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別れ話をしましょうか。

作者: ふまさ

 伯爵令嬢のデージーは、正面に座ってコーヒーを飲む、婚約者である伯爵令息のアールをじっと見詰めた。


 デージーは朝から、ずっと落ち着かなかった。前から楽しみにしていたお芝居も、ちっとも頭に入ってこなかった。胸が高鳴るはずのアールの顔も、アールがこちらを向いていないときしか見られない。まともに視線を合わすことができないのだ。


 だがそれも、仕方のないことだった。


 いつ別れ話を切り出されるのか。デージーの頭の中は、そのことでいっぱいだったから。


 午前中は、お芝居を見た。それは、前からの約束だったから、それを果たしてから言われるものと覚悟していた。芝居が終わり、何処かで昼食を摂ろうと言われ、馬車で移動中も、鼓動は早鐘を打っていた。早ければ、いま、告げられるかもしれない。けれどレストランに着いてからも、昼食を摂っている最中も、アールにその気配はない。


(……昼食を食べ終わったあと、かしら)


 アールに別のことを話しかけられても、上の空のデージー。いっそ、早く告げてほしかった。いつもと変わらないように見えて、どこかいつもより優しいような、気遣われているような気がしてしまうのは、きっと気のせいではないだろう。


 昼食を食べ終えたアールが、食後のコーヒーを口にする。くる。くるわ。デージーがごくりと生唾を呑んだとき。


「デージー」


 アールに名を呼ばれたデージーは、思わずびくっと肩を揺らした。


「は、はい」


 きた、と思ったのだが──。


「デザート、食べないの?」


 アールが指さしたのは、デージーの目の前に置かれた、好物のチーズケーキだった。ええと。デージーが視線を彷徨わせる。


「昼食も、かなり残していたよね。もしかして、どこか具合でも悪いの?」


 心配そうな声色に、デージーは泣きそうになった。そう。決して、嫌われたわけではないのだ。でも、これは仕方のないことだから。


「……アール様。わたしなら、大丈夫ですから」


「そう? でも、顔色もすぐれないようだし……今日のところは」


 デージーは、はっと顔を上げた。


「い、いいえ。本当に大丈夫ですので」


「無理は駄目だよ?」


「無理、とかではなく……あの」


「うん?」


 デージーは覚悟を決め、ゆっくりと面をあげて、無理やり笑みを浮かべた。


「……わたし、もう、知っているんです」


 アールが、え、と目を瞠る。


 ──あなたは優しい。だからきっと、言えないのですね。わたしを哀しませてしまうから。わたしがあなたを愛していることを、知っているから。


 でも。その優しさが、いまは辛い。


 だからいっそ、わたしから告げてしまおう。



「お別れしましょう、アール様」



 デージーの声は、少しだけ、震えていた。




 ♢♢♢♢♢




 アールと出逢ったのは、デージーが十三歳のときだった。


 父に、紹介したい人がいると言われ、向かった先の屋敷の庭に、シェーベリ伯爵と、その息子のアールがいた。


 一つしか違わないというアールは、とても大人びて見えて。内気な性格のデージーにアールは、


「はじめまして。僕は、アール・シェーベリといいます」


 と、優しく微笑みかけてくれたが、デージーは言葉に詰まってうまく返すことができなかった。すると、デージーの隣に立っていた姉のコリンナが、仕方ないわね、というようにデージーの肩にそっと手を置き、アールに笑いかけた。


「この子、少し人見知りなところがあって。でも、とてもいい子なんですよ? 名前は、デージー。そしてあたしは、コリンナ・ワウテレスです」


 アールが少し頬を染め「そうですか」と、照れたようにコリンナに笑い返す。それは、何度も見てきた光景だった。


 人見知りで、内気で、地味なデージー。社交的で、美人のコリンナ。本当に姉妹なのかと、疑いたくなるほど、見た目も中身も似ていなくて。


(……みんな、みんな、お姉様を好きになる)


 これまでも、そうだった。父親が紹介したいという、年頃の男の子。それはきっと、父親が選んだ婚約者候補なのだろうが。


(……わたしはもう、ここにいる必要ないよね)


 これまでのように、この伯爵令息も、姉のコリンナにしか話しかけようとはしないだろうから。そう考えたデージーだったが、アールはこれまでの人たちとは違い、デージーとコリンナを区別することなく、平等に、会話をしてくれた。


 たった、それだけだった。でも、デージーには、それで充分だった。だって両親ですら、平等には愛してくれていなかったから。


 ──ああ、けれど。


 わかってしまった。アールがコリンナに、恋心を抱いてしまったことに。


 胸が痛んだのはきっと、デージーもアールに、恋をしてしまっていたからだろう。


 二人の恋を祝福する自信はあった。もとから、何も期待などしていなかったから。


(……あなたの恋が実ること、心から、祈っています)

 

 それから数日後に、ワウテレス伯爵の屋敷に──コリンナに会いにきていたアールを、二階の自室から見下ろしながら、デージーはそっと目を閉じた。


 アールがそのことに気付くわけもなく。庭でコリンナと向かい合わせに座りながら、幸せそうに笑っていた。




 コリンナが別の──資産家としても有名なニエミネン伯爵の令息と婚約したのは、それから三ヶ月後のことだった。


 それを伝えられたときのアールの表情は、いまでも忘れられない。つつけば簡単に涙が溢れてきそうな、そんなギリギリのところで耐えている。そんな顔をしていた。見ているこちらまで、泣きそうになるほどの。


