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01

 冷ややかな眼差しは凍てついた星のような青。


 人間味の一切感じられない美貌を持つ青年は、それにふさわしい無表情でこちらを見下ろし、事務処理のような調子で告げた。


 「王命としがらみで受け入れた婚姻だ。衣食住は保障するが、それ以外を与える気はない」


 アズュリアはそれを聞いて、顔を上げた。ぴりりと米神が痛んだ。


 「衣食住を保障……」


 「不満か?」


 思わずといった風にこぼれ出た小さな声を聞き咎めたかのように、青年、アルバタージ・デルフォイ・アルカミル公爵は問う。


 「いえ。他に留意すべきことはございますか?」


 微かに掠れていたが、久しぶりに発声したにしてはまともな声だな、と他人事のように思う。


 「言うまでもない事だが、対外的に公爵夫人として問題のある行動は控えてもらう」


 「はい」


 「我が家は特殊な家だ。社交を行う必要はないし、そういった場へ出る事もほぼない。王家に定められた行事に出席する際は私だけが参加する」


 「はい」


 「公爵家の後継は、血族の中から最適な者が選ばれる。従って、私は必ずしも子をなす必要はない。現在、二歳になる従弟が最も能力が高いだろうと予測されている」


 「はい」


 「そなたと実質的な夫婦になる必要もない。そのつもりもない」


 「はい」


 「以上だ」


 「承知いたしました。衣食住は保障してくださる、公爵夫人として問題のある行動は起こさない、社交の必要はない、実質的な夫婦関係は結ばない。文書に起こして頂けますか?」


