫の傍にこの所常に控えている執事長の顔を思い浮かべる。
以前の記憶は朧げだが、先代の頃から公爵家に仕え、全ての面において夫のサポートをしてきた男だと聞かされた。穏やかな表情で控えめに振舞うが、その目はぬかりなく周囲へ配られ、些細なことも見逃すはずはないと思われた。
体調を崩した家令を補佐する為に暫く領地へ行くと決まった時は内心ほっとした。
無意識に見張られていると感じていたのかもしれない。
そして、男が去って漸く羽を伸ばした。
ああ、羽を伸ばしていた気分だったのか。
はたと夫人は気が付いた。
あの男の視線が重苦しく苦手だったのだ。
人の奥底を見通す、長女やあの薬師と同じだ。
「私、ああいう人が苦手なのだわ」
呟いた夫人に男は眉を寄せた。
「うちの執事長。長女も、薬師も。視線が突き刺すよう」
「それは、あなたが見通されるとまずい物を抱えていたからでしょう」
夫人は息を呑んで顔を上げた。大きく目を見開いて男を見返す。
「あなたが私に一番最初に会った時、あなたは私に「主様」とおっしゃった」
沈黙が落ちる。
「あなたの中にはあなたでない者がいる。荒ぶる蛇の残滓なのか。あなたの人格の中に紛れ込んで時折顔を出す」
「やめてちょうだい!」
夫人は悲鳴に近い声を上げて両手で頭を抱え込んだ。だが男は淡々と続けた。
「あなたの屋敷の庭に漏れ出ていた魔力の粒子、地の力は、本来ならばあそこで蓋されて封じておかれる筈のものだった。グノウ家当主はあれに気が付いたその時から、己の家はその為の家だと思い決め、あの場所を動くなと遺言したのだ。そんな家系にあなたのような人間が産まれるとは、皮肉なものだ」
夫人は激しく首を振った。
「私は使徒の一人に過ぎず、あの方の足元にも及ばない存在だった。残滓ですらないわ」
夫人の青い瞳には涙とともに明らかな怯えが浮かんでいた。
「私の中にそれがある事に、長い事気が付いていなかった。ただ、時々自分でも思ってもみない言動に走ることがあって、その頻度が上がっていって、怖くなった……。私はいつか、私の中の見知らぬ存在にのっとられてしまう。そう、思って、それで……」
男の顔を見て笑う。泣きながら。
「あなたがいてくれると何故か大丈夫だと思えたの。どうしてだか判らない」
だが男は肩をすくめて冷ややかに夫人を見下ろす。
「私は私の命を掬い上げた白蛇の言うがまま動いていただけです。私にはこれといって生きる目的もなかった。あなたが私に目を止めたのは偶然なのか白蛇が仕組んだことなのかは判りませんが、あなたが理性を僅かずつ削がれていって、そこから現れた本性が長女を虐げる様を見てどうしたことか安らぎを得ていた事だけは真実ですが」
夫人は不可解な顔をして男を見上げた。
「子供を虐げる母親も、母親に虐げられる子供も、私と母以外に存在するのだと確認できると、気持ちが軽くなりました。何故だかは判りません」
ふ、と笑みを浮かべる男の顔は記憶にあるよりも青白く頬もこけていたが、今までで一番楽しげに見えた。
夫人は言葉を失ってただ目を見開いてそんな男を見つめる。
「私は一度死んだ人間です。白蛇が偶然私を生かしただけ。私の中には生きたいという意志もなく、ただ、蛇の言うまま、異能に導かれるまま草木を世話して生きていただけ。あなたの行動に今更慰められるとは思いもしませんでした。それだけは感謝しています」
幼い頃から、男はこちらの求めに応じて従ってはくれるが心の中はよく見えなかった。ずっと何を考えているのだろうと不思議に思いつつも、男の傍は何故か居心地がよく、それ以上は敢えて考えずに過ごしてきた。
公爵家へついてきてはくれなかったが、実家に帰れば微笑んで迎え入れてくれた。男に庭仕事を教えられて花壇の花の世話を手伝ったり、焼き菓子を作るのを手伝ったりもした。男が育てていた薬草は変わった香りがしたが、それもまた心が落ち着く心地がした。公爵家へ嫁ぐことになって不安がないわけではなかった己にとっては妙薬でもあった。家庭教師に繰り返し言われた「公爵夫人として振る舞う」事ができていると思えた。男は「あなたは努力している。立派です」と常に柔らかく励ましてくれた。