「……そうか。おめでとう」


 肩を落としながらも、祝いの言葉を述べるアール。本当に優しい人だと、デージーは目の奥がつんと熱くなった。


「ありがとう、アール。それでね、デージーのことなんだけど」


「え?」


「お、お姉様……?」


 いったい何を。コリンナの隣に座るデージーの声が、裏返った。ここは、コリンナの自室。部屋にいるのは、アールとコリンナ。そして、デージーのみ。


 いつもはどれだけアールやコリンナにお茶に誘われても、断っていた。どう考えても、自分の存在は邪魔にしかならなかったから。けれど今日は、大事な話があるからとコリンナに言われたので、顔を出した。別の男性と婚約したことを二人きりで伝えるのが、気まずいのだろう。そんな風に考えていたのだが。


「あなたはデージーのこと、どう思っている?」

 

 コリンナの問いに、アールが固まる。当然だろう。たったいま失恋したばかりだというのに、想い人からのその質問は、あまりに残酷だった。


(お姉様は、アール様に想いを寄せられていたことに、気付いていなかったの……?)


 誰にでも愛されている人は、それが当然な人は、そういうものなのだろうか。


「え、ええと……」


 アールが困惑の表情を浮かべる。コリンナは、興奮しながらさらに続けた。


「デージーは何も言わないけど、あたしにはわかるの。デージーが、あなたに好意を抱いているってこと」


「…………っ」


 デージーは絶句した。姉に気持ちがばれていた。そのこともそうだが、どうしてそれを、よりによってアールの想い人であるコリンナが言うのか。それも、このタイミングで。


 頭がぐちゃぐちゃになって、身体が震えだしたデージーはたまらず、席を立ち上がった。


「……わ、わたし、部屋に戻ります……っ」


 席を離れようとするデージーの腕を、コリンナが掴んだ。


「駄目よ。いま、大事な話の途中なのだから」


 コリンナの目は、真剣だった。コリンナなりの、デージーを思っての行動なのだろう。それを頭では理解できても、心が耐えられなかった。


「は、離して……離してお姉様……っ」


 涙が滲む。いつまでもそんなんじゃ駄目よ、とコリンナが強い口調で責め立てる。


 わかっている。わかっているけど。


(……でもっ)




「──コリンナ。デージーを離してあげて」


「アール……」


 コリンナがアールを見詰める。その双眸は、少しの驚きを含んでいた。アールの口調が、これまでとはまるで違っていたからだ。


「怖いわ、アール……何を怒っているの?」


「怒ってなんかいないよ。ただ、もしデージーが僕に好意を抱いてくれていることが本当なら、これは僕と、デージーの問題だ」


「でも、この子はこんなだから……あたしが手伝ってあげなかったら、いつまで経っても気持ちなんか伝えられなかったと思うし……」


 それはその通りだと、デージーも理解している。でも、だからといって、こんな伝え方はしてほしくなかった。


(……それに、答えはわかりきっているもの)


 デージーは勇気を出し、アールに向かって頭を下げた。


「……アール様、答えはいりません。このことは、忘れてもらってかまいませんので」


「デージー?! どうして……あたしがせっかく──せめて返事ぐらいっ」


 コリンナに身体を揺すられながら、デージーは頭を下げたまま、ご迷惑をおかけしました、と呟いた。


 少しして。


「──時間を、くれないかな」


 アールが、小さく口を開いた。デージーはゆっくり顔をあげ、いえ、と頭を振った。


「……わたしなら大丈夫です。それに、答えはわかっていますので」


「いや、僕がきみのことを知りたいんだ。きみと会話したのは、数えるほどだし……答えるのは、きみをもっとよく知ってからじゃ、駄目かな?」


「……ですが」


 コリンナとは真逆の性格をしているデージー。果たしてそんな女性を、好きになってくれる可能性など、あるのだろうか。よけいに傷付くだけではないか。そんな考えが頭をよぎる。