 青年は初めて表情を僅かに変えた。


 「文書?」


 「二部作成して私と閣下の署名を」


 「契約書というわけか?」


 「はい」


 「そなたに何の益がある?」


 「私がどうこうというより、閣下がご安心でしょう。私の悪評を皆様随分とご心配のようですから」


 公爵邸に到着した時、門の内側で待ち構えていた使用人たちの眼差しは一様に厳しかった。


 歓迎されていないことは明らかだったが、アズュリアとて好きで来たわけではない。


 「そうか」


 公爵は視線をめぐらせ、家令を見やった。


 家令は速やかに正式な書面を用意した。


 「そなたの要望は無いのか」


 「叶えて下さるのですか?」


 「出来る範囲でなら」


 家令が一瞬、眉をひそめたのを見て、そうですわね、とアズュリアは考え込んだ。


 「わたくしの部屋はどちらになりますでしょう」


 「悪いが、当主夫人の部屋は用意できない」


 「ああ、ええ、勿論それで構わないのですが、離れのような場所がありましたら、そちらにお願いしたく存じます」


 「構わんが、理由は?」


 「出来るだけ皆様の目に触れない方が良いのではないかと思います。お互いの為にも」


 「判った。そのように」


 執事に目くばせする。


 執事は一礼し、侍女に手振りで指示を出す。侍女はするりと部屋を出て行った。


 「少し庭をお貸しください。離れの裏にでも」


 「園芸でもするつもりか?」


 「ええ。問題がありますか?」


 「景観の問題がある。庭師と相談してくれ」


 「かしこまりました。なるべく目立たないようには致します」


 「何を植えるつもりだ?」


 「野菜と花と薬草を」


 薬草、ときいて、ぴくりと公爵の片眉が上がった。


 「ああ、そなたには異能があるのだったか」


 「傷薬を作る程度の力ではございますが」


 ちらりと公爵の視線がアズュリアの米神に動いた。


 それで納得したようだった。


 垂らした髪でも隠しきれない、米神から顎まで続く一条の切り傷。


 「まだ治りきっていないのか」


 「はい」


 その傷をつけた刃には毒が塗られていた。解毒の為には傷を癒すわけにはいかず、傷口を開いたままにするしかなかった。


 漸く毒は抜けたが、血が止まっただけのそこは、赤く生々しい。


 それを見て、嘲笑したのは妹。父母は忌々しげな顔をした。


 「判った。そなたも色々あって落ち着かない日々だっただろう。離れでゆっくりするがいい」


 「ありがとう存じます」


 一礼する。


 家令がそっと作成した文書を差し出す。


 そこには先ほど公爵が提示した四点と、アズュリアに離れと庭を提供する事が付け加えられていた。


 公爵と二人で署名をして、一枚ずつお互いに持つ。


 ついでのように差し出された婚姻契約書にも署名する。


 もう終わりだ、とばかりに公爵は手を振った。


 アズュリアは古ぼけた鞄を持ち上げ、こちらへ、と案内する執事の後に続いて部屋を出た。




 アズュリア・デルフィナ・エスタリアは、ザイツェン国の三家ある公爵家の一つ、エスタリア公爵家の長女であった。


 真面目で大人しく、特段問題のある娘ではなかったはずだが、母親から譲り受けたはずの銀髪が、年ふるごとに漆黒に染まって行った事で、母親に忌避された。


 エスタリア家に黒髪が出ないというわけではなく、特に父の祖母に当たる人物は他国から嫁いできた黒髪の女性だった。何の不思議もない筈だったが、「黒髪は不吉」と信じる母が髪色が濃くなるごとに実の娘を遠ざけた。最初はたしなめていた父もいつの間にか母に感化され、更に、三歳下に妹が生まれるとより顕著になった。


 妹は母にそっくりだった。


 そして母親譲りの銀の髪色は、姉と違って濃くなる事もなく、その美貌も相まって両親の溺愛が始まった。


 対外的には分け隔てなく教育が施され、衣食住も整えられていたが、両親の愛情のかけ方の差は顕著で、屋敷の使用人たちも長女を遠巻きにするようになった。


 夫妻に溺愛されている妹が、姉を少しでも気に掛けるそぶりを見せるとそれだけで嫌がるようになったからだった。


 使用人たちにしてみれば、理不尽な、と思いもしたが、雇用主の機嫌を損ねてまで長女にかかわろうとする者はなく、長女は屋敷の中で孤立していった。


 また、長女は貴族家の者に時折現れる異能の持ち主であることが発覚し、更に孤立することになった。


 異能にも色々あり、華々しい才能を発揮する者もいたが、長女に発現したのは「薬草栽培」と「調薬」。貴族家の令嬢の異能としてはあまり歓迎される能力でもなく、それもごく弱い力であり、「地味な上に何の役にも立たない」と妹に罵られた。自分には異能が現れなかったので、そのやっかみも入っていたのだろうが。


 ただし、公爵家の娘で同じ年頃の異能の持ち主はアズュリアしかおらず、どんな能力であれ、異能は引き入れておきたい王家は年回りの合う第二王子の婚約者にアズュリアを指名した。


 妹は不満をあらわにしたが、その後に始まった教育を見て考えを多少改めた。


 用意された家庭教師は厳しく、それが数人であらゆる知識を無理やり詰め込む。姉は睡眠時間さえ削って勉強しなければならず、いつも睡眠不足で目の下に隈を作るようになった。


 定期的に王宮に呼ばれては、王妃自らの教育も行われた。第二王子は王太子のスペアであり、当然その婚約者は王太子妃のスペアである。手抜きは許されなかった。


 また、その異能の為に研究課題も課された。


 王宮の庭園の一画に薬草畑を作り、そこで栽培した薬草で薬を調合し、どのような薬が作成可能なのか、また異能のない薬師の作成した薬とどのような差があるのかを、宮廷医師と宮廷薬師に詳細に調べさせた。


 アズュリアは真面目で大人しいばかりの娘と思われていたが、真面目であるが故にきちんと勉学に励み、家庭教師や王妃の及第点は獲得していたし、力は弱いが「良く効く」傷薬や熱さまし、咳止めや、頭痛薬等も作成し、王宮医務室に納品する事さえもしていた。


 アズュリア周辺の人間達は概ね満足していた。


 家族と婚約者を除いて。


 妹は姉が王子の婚約者であることが不満であり、両親は妹娘が不満であることが不満であった。「美しい私の方が第二王子にふさわしい」と妹娘が言えば、両親はそれを肯定する。