いつの頃からか夜間に公爵家へこっそりと出入りするようになった男と親密な関係になったのは……
「私たち、依存し合っていた……?」
夫人の問いにもう一度男は肩をすくめた。
「そうだったのでしょうね」
傷の舐めあいに、果たして愛はあったのか。
「あなたの中にあるそれは、大変困った性根でしたが、今は出てこないようですね。抑えられるようになりましたか?」
「あの薬草でぼんやりしていない限り、以前もそんなに出ていなかったと思うけれど……」
夫人の不安げな様子に男は肩をすくめる。
「あなたが思っている以上にそれはよく表に出てきていましたよ」
「そう、なの……?あの薬師が治療して目覚めてから、体力はゆっくりとしか戻っていないけれど頭の中はすっきりしているわ。これまでにない程。どんな治療だったのかは知らないけれど」
夫人の体内から呪いの核を取り除いたと。どうやったのか、男には想像もつかない。あれはもう植物ではなく、完全に呪いに変じて絡み付いていたのだ。
「あなたの中に呪いを植えつけたのは、あなたの愛する「主様」ですよ」
ひくりと夫人の喉が動いた。
「あなたはそれをむしろ喜んで受け入れ、とてもよく馴染んだ」
男はまた楽しげに微笑んだ。
「あなたの意識の中でどう理解しているのかは判りませんが、次女はあなたの胎内でその影響を受けて変質した。あなたの中では次女の胤は主様かもしれませんが、元は御夫君ですよ。完全に変質してしまって見る影もありませんが」
夫人は複雑な顔をしていた。
「次女の中にも呪いの核はあり、馴染みきって癒着していましたが、それもまた除去したのですよね。あの娘、あなたの長女とは思えない。大したものだ……」
感心したように言う男に夫人は驚いたような顔をした。
「おや、ご存じなかったのですか?」
「いえ、でも私に施術したのは師匠にあたる薬師だったし」
「おやおや、それはあなたの長女だったようですよ。姿を変えていたそうです」
夫人は息をのんだ。男は楽しげに続ける。
「あなたも御夫君もお気づきではなかったらしいが。まあ彼女も気づかれたくはなかったようですし、それでよかったのでしょうね」
「あの子は、宮殿の地下牢で行方不明になったと聞いているわ」
夫人は蒼い顔をして唇を震わせる。
「死して自由を得る」
男の言葉に夫人は黙った。
「あなたの長女はうまくやった。大半の人間は死んだと思っている。王家にとってもその方が都合がいい。生存を確信しているごく少数の者はそれを確かめる術がない。そして今となっては彼女は実体すらなく自由に動きまわっている。誰も彼女に接触する方法を持たない。彼女が望まない限りは」
私も、彼女にここまで連れてこられたのですよ、と。
男が言って、そして、振り返った。
男の背後には。
青く透き通った影のような、少女の輪郭がぼんやりと佇んでいた。
あっちい……
背中丸出しの恰好をして首に保冷剤巻いてます(手ぬぐいにくるんでます)。室温は三十度超えてますが、保冷剤で背中が濡れてそこに扇風機が当たっているとそれなりにしのげはします。「涼しい」って程ではないですが。保冷材はあっという間に溶けます。
見に来てくださってありがとうございます。
いいね、評価、ブックマークありがとうございます。
なろうの新機能に戸惑っています。お知らせ来るのはありがたいんですが、ずーっと下の方とはいえ、なぜランクインしているのか不思議です。とっくに完結していたり、一年以上も前の短編だったりするのに。
いえ、来て頂いているということでしょうから有難いんですけれどもね。
ええ、足を運んで下さる皆様には感謝しております。ありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします。