「まあ、まあ!」


 嬉しそうに声をあげたのは、コリンナだった。戸惑うデージーの手を取り、良かったわね、と語りかけてきた。


「ほら、ね? 気持ちを伝えるって、大事でしょう? 最初から諦めていたら、何も叶わないんだから!」


 あたしのおかげね。と目で訴えかけられているような気がして、デージーは思わず、視線を逸らしてしまった。コリンナは、もう、とため息をつく。


「まあ、いいわ。さてと。そうと決まれば、あたしは聞き役に徹するわ。さあ、二人で存分に話し合ってちょうだい」


 コリンナは先ほどまで自分が座っていたアールの正面の席にデージーを座らせると、自分はその隣、デージーが座っていた席に腰を落とした。


「……コリンナ。せっかくの気遣い申し訳ないけれど、僕はデージーと二人で会話することにするよ」


 アールが席を立とうとするのを、コリンナが止める。


「あら、駄目よ。あなたと二人きりだと、緊張して、デージーが話せないわ」


「わ、わたしなら、大丈夫です。お姉様」


 声を上げたデージーに、コリンナは目を丸くしてから、口角を上げた。


「ふふ、そうね。大好きなアールと会話するのに、あたしは邪魔よね」


「ち、違……っ」


 デージーは、さっと顔を青くした。いいから、いいから。コリンナは腰を上げると「あたし、応接室にいるから」と笑った。


「この部屋、使っていいわよ。終わったら、声をかけてくれればいいから」


 そう言って、コリンナは部屋を後にした。


 一瞬の静けさのあと、アールは、デージーに向かって、ありがとう、と礼を述べた。


「……え?」


「僕に気を遣って、二人でも大丈夫、だなんて言ってくれたんだよね」


「……あ、あの」


「コリンナは、僕の気持ちに気付いていたのか、いなかったのか。結局、どっちだったのかな」


 はは。アールが苦笑する。胸の奥が、ずきりと痛む。唯一の理解者である大好きな姉のことが、少しだけ、憎かった。


「……お姉様はたくさんの人に愛されていますから。少しだけ、そういったことに鈍感なのかもしれません」


 デージーの応えに、アールは、僅かに目を瞠った。


「──きみは?」


 問いかけの意味がわからず、デージーが首を傾げる。


「その言い方だと、きみは、愛されていないように聞こえる」


「あ、ああ……そう、ですね。わたしはこんな性格ですし、お姉様のように美人ではないので……愛されないのは、仕方ないです」


「そんなこと」


「ほ、本当によいのです。そんなことよりアール様。お姉様にはわたしから謝っておくので、もうお帰りになっても大丈夫ですよ……?」


「? 帰らないよ。きみと話したいって、言っただろう?」


「……あれは、お姉様の手前、仕方なく言ったことではなかったのですか?」


 キョトンとするデージーに、アールは「違うよ」と真剣な表情をした。


「純粋に、僕に好意を持ってくれているきみと、話してみたいと思った。だからああ言ったんだ。コリンナは関係ない」


 嘘だ。と、デージーは思った。いくら失恋したとはいえ、愛するコリンナに嫌われたくない。そういった心理が働いたからこそ、あんな提案をしたのだろう。


(……あまりに、惨め)


 それでもデージーは、アールを拒むことはできなかった。




 驚いたことに、それからもアールは、デージーとの会話を重ねた。屋敷にコリンナがいても、もう、深く会話をすることはなく。あくまで、デージーに会いにきてくれていた。


 デージーはそれが、信じられなかった。


「あ、あの。わたしといて、楽しいですか……?」


 外で昼食をと。誘われた移動中の馬車内で、たまらずたずねたのは、アールと二人で会うようになってから、半月が経とうとしていたころだった。


「楽しいよ?」


 当然のように答えられ、デージーは思わず、どこがですか、と反射的に返してしまった。


「そういうところかな」


「……わかりません」


 ははは。本心を隠すように、アールが笑う。


(シェーベリ伯爵から、我が家と繋がりを持つようにと言われているのかしら……)


 すなわち、これは政略的なもの。それなら納得ができる。


(それとも、せめて愛するお姉様と同じ血が流れているわたしと一緒になろうと……?)


 どちらかしら。思わず、正面に座るアールをじっと見詰めるデージー。視線が交差すると、アールがにっこりと微笑んだので、デージーは顔を真っ赤にしながら、慌てて視線を逸らした。


(……うう、情けない)


 ──でも。例え愛されていなくても、わたしはいま、愛する人と一緒にいるんだわ。


 それだけでも、夢のよう。明日にでもなくなってしまう可能性があるのなら、せめて、いまは。


 だからアールから婚約を申し込まれたときも、脳裏に様々なことが過ったものの、素直に喜び、これからも共にいられることを、神に感謝した。


 ──愛する人と結婚できるなんて。わたしはなんて幸せなのかしら。


 例えばアールの心がどこか別の人にあるとしても、構わなかった。傍にいてくれるなら。


 まだコリンナを想っていても、良かった。


 

 ──なのに。




 ♢♢♢♢♢




 十五となる年。アールとコリンナ。そしてコリンナの婚約者は、王都にある学園に入学した。地方を離れ、王都に住むアールたち。きっと、これまでとは比べものにならないほどの人たちと、出逢うことになるだろう。


(わたしのこと、忘れてしまわないかしら……)


 不安はあったが、そもそも、愛されている自信などないデージーは、ただ、別れの言葉がアールの口から出ないことだけを祈ることしかできなかった。


 そんな不安を払拭するように、アールは定期的に手紙を送ってきてくれた。長期の休みには、必ずデージーの元を訪ねてくれた。


 ──わたしが考えるよりずっと、アール様は、わたしのことを想ってくれている?