 そして姉を邪魔と思う。


 婚約者もまた、地味で大人しい姉よりも、美しい妹の方が好ましかった。


 親睦を深めるための茶会にはいつも妹の姿があった。


 アズュリアも最初はたしなめたが、妹も両親も婚約者でさえ「妹に対する愛情も優しさもない」と責め立ててきたので、三度目からは何も言わなくなった。


 アズュリアは真面目だ。


 真面目故に、王妃にエスタリア公爵家における自分と妹の事は説明も報告もしていた。


 婚約者である第二王子が、恐らく自分よりは妹の方を好んでいることも。


 妹が姉にいじめられているだの、夜遊びしているだの、益体もない嘘を言いまわるようになっても、そんな暇などない事はスケジュールを把握している王家には明らかであり、真剣に取り合うことなどないと思っていた。


 ただ、噂は予想外に尾ひれを付けて広がって行った。


 婚約者が一枚かんでいるのだろう、とアズュリアは察した。


 足を引っ張り合う貴族社会において、それらは致命的だった。


 王子の婚約者である、というそれだけで、悪意を持って貶められるのだ、とアズュリアは実感した。


 そして、「どうにもできない」アズュリアに見切りをつけたのも王家だった。


 王家主催の舞踏会。満座の前で妹を傍らにくっつけた婚約者に婚約破棄を宣言された。


 身に覚えのない悪評をあげつらわれて。


 大人しいと思われていたアズュリアは、良く通る声ではっきりと、全て事実無根であり、身に覚えはない、と宣言した。王子妃教育の上に異能の研究までしていたのだ。それ以外に何をする時間が残ると言うのか。


 「婚約を解消したいなら、こんな所でこんな真似をせずとも、きちんと手順を踏めばよかったのに、何を考えているのか」とも。


 心底呆れたように言ったのが気に入らなかったのか、王子が激昂して手を上げた。


 ざわり、と人が動いた。


 殴りかかられるのが判って咄嗟に左手を盾にしたアズュリアだったが、ばちんと鈍い音がして王子の手が当たった瞬間、悪寒が走り抜けた。


 足元に何かが落ち、煙幕が上がる。


 幾つもの人影が走り抜ける。


 ひゅっと身体のすぐ傍で、空気を切る音がした。


 アズュリアは、無意識に上体をそらし、それを避けた。


 煙幕の中で、何故かそれが光って見えた。


 白刃に、青白く何かが塗られていることも。


 それが、王子の首を狙っていることも。


 全てはっきりと目に映った。


 アズュリアは、力いっぱい王子の胸を押した。


 同時に飛び込んでくる白刃が目の前に迫る。


 顔をそらしたが、米神に衝撃が走り、顎の方まで走り抜けた。



 「て、敵襲!」



 遅ればせながら、近衛が動き出した時、漸く薄くなってきた煙幕の中、尻もちをついた王子と顔の右側から鮮血をしたたらせている公爵令嬢が明らかになった。




 舞踏会場に現れた暗殺者は恐らく十名程。うち三名が死亡。残りは逃亡。


 狙われたのは国王一家。


 国王夫妻や王太子夫妻は煙幕と同時に護衛が取り囲んだため、護衛数人が犠牲になったが暗殺者は近づくことが出来なかった。一人会場の真ん中にいた第二王子は、はからずも、婚約破棄を宣言した令嬢にかばわれる形となった。


