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暗い水の中を、結界に包まれたまま静かに沈んでいく。
時折気泡が通り過ぎ、その中には何かの映像が浮かんでは消えていく。
アズュリアはぼんやりと、見るともなくそれを見ていた。
古代都市の壮麗な神殿。
陽光に輝く湖。
人々の祈り。
都市を行きかう活気ある民。
幾つも幾つも気泡は通り過ぎて行った。
奥殿に住まう美貌の神官。
湖の中心に浮かび、問答を投げかける魔導士。
アズュリアは、ぱちりと瞬きした。
神官と魔導士は相対し、やがて微笑みあった。
泡の中で見事な銀髪と碧の瞳を持つ人物が愁いを帯びた微笑を浮かべた。
振り払う腕。
二つに裂けた魔法契約書。
神殿は崩れ、湖は決壊し、地は割れた。
***
---ユールは我の物だった。
どこからか悲痛な声が聞こえてきた。
---あれは我の物であり、我はあれの物だったのだ。
---何故去った。
---何故裏切った。
---何故。
---何故。
---何故。
血を吐くような声だった。
***
闇の中にぼんやりと、銀の髪、碧の瞳の人物が佇む姿が浮かんでいた。
冴えわたる美貌は冷ややかで、長身でローブをまとっている事もあって、男女どちらとも判別がつかず、そのたたずまいはどこか師に似ている、とアズュリアは思った。
だが視線が動き、人形のようだった表情が何かの感情を帯びた途端、その人物は全く別の印象を見せ、アズュリアはそれが師ではなく別の人間に似ている事に気が付いた。
「この人?」
アズュリアはアルテラに問う。
---そうね。
アルテラも驚きを含んだ声で答えた。
「これって過去の映像?」
---そうね。
過ぎ去った時の記憶に過ぎないはずのその人物は、こちらに気が付きでもしたかのように真っ直ぐに視線を向けてきた。
***
「あの子はどうしていますか」
エスタリア公爵夫人が不意に夫に問うた。
どうにか寝台に半身を起して、日に三度きちんと粥を食べられるほどに回復した夫人は赤子に会いたがり、乳母が抱いてきた息子を弱々しい腕で抱いてあやした際の事だった。
毛布や枕で背もたれを作り、そこへどうにか寄りかかって赤子の顔を覗き込みながら。
エスタリア公爵は日に一度は必ず妻を見舞っていたが、連絡を受けて執務を中断して赤子と一緒に訪れたのだった。
「この前言った通り、アルカミラ公爵領で療養しているよ。順調に回復していると報告を受けている」
「ああ……」
夫人は薄く瞼をおろし、赤子の緑の瞳から目をそらした。
「いえ、あの子ではなく……」
ゆるりと夫を見上げる。
「アズュリアは、どうしておりますでしょう」
公爵は言葉に詰まって妻の青灰の瞳を見返した。
今まで欠片も関心を示してこなかった長女の事を?
そう思いつつも無意識に重くなる胸を押さえながら口を開いた。
「実は王宮で事故があって巻き込まれ、行方不明だ」
「え……」
公爵夫人は夫の言った事を一瞬理解できなかったらしく、怠そうだった眼をぱっちりと開いて二、三度瞬きした。
「あの子はアルカミラへ行ったのではなかったのですか?」
漸く出た言葉に、衰弱しだす前の記憶はきちんとあるらしいと知る。
「今年は雨が少なく、どこも渇水で難儀しているが、アルカミラが飲み水や食料等を足りない場所へ供給する為の事業を始めてね。あの子はその事業の中心的存在で、画期的な発明や異能の術を発揮している為、議会へ招かれたのだ。その際にごたごたがあってね」
「どういう状況で行方不明などに……」
公爵は手振りで乳母と侍女を壁際へ下げさせ、胸元から結界魔法道具のピルケースを出し起動させた。
「具体的には地下深い場所で火災に巻き込まれたのだよ。火が収まってからも、余りに地下深い為、呼吸が可能かどうか判らない上、どうやら部屋そのものも崩落してしまっているようでね。人を入れて作業しなければならないが、それが出来る状況でもなく」
「何故地下に……?」
公爵は溜息をついた。
あまり衝撃を与えるようなことを言うのもどうかとは思ったが、きちんと説明をするべきだろうとも思った。
最初から経緯を話すことにした。
王妃との茶会の事。冤罪で捕らわれ、どういうわけか通常の貴族牢ではなく誰も知らない地下の独房へ入れられたこと。洗脳された男が鞭打ちの為に入った事。遅れて入った第二王子が見た状況。更にがたつくテーブルから男がカンテラをうっかり落とし、それがもとで部屋が火事になった事。
つまり、長女は生死不明である事。
妻はぼんやりとそれを聞いていたが、聞き終えてまたぱちりと瞬きをした。
「あの子は、襲撃と毒では死なず、火で死んだのですか……」
「……遺体は確認されておらぬよ」
公爵の言に首をかしげた。
「誰も生きているとは思っていないのでしょう?」
公爵は黙り込むしかなかった。
妻はそんな夫の顔から視線をそらし、その背後を見やる。
「あの薬師はどうしたのです?」
ヒビキの事か。
「そなたの体調も落ち着いたので、屋敷からは去ったよ」
「そうですか……」
何事か考え込むよう視線を落とす。
意識は完全に赤子から外れ、腕の力も限界のようだった。もう良いだろうと公爵は乳母に合図し、妻の腕から赤子を取り上げさせ、下がらせた。
妻の意識はどこか別の世界を彷徨っているように思えた。
「あの薬師、あの人に見つめられると、とても怖かった」
呟くように声を出す。
「何もかもを見透かされているようで、まるでアズュリアのようでした」
譫言のような呟きに公爵は眉を寄せた。
「姿は似ていないのに、そっくり……」
「あの薬師は領地でアズュリアの師だったのだ。似ていても不思議はない」
「師……」
何かを思い出すような顔をする。
「あの子の黒いまなざしはいつも突き刺さるようでした。私はあの子の視線がずっと怖かった。恐ろしかった。あの薬師の眼差しはそれにそっくり。どうしてあんな目で私を見るのか……」
「そなたは長い年月呪いを受けていたのだ。あの薬師はその呪いを取り除いてくれたのだぞ。方法はアズュリアが考え出した。あれらは患者としてそなたを見ていただけだろう」
「あんな、幼いころから……?」
夫人の唇は微かに震えていた。
「調薬の異能が発現したのは五歳の頃だったが、ああいった能力を持つ者はそれ以前から己の異能に関わる事物には敏感らしい」
「……」
夫人は答えず、ただ唇を震わせて背もたれに寄りかかった。
「呪いを受けていた方が良かったとは言うまいな」
びくりと肩を震わせる。
「私はそなたと信頼し合って結婚したと信じているよ。結婚生活は呪いに滅茶苦茶にされたが、始まりから間違っていたとは思いたくない」
公爵は壁際に控えていた侍女達に合図した。
公爵夫人の侍女は一新され、現在はメイドともども看護人を兼ねている。速やかに寝台へ歩み寄り、夫人の背もたれを取り去り、そっと横たえ掛布をかけた。
「子供達への対応の仕方も見直そう。少なくとも赤子については、間違わないように」
公爵の言葉に妻は身を固くした。
「私はアズュリアの生存を願っているよ」
遺体が見つからない限りは、生きていると信じるよ、と公爵は続けた。
妻は微かに喉をひきつらせた。
それが嗚咽である事に気づいたが、公爵は何も言わず、掛布の上から妻の肩を軽く叩いて部屋を出て行った。
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