 そんな淡い期待が、デージーの中で徐々に芽生えはじめてきていた。



 そうして一年が経ち、デージーも、王立学園に入学する年となった。



 父親が用意してくれた王都の屋敷に、コリンナは使用人たちと暮らしていたが、そこにデージーも住むことになった。アールが住む屋敷は、目と鼻の先にある。これでいつでも会える。きっと、不安で眠れない日々も、なくなるだろう。デージーは、嬉しさで泣きそうになった。


 変わらず、優しく傍にいてくれるアール。コリンナも婚約者とはうまくいっているようで、毎日幸せそうに笑っている。


 わたしの幸せも、きっとずっと続くんだわ。


 そう思い上がった罰なのか。



 それは、デージーが王立学園に入学してからひと月経ってからのことだった。




 コリンナの婚約者が、暴走した馬車に轢かれ、亡くなってしまったのだ。


 泣き崩れるコリンナ。デージーは、必死に慰めた。泣かないで。泣かないでお姉様、と。けれど知らせを聞き、駆けつけたアールの姿に、デージーの心が身勝手に震えた。


 アールの胸の中で泣きじゃくるコリンナ。どくん。デージーの鼓動が、大きく跳ねた。


(……違う。いまは、そんな場合じゃ……お姉様に、アール様を取られるなんて……考えている場合じゃ)


 実の姉が、こんなに哀しんでいるのに。なんて自分勝手なのだろう。そんな自分に呆れながらも、思考は止まってはくれなかった。


(もし、もしそうだとしても、覚悟はしていたはずなのに……)


 そのときがくることが、たまらなく怖かった。その日から、何度も夢を見るようになった。アールとコリンナが、愛し合う夢を。


(やめて……こんなの見たくない。まだ、そうと決まったわけではないのに……っ)


 ある意味でこれは、二人を信じていないことにもなる。そのことにも、罪悪感を覚えた。


 ──でも。


 コリンナの婚約者が亡くなってから、三ヶ月ほど経ったころ。


「……あの、お姉様」


「な、なに?」


「いえ。その……」


 なに、はこちらが言いたい。デージーは、カチャ、と皿にナイフとフォークを置いた。二人はいま、屋敷の食堂で、夕食を共にしていたのだが──。


「お姉様が、わたしをチラチラと見ているような気がして……」


「そ、そうだったかしら」


 あからさまに動揺するコリンナ。こちらを何か言いたげに見詰めてくることは、今回が初めてではなかったので、デージーは思いきって、尋ねてみることにした。


「あの、わたしに何か尋ねたいことでもあるのでしょうか……?」


 コリンナは、そうね、と答え、迷いながらも、決意したように口火を切った。


「アールからは、何も話は聞いてない?」


 びくっ。アールの名に、思わずデージーの肩が震えた。


「……何か、とは」


「あ、うん。聞いてないのなら、いいの」


 忘れて。そう言われても、忘れられるはずもなく。デージーは、お姉様、とコリンナを真っ直ぐに見据えた。


「お願いします。何か、とはなんでしょうか。教えてください」


「あ、あたしからは、ちょっと……」


 デージーは席から立ち上がり「お願いします」と、頭を下げた。コリンナが慌てる。


「や、やめて。デージー」


 それでも頭を上げようとしないデージーに、諦めたように、コリンナは大きくため息をついた。


「わかったわ。頭を上げて?」


「……はい」


 ゆっくりと顔を上げたデージーに、コリンナは苦笑した。


「いつからそんなに頑固になったの?」


「……ごめんなさい」


「ううん、いいの。思わせぶりなことを言った、あたしも悪いんだから」


「……あの、それで」


 コリンナは、うん、と目を伏せた。


「──驚かないで、聞いてね」


「……努力します」


 ふふ。コリンナは笑い、やがて、重い口を静かに開いた。



「実はね。アールから、告白をされたの」



 デージーの思考は、数秒、停止した。



「……いつ、でしょうか」


「十日前、かな」


「……そう、ですか」


 デージーは茫然自失のまま、ふらふらと席に戻った。その様子に、コリンナは慌ててデージーに駆け寄った。


「だ、大丈夫?」


「……はい」


「ごめんね。やっぱり、驚いたわよね」


 コリンナが、いたわるようにデージーの背中を撫でる。


「あなたはアールが大好きだから、ショックだったわよね……ごめんなさい。ただ告白されただけなら、黙っていようと思ったのだけれど」


 まだ何かあるのか。目で訴えかけるデージーに、コリンナは、申し訳なさそうに告げた。


「……あたし、その告白、受けたの」


 デージーは、はち切れんばかりに目を見開いた。


「……どう、して」


「だってあたし、アールのこと、昔から好きだったから」


「そ、んな……だったら、どうして」


 コリンナは「どうして、違う人と婚約したかって? それは、お父様に命じられたからよ」と、哀しげに笑ってみせた。


「資産家のニエミネン伯爵家と、繋がりをもつためにね。向こうは、あたしじゃないと婚約しないって言ってたから……」


 つまりは、デージーにその役目は果たせなかった。だから、コリンナは──。


「……ごめんね、ごめんね。デージー」


 コリンナはデージーを抱き締めながら、何度も何度も謝罪した。


 デージーは、コリンナの温もりを感じながら、ガラス玉のような双眸を天井に向けた。


 ──ああ。きっとはじめから、こうなる運命だったのね。


 もう、夢でうなされることもなくなるだろう。それは、現実となったのだから。


(せめて夢の中でぐらい、アール様の婚約者でいたいな……)