 滴り落ちる鮮血を見て悲鳴を上げたのは令嬢の妹。何が起こったのか理解できず、腰を抜かしていた。


 令嬢本人は、近衛に切り殺された暗殺者の刃に近づいた者達に「毒があるので触れてはいけない」と冷静に告げ、ハンカチで刃の毒を一部拭い取った。





 負傷者は全て毒の塗られた刃で切られていた。


 毒の種類を特定しなければならず、アズュリアは傷の手当もせず、王宮内に与えられていた調薬室へ駆け込んだ。


 異能による分析である程度予測は立ったが、確認し、解毒薬を調合しなければならない。


 薬草園にある薬草で事足りるのか。毒の進行は比較的ゆっくりだが、解毒薬が間に合うのか。


 傷口を洗い流して清潔を保つように言っておいたが、自分自身が何もしていないことに気が付いて、アズュリアは煮沸殺菌が済んでいる調合用の水で傷を洗った。


 流しに流れ落ちた、真っ赤に染まった水に手をかざす。


 その中から、微量の水滴が浮かび上がる。


 シャーレをその下に差し出すと、水滴は中に落ちた。


 剣から毒をぬぐったハンカチも水に浸して同様に。


 異能による毒の分離である。


 試液の準備をしようと棚から瓶を取り出した所で、扉がノックされた。


 「アズュリア様、大丈夫ですか」


 入ってきたのは宮廷薬師。


 「ええ。今から試薬で確認する所です」


 「特定の予測はついているのですか?」


 「ええ。何しろ私自身が毒に侵されていますからね」


 異能も発揮しやすいです、とこともなげに言う令嬢に薬師は顔をしかめた。


 「傷の手当は?」


 「毒の除去が済んでからですね」


 血は止まっているようだったが、異能による止血なのだろう。


 舞踏会の為のドレスは淡い色だった為、上半身の右側が真っ赤に染まっている。


 「私は異能のおかげで毒の進行を止められますが、他の方たちはそういうわけにもいかないでしょう。急がないと」


 「患者を見てきましたが、進行は比較的ゆっくりのようでした。いずれも毒の種類は同一かと思われます。傷周辺が紫色に変色しかけている者もいましたが」


 「進行しやすいかどうかも体質によるのでしょうね」


 いくつかの試薬の反応を見て、毒の特定はすぐに済んだ。


 「解毒薬も手持ちでどうにかできそうです」


 アズュリアはほっとしたように呟いた。





 アズュリアが調合した解毒薬はすぐに負傷者たちに配られた。


 迅速な行動に負傷者たちは感謝した。


 完全に毒が抜けるまでは一週間程度かかり、その間傷を塞ぐのは避けてほしいと告げると皆渋い顔をしたが。


 単なる怪我であれば、回復の異能者による治癒で一瞬にして治る事に慣れてしまっている護衛たちであった。




 一週間、アズュリアは調薬室で過ごした。


 公爵家へ帰っても、心身が休まるはずもなく、調薬室の方がマシと思ったからだ。


 着替えも置いてあれば、浴室もある。水も火も使えるので料理も出来る。


 食材は王宮の厨房から分けてもらった。


 薬草は料理にも使用する事から、アズュリアは料理人と仲が良かった。


 そうしている間に、王家と公爵家の間で何事か話し合いが持たれたらしい。


 国王から呼び出しを受けた。


 そして一方的な説明を受けた。


 第二王子との婚約は解消。


 第二王子をかばって負傷した事については褒賞を与える。


 迅速に毒を特定し解毒薬を作成したことについても褒賞を与える。

 