 ぽつりと胸中で呟いてみる。


 不思議なことに、涙は出てこなかった。


「泣かないで、お姉様」


 デージーが、コリンナの背中をぽんぽんと叩いた。コリンナは、ゆっくりと顔を上げた。


「……でも、あたし。あなたから、大事な人を……」


「お姉様は何も悪くないのですから、どうかもう、哀しまないでください」


「……デージー」


「あのね、お姉様。きっとアール様は、明日、そのことをわたしに伝えるつもりだったと思うのです」


 コリンナが「……どうして?」と鼻をすする。


「明日の休日は、前からアール様と一緒に見ようと約束していた、お芝居を見にいく予定なのです。アール様はお優しいから、きっと、その約束を果たしたあとに、お姉様とのことをお話されるつもりなのかと……」


「! やだ、そうだったのね……あたしったら、つい先走っちゃって」


「いえ。むしろ、心の準備ができて、良かったです。ありがとう、お姉様」


 柔く微笑むデージーを、コリンナは、もう一度抱き締めた。


「優しい子……あなたならきっと、すぐにいい人が現れるわ。絶対よ」


 耳元で優しく囁かれ、デージーは、はい、と答えた。その瞳から、どんどん感情がなくなっていく。


(お姉様に失恋したときのアール様も、こんな気持ちだったのかしら……)


 結局は、相思相愛だったわけだけれど。


(あのとき、お姉様はアール様が好きだったのにもかかわらず、わたしの恋愛を、後押ししてくれていたのね……)


 でも、ちっとも感謝の気持ちは湧いてこない。どうしてだろう。考えるのも面倒で、デージーは思考を止めた。


(明日で、終わり……)


 心が姉にあっても、傍にいてくれればいいと思っていた。だがそれも、明日で終わり。


(……ちゃんと、笑って別れを受け入れなくちゃ。そして、祝福を……)


 目を閉じる。瞼の裏に浮かんだのは、愛しい人の笑顔で。明日なんかこなければいいと願ったが、その願いは、当然のように叶えられることはなかった。




 ♢♢♢♢♢




「お別れしましょう、アール様」


 アールが固まる。当然だろう。まさかデージーの方から別れを告げるなんて、考えもしなかっただろうから。


「……驚かせて、申し訳ありません。実は、お姉様から事前に、知らされていまして……」


「……なに、を」


「十日、いえ、もう十一日前ですね。その日に、アール様がお姉様に、告白したこと。そしてお姉様がそれを、受け入れたことです」


 ズキズキ。ズキズキ。

 何でもない風を装ってはみても、胸はしっかりと痛みを覚える。


「今日のお芝居、アール様と一緒に見ること、わたしはとても楽しみにしていました。だから今日まで黙っていてくれたのですよね? ありがとうございます」


 でも、涙は出ていない。


「これまでわたしの婚約者でいてくださった。それだけでもう、わたしは充分です。どうか、愛する人と──お姉様と、幸せになってください」


 そうか、ありがとう。

 というたぐいの言葉は、まだアールからは出てこなかったが、それで構わなかった。伝えようと思っていたことは、全て伝えられたから。


「お姉様は、今日一日、お屋敷にいるとおっしゃっていました。わたしはもうしばらくここにいますから、どうぞ、わたしのことなど気にせず──」


「……待ってくれないか」


 絞り出されたようなアールの重い声色に、デージーは一旦、話を止めた。


「……はい、何でしょう」


 どうか、謝らないで。余計に哀しく、惨めになるから。わたしを思うのなら、このまま、置いていってほしい。


 心の中で、祈る。


 膝の上に置いた強く握りしめられたこぶしが、小刻みに震えはじめた。


「僕には、きみが何を言っているのか、まるで理解できない」


 真正面からデージーを見据えたアールが、強い口調でそう告げた。


「僕がコリンナに告白? きみという婚約者がいるのに、そんなことするはずがないだろう」


「……で、でも。アール様は、お姉様を愛していて」


 軽いパニック状態のデージーに、アールは「何年前の話をしているんだ?」と眉をひそめた。


「僕がコリンナに告白して、コリンナがそれを受けた? あり得ないだろう、そんなこと」


「お、お姉様は、アール様のことがずっと好きだったんです。ですが、資産家のニエミネン伯爵家との繋がりがほしいとの、父の命で仕方なく好きでもない人と婚約を……」


「コリンナがそう言ったのか?」


「は、はい。確かにそう言っていました」


 アールは、はあとため息をついた。


「……学園で、二人を見かけたことが何度もあったけど、コリンナはとても満足そうな顔をしていたよ。欲しいものは何でも買ってくれると、友に自慢しているところも見た──いや、むしろ……」


 顎に手を当て、少し考える素振りを見せたあと、アールは立ち上がった。


「行くよ、デージー。コリンナは今日一日、屋敷にいると言っていたね」


「い、言いました……」


「ここでこうしていても、埒が明かない。元凶に話を聞きにいくとしよう」


 デージーは、元凶? と目をぱちくりさせた。姉のことを悪く言う人など、これまでお目にかかったことがなかったから。


「ほら、おいで」


 手を差し出すアールの顔を、デージーは思わず、じっと見詰めた。数秒後。デージーの目から、ぽろっと涙が零れた。


「……あ」


 意図せず流れた涙に、デージー自身が驚く。アールはそんなデージーに、ハンカチを差し出した。ありがとうございます。デージーはぼんやりしながら、それを受け取った。


 ハンカチで涙を拭うと、アールの匂いがほのかに鼻をくすぐった。また、涙が溢れた。


「……わたしはまだ、アール様の傍にいられるのでしょうか……?」


 涙ながらに小さく問うと、アールは、いてくれないと困るよ、と優しく笑ってくれた。




 お帰りなさいませ。

 使用人の声に、コリンナはぴくんと耳を動かした。帰ってきたようね。コリンナは読んでいた本をぱたりと閉じ、自室を出た。


 二階の廊下から、玄関ホールを見下ろす。そこにはデージーと、アールがいた。


(アールもいるわ)


 早くあたしに会いたかったのかしら。仕方のない人ね。と、コリンナは階段をおりていく。


「お帰りなさい」


 笑いかけたデージーの目は赤くて、一目で、泣いただろうことが知れた。流石に気まずくて、コリンナはアールに視線を移した。


「あ、あの。これから、忙しくなるわね」


 アールが「……何が?」とこちらを見てきた。思ったよりその声色は冷たくて、コリンナが動揺する。


(デージーがいるから、気を遣っているのかしら……? けれど、こういったことは早く話し合わないといけないし)


「お父様たちに、早くあたしたちのことを報告しないと。デージーとあなたの婚約解消に、あたしとあなたの婚約手続きもあるもの」

 

「…………」


「それに、デージーのお相手も、あたしたちで探してあげなくちゃいけないし」


「何故?」


「何故って……それはあまりに無責任よ、アール。どんな事情であれ、あたしたちはデージーを傷付けたのだから、それぐらいしなくちゃいけないわ。そんなこともわからないの?」


 アールは「……きみにだけは言われたくないな」と、不快そうに眉を寄せた。その態度に、コリンナはムッとした。


「なに、その態度。あたし、あなたを嫌いになるわよ? いいの?」


「いいさ。むしろ、願ったり叶ったりだね」


 吐き捨てられた言葉に、コリンナは、ぽかんと口を開けた。


「……どういう、意味?」


「言葉の通りだよ」

 

 アールの科白に驚いたのは、デージーも同様だった。


「……アール様は、お姉様に嫌われてもよいと思っているのですか?」


「思っているよ?」


「……何年も前の話とはいえ、お姉様に恋心を抱いていたのは事実、ですよね……?」


 恐る恐る尋ねるデージーに、アールは、ああ、と苦笑した。


「そうだね。でも僕は、コリンナに失恋したその日に、コリンナへの恋心は、冷めたんだ」


 コリンナが「な、何でよ!」と、声を荒げた。


「あたしが、あなたをフッたから? そんなことで冷めるなんて、あなたのあたしへの想いは、そんなに軽いものだったの?!」


「へえ。やっぱり、僕の好意には気付いていたんだ。ますます、軽蔑したよ」


「け、軽蔑って……ひどいっ」


「軽蔑したくもなるよ。デージーの気持ちをあんなかたちで暴露したくせに、きみは何の罪悪感も抱いていなかった。どころか、正しいことをしたと誇ってもいた」


「罪悪感を抱く必要が、どこにあったの? 現にいま、デージーとあなたは婚約しているじゃない」


「それは結果論にすぎない。あのときのきみは、あまりに無神経すぎた。それにきみは、無意識なのかもしれないけど、ずっとデージーを見下しているよね?」


「? 見下してなんかないわ。あたしは誰より、デージーを愛しているもの」


「本当に愛していたら、まともな姉なら、妹から婚約者を奪おうなんて考えないし、妹を傷付けてそんな風に平気で笑っていられないよ」


「へ、平気なんかじゃないわ! ねえ、デージー。あたし、あなたに泣きながら謝罪したわよね。何度も、何度も!」


「……は、はい」


「ほら、ご覧なさい!」


「──本当にわからないのか?」


「何がよ!」


「……もういい。時間の無駄だ。それより、僕がきみに告白をしたそうだけど、僕にはその覚えがまったくない。どういうことかな?」


 コリンナは「はあ?!」と目を剥いた。初めて見る姉の歪んだ形相に、デージーは驚愕し、固まった。


「あたしのこと、好きか嫌いかって聞いたら、きみを一生支えたいって言ってたじゃない! これのどこが告白じゃないっていうのよ!!」


 怒鳴るコリンナ。けれどそう受け取っても仕方がない、とデージーは思った。そっとアールの様子を窺うと、アールは、大きく、深く、ため息をついていた。


「……どんな解釈をしたんだ。僕は、いずれきみの義弟になる。だから義弟として、婚約者を亡くしたきみを支えようとは思っている。そう言っただけだ。嫌いだなんて正直に言ったら、きみを慕っているデージーが哀しむと思ったから」


 コリンナが「嘘よ!」と叫んだ。


「嘘なものか。だいたい、どうして急にあんなことを聞いてきたんだ? あのとき聞いても、はぐらかされていたが──」


 そこで一旦言葉を切ったアールは、いや、いい、と言い、話題を変えた。


「とにかく、僕はデージーと別れるつもりはないし、むろん、きみと付き合うつもりもない。それは理解してくれたか?」


「あ、あんたなんか、こっちからお断りよ!」


「それは良かった。なら、最後にデージーに謝罪してくれないかな?」


「ア、アール様……っ」


「デージー。僕は怒っているんだ。僕に別れを告げたときのきみの顔、今でも目に焼き付いて離れないんだ。笑っているのに、泣いているように、僕には見えた。あんな哀しい顔、二度とさせやしない」