 褒賞の一つとしてアルカミル公爵との婚姻を結ぶこととする。


 褒賞の一つとして金貨二千枚を与える事とする。


 「はあ」


 アズュリアは小首をかしげた。


 支度が整わないと言ったのに、とにかくすぐに来るよう言われて来たので、髪は緩く結わえただけだし、服は薬師のローブである。


 傷があるので化粧も出来ず、生々しいそれをさらしたまま。


 「不満があるのか?」


 王は嫌でも目に入る傷に顔をしかめている。


 「いえ、特に。ただお金は家に渡さないでください。取り上げられてしまうでしょうから。ああ、褒賞の件は家に知られているんでしょうか?」


 「婚姻の話の他はしていない」


 「具体的な話は、私が家を出た後に発表してくださると助かります」


 功績のあった人間に対する褒賞を明らかにしないわけにはいかないだろうから。


 「そうしよう。アルカミル公爵家へは、直ぐに向かうと良い」


 「婚約期間もなく結婚ですか」


 「そなたも知っているだろうが、あの家は特殊だ。それを問題にはしない」


 「さようでございますか」


 溜息をつきそうになりながら、他に要望はないかと問われ、手短に二、三答え、早々に終わりにして王に一礼して部屋を辞した。


 廊下に出ると、第二王子が立ってこちらを睨み据えていた。怪我もなく元気そうだ。


 衆目の中であんな事をしでかしたにも関わらず、ふらふら自由に王宮内を出歩いても誰にも何も言われないらしい。


 一礼し、黙って去ろうとすると呼び止められた。珍しい事だった。初めてかもしれない。


 「アルカミル公爵家へ嫁ぐと聞いた」


 「そのようですね」


 王子は何かを逡巡するように眉を寄せた。


 「そなたはそれでいいのか?」


 「いいも何も王命でございますので」


 「褒賞だろう」


 「褒賞という名の王命ですね。切り捨てるつもりだったわたくしがうっかり功績を立ててしまったので扱いに困って押し付けられる所に押し付けたという所でしょう。アルカミル公爵には申し訳ない事ですが」


 渋い顔をする王子にアズュリアはふと笑った。


 「殿下、貴族家の娘は家の為に婚姻するのですよ。そこに娘の意志はありません。今回の件は家の為ではありませんが、王家の面子の為ですからもっと一大事です」


 あなたのせいですよ、と軽く睨む。


 婚約者の妹を隣にくっつけて、満座の前で婚約者に意気揚々と婚約破棄を告げる。本人は満足だろうが、周囲はそうはいかない。そもそも王子の婚約は王家と公爵家の契約だ。それを一方的に壊す事を貴族家が容認できるはずもない。信用問題である。王家とて、アズュリアを切り捨てる事を事前に容認していても、まさかあんな真似をするとは思っていなかっただろう。王家の第二王子に対する信用も失墜したと言える。どのような処分が下されるのか、臣下たる貴族家は固唾をのんで、あるいは面白がって見守っている筈だ。王は頭が痛いだろう。


 暗殺者の襲撃や毒の問題などもあってどさくさに紛れて今のところは時間を稼いでいる、といった所だ。


 「あなたも責任をとらなければならないでしょう。私の次はあなたですよ」


 そう言ってやると、顔色を悪くして黙り込む。


 国王も王妃も第二王子には甘いが、王太子はそうではないだろう。どう始末をつけるかによって、次代の王の治世も判断される。


 「そなたは」


 睨みつける眼差しはそのままに、王子はつっかかるように言葉を継ぐ。


 「そなたは私との婚約がなくなっても何も思わぬのか」


 おや、とアズュリアは小首を傾げ、初めて王子の顔をまじまじと見た。


 きらきらしい美貌と、いささか思慮の足りない甘さの混じった、妹にとってはとても魅力的だったであろう顔。


 「何も思いませんね」


 笑んで答えた。


 「あなたと同じです」


 まともに話したのも、今が初めてだった。そんな相手に情すら湧くはずもない。


 もう一度一礼して、調薬室へ急ぎ戻った。




 私物を片付け、古びた鞄にしまう。


 アズュリアの異能は便利な物で、薬草や調薬に関しての道具であれば、大きさが合わなくてもこの鞄に際限なくしまえるのだ。


 私物を用意してもらえるような環境でもなく、適当に実家の物置を探して出てきたこの鞄は、持ち運ぶのに適当な大きさだった為選んだに過ぎないが、内側に刻まれた名前が、黒髪であったと言う父の祖母のものであり、微かに異能の付与が残っていた。


 異能の持ち主にしか使用できない鞄のようだった。


 それも、血族に連なるものを一人選んで使用制限する。


 今やアズュリアが持ち主と認定されたのだった。


 父の祖母、つまり自分にとっては曾祖母がどのような異能の持ち主だったのかは判らない。記録が残っておらず、父に確認したくとも話をするような間柄ではなくなってしまっている。


 有難く使わせてもらっているが、不思議なことに、人の部屋のものを何でも持って行く妹がこの鞄には見向きもしない。古びた鞄になど興味が無いのかもしれないが、それにしても目に入っていないようにさえ見えた。これ幸いと、大事なものは全てこの鞄にしまっている。