 怒りと哀しみを宿らせた双眸に見詰められ、デージーは、言葉をなくした。胸が熱くなり、鼓動が早くなっていく。


「──ふざけんじゃないわよ!! あんた、どうかしてんじゃないの?! このあたしと、デージー。選ぶなら誰だって、あたしを選ぶわ!!」


「……それを見下していると言うんだ」


「うるさい、うるさい! あんたはその子でいいの? 本当に? 後悔しない?!」


 喚くコリンナに、アールは至って冷静に、ああ、と答えた。コリンナの頭に、急激に血が上っていく。


「…………っっ」


 後ろを振り向き、つかつかと歩いたかと思えば、棚の上にある花瓶を手に取り、投げた──アールではなく、デージーに向かって。


「デージー!!」


 アールがデージーの腕を引っ張った。そのすぐ右横を花瓶が通り過ぎ、玄関扉に当たって、花瓶は粉々に砕けた。


 使用人たちの悲鳴が屋敷に響いた。デージーは、呆然としていた。アールもつかの間絶句していたが、はっとしたようにコリンナに素早く近付くと、コリンナを足払いし、尻餅をつかせた。


「デージー、走って!」


 気付けばデージーの手はアールに掴まれ、引っ張られていた。そのまま馬車に飛び乗ると、アールは馭者に「出せ!」と、命じた。馬車が動き出してすぐにアールは、ワウテレス伯爵家へ、と指示した。


「……お父様のお屋敷に向かうのですか?」


 まだ混乱している頭で、デージーが問う。アールは、少し乱れた息を整えつつ、口を開いた。


「僕たちだけでは解決できそうもないからね。大人たちの手を借りよう」


「……ですが。お父様たちはお姉様を溺愛していますから、まずいま起こった出来事を信じてくれるかどうか……」


 そうか。アールは呟くと、デージーの隣に腰を下ろし、デージーの手を握った。


「アール様……?」


「もし信じてくれなくても、とにかく、僕はきみと別れるつもりはないこと。そして、コリンナと付き合うつもりがないことは、ワウテレス伯爵に伝えておくべきだと思う」


 デージーは「……はい」と、噛み締めるように、一つ笑った。ほっとしたように微笑むと、アールは、デージーの右手を両手で握った。


「デージー。僕はもう、きみとコリンナを一緒にはしておけない。だから、僕の屋敷においで? 一緒に住もう」


 急な申し出に、デージーは目を丸くした。


「……え、と。あの」


 昨日からずっと、アールと別れる覚悟だけをしていた。泣かないように。祝福できるようにと。ただ、それだけを繰り返して。


「……う、嬉しいです、アール様……っ」


 また、涙が溢れた。けれどアールは呆れることなく、ありがとう、と抱き締めてくれた。


 手放さなくていい。傍にいていいんだ。


 その事実だけで、もう、何も怖くなかった。




 ワウテレス伯爵家を訪れたデージーとアールに、ワウテレス伯爵は、二人か、と尋ねてきた。どうしてそんな質問をするのか。首をかしげるデージーに対し、アールは、ええ、と躊躇うことなく返答していた。


「──来なさい。茶を出そう」


 ワウテレス伯爵は応接室に、二人を通した。使用人が三人にお茶を配り終わったタイミングで、ワウテレス伯爵は口火を切った。


「それで? わざわざ王都から、何用かね」


「そうですね。用は、二つあります」


 ワウテレス伯爵は「ほお?」と、アールと視線を交差させた。


「一つは、僕はデージーと別れるつもりはないと、宣言しにきました」


 ワウテレス伯爵の組まれた指が、ぴくりと動いた。


「……そんなことをわざわざ言いにきたのか?」


「ええ。それと、もう一つ。コリンナが、デージーに対して行った所業についてです」


 これまでの経緯をアールから聞き終えたワウテレス伯爵は、なるほど、と呟いてから、コーヒーを一口飲んだ。


「しかし、コリンナに誤解させるような言い回しをしたきみにも、責任はあるように思えるが?」


「──そうですか。では、デージーに花瓶を投げつけたのは、どう思われますか?」


「あの子がそんなことをするはずがない。コリンナを陥れて、何を企んでいる」


 やはり、駄目だった。これまでの経験から、こうなる予感はしていた。これ以上、アールに不快な思いはさせたくないと、デージーは震える心を奮い立たせ、口を開こうした──が、それは、アールによって止められた。


 アールの顔を見る。アールは、大丈夫というように、微笑んでみせた。


「ところでワウテレス伯爵。僕はつい最近、こんな噂を耳にしたのですが」


「……何だ」


「コリンナがニエミネン伯爵の令息から、婚約破棄を迫られていたとの噂です」


 ワウテレス伯爵の片眉がぴくりと動いたが、誰より驚愕していたのは、デージーだった。


(あのお姉様が、婚約破棄……?)