 実家に戻って、必要な物を持ちだそうとしたが、自室に乗り込んできた妹がせせら笑い、顔の傷を醜いと罵りながら、何も持って行くなとわめいた。


 両親もその後ろにいて、傷に顔をしかめながら、無価値になった娘は娘ではなく、そんな者に持たせる物などないと言う。


 今すぐ出て行けと部屋から押し出された。


 使用人たちに、家から追い出すよう命じた両親と妹は、これから部屋をあさるようだった。


 めぼしいものは何も残っていないはずだが。


 溜息をついてふと傍らを見ると、鞄はそこにあった。


 これもこの鞄の不思議な所だった。


 いつの間にか傍にあるのだ。


 おかげで大事なものは失わずに済む。


 それを持ち上げても、使用人たちは何も言わない。見えていないのか見えていても意識できないのか。


 黙って促されるまま屋敷の外に出た。


 最後までついてきていた年かさのメイドがそっと包みを差し出した。


 「下着類程度しか持ち出しは叶いませんでしたが、無いよりはましかと思います」


 確かに、当座必要な物ではあった。


 「ありがとう」


 このメイドは、随分昔から屋敷に仕えていたときいている。皆がアズュリアを遠巻きにする中、時折気遣ってくれていた唯一の使用人だった。


 もう一つ出された包みは野菜と卵を挟んだパンだった。


 「ありがとう」


 精一杯の気遣いにアズュリアはもう一度礼を言って、二つの包みを鞄の口金を開けて中へしまった。


 「その鞄」


 メイドは懐かしそうに呟いた。


 「昔、大奥様がお使いになっていたものです」


 初めてこの鞄に言及した人間に、アズュリアは目を見開いた。


 「曾祖母の事かしら?」


 「ええ。わたくしは大奥様に拾って頂いた御恩があるのです。お優しい方でした」


 昔を思い出すように目を細めて笑うと深いしわが刻まれた。このメイドは一体幾つになるのだろう。


 「あの、曾祖母は異能を持っていなかった?」


 このメイド以外にはもう尋ねられる人間が現れないだろうと思う。


 はて、とメイドは首をかしげた。


 「特にそういった話は。ああ……」


 それでも何かを思い出すように視線を遠くへやる。


 「大奥様はとっくにの方でした。色々と珍しい物をお持ちで、ご自分でお作りになるようでした。見た目以上に物が入る鞄とか、火をつけずに灯りが灯るランプとか。あまり大っぴらにしたくないから「内緒よ」とおっしゃって」


 あれが異能と言えば異能だったのでしょうか、とメイドは首をかしげた。


 特に不思議とは思っていなかったらしく、今の今まで忘れていた、と言う。


 そこに何らかの作為を感じて、アズュリアは押し黙った。


 「お嬢様は大奥様によく似ていらっしゃいます。何とかお力になりたいと思ってはいたのですが、わたくしではどうにもならず、申し訳ございませんでした」


 メイドは頭を下げた。


 「いいのよ」


 アズュリアは首を振った。


 「どうしようもない時に、こっそり何度も助けてくれたでしょう?今回だってそう。感謝しているわ」


 そう言って、年老いたメイドの肩を軽くたたいた。


 「もう行った方がいいわ。私に必要以上にかかわるとあの人達の心証が悪くなる」


 今は、門を出て、石塀の影に入っている為、屋敷の中からは死角になっている。


 「ええ、いえ、お嬢様もお屋敷を出られますし、わたくしもそろそろ職を辞そうと思っております」


 「そう……。宛てはあるの?」


 「娘がそろそろ一緒に暮らさないかと言ってくれておりますので」


 「ああ、娘さんがいるのね」


 「ええ。こちらに勤めさせていただいた縁で家族が持てました。それも大奥様のおかげです」


 微笑に微笑で返し、それではね、とアズュリアは踵を返した。


 振り返らず、街の中心部まで歩き、幾らか用事と買い物を済ませると(褒賞金を受け取る際、細かい買い物が出来るよう金貨十枚を銀貨にしてくれるよう頼んだ。褒賞金は全て鞄に入った。重さも感じない。調合道具なのか?と不思議に思った)遠距離馬車の発着場所でアルカミル領都行きの乗合馬車に乗った。

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