「ど、どうしてお姉様が……っ」


「金遣いがとても荒かった──と聞いているが、今日のあの態度で、確信したよ。我が侭、なんて言葉では足らない。我が強すぎるというか、とにかく、本性が相手にバレたんじゃないかな」

 

「き、貴様。我が娘をよくも言いたい放題……っ」


 そのとき。


「──あなた!」


 応接室の扉が開き、ワウテレス伯爵夫人──デージーたちの母親が姿を現した。


「お母様……」


「お前。買い物に行っていたのではなかったのか」


「いま、戻りました。盗み聞きしてしまったことは、謝罪します。けれどあなた、もうここまで知られてしまった以上は、正直に頼まれた方が……」


 何もかもが急展開過ぎて、ついていけていないデージーが、母親と父親を交互に見る。気付いた母親が、デージーの元に近付いてきた。


「デージー。よく聞いて」


「は、はい」


「アールの言ったことは、少しだけ事実なの。コリンナは、婚約破棄を迫られていた。でも、金遣いが荒かったとか、性格の問題じゃない。それはただの噂よ。ただ、その間違った噂が、ニエミネン伯爵家によって、流されはじめている。これが広まれば、コリンナは、どこにも嫁ぐことができなくなるかもしれない」


「……? ではどうして、お姉様は婚約破棄を迫られていたのですか?」


「そんなこと、いまは問題じゃないの!」


 急に声を荒げた母親に、デージーの身体がびくっと跳ねた。たまらず、アールが間に入る。


「──なるほどね。デージーが自分に自信がもてなくなった原因は、コリンナだけではなかったということがよくわかりましたよ、ワウテレス伯爵夫人」


 ワウテレス伯爵夫人は顔を引き攣らせたが、瞬時にそれを隠した。


「アール。聞いた通りよ。あの子は何も悪くないの。訳もわからず、ただ一方的に婚約破棄を迫られただけなの。それなのに、社交界には、あの子の悪い噂が流れつつあるわ」


「──それで? どこにも嫁ぎ先がなくなる前に、手っ取り早く、昔、コリンナに好意を寄せていた僕と婚約させようと考えたわけだ。唐突に変なことを尋ねてきたなと思っていたら……なるほど。あなたたちの入れ知恵だったわけですね」


「違うわ! あの子は、ずっとあなたが好きだった。でも家のために、自分の感情を押し殺していたのよ。何より、デージーのために……」


 ワウテレス伯爵夫人は、アールの背後にいるデージーに視線を移した。


「あなたがアールに気があること。あの子は気付いていたわ。だから、自分から身を引いた。今度は、あなたの番よ」


「──嫌です」


 間を置かず、デージーはきっぱりと告げた。あまりにデージーらしからぬ行動に、両親は目を瞠った。


「な、んですって?」


「お母様。わたし、アール様とお姉様が両想いなら、身を引こうと思いました。その覚悟もしました。でも、違ったのです」


「違わないわ! 二人とも、あなたに気を遣っているだけよ! どうしてそんなこともわからないの?!」


「お母様たちが信じようが信じまいが、お姉様がわたしに花瓶を投げつけてきたのは事実です。それに、お姉様のおっしゃっていることは滅茶苦茶でしたし、わたしへの気遣いなど、欠片も感じられませんでした」


「ま、まあ……何てことをっっ」


 ワウテレス伯爵夫人が口元をおさえ、よろける。その様子に、アールは激しい怒りを覚えた。


「デージーの言うとおり、コリンナは無茶苦茶でした──が、それはどうやら、あなたたちも同じようだ。これ以上の話し合いは無意味だということが、よく理解できましたよ」


 行こう。デージーが差し出された手を掴むと、アールはデージーを連れて、応接室を出ていこうとした。ワウテレス伯爵夫人が、待ちなさい、と止めようとするのを、ワウテレス伯爵が制止した。


「あなた、どうして……っ」


「そやつは、コリンナではなく、デージーでいいと言っているんだ。ありがたい話ではないか」


 ワウテレス伯爵は、ぎろりとアールに鋭い視線を向けた。


「後悔するなよ、シェーベリ伯爵家次男。お前は、爵位を継げる唯一の機会を逃したのだ」


 アールはさらりと、そうですか、と流し、デージーと共に、さっさとその場を後にした。


 デージーもまた、振り返ることは、一度もしなかった。



 

 ♢♢♢♢♢




 それから間もなく、コリンナは父親が連れてきた伯爵令息と、お付き合いをはじめた。けれどそのわずか三ヶ月後に、相手の伯爵令息は、コリンナと別れたいと告げてきた。


 コリンナも、ワウテレス伯爵たちも、唖然とした。何故ならその伯爵家は借金を抱えていて、この付き合いは、その借金を肩代わりするとの約束をしたうえでのもの。しかも相手は三男で、ワウテレス伯爵家の長女であるコリンナと結婚することは、爵位を継げるという好条件までついてくる。


 生半可な理由で、それらをふいにすることはない。よほどコリンナに問題があるのだろう。ニエミネン伯爵家の令息から婚約破棄を迫られていたという噂も合わせ、コリンナの評判は、もはや取り返しがつかないほどに、最悪になっていった。


 流石のワウテレス伯爵も、これを笑って見過ごせるはずもなく。


「──お前は、いったい何をしたのだ?!」  


 王都の屋敷に急遽訪れたワウテレス伯爵は、コリンナを問い詰めた。初めて触れる父親の怒りに、コリンナが恐怖を覚える。


「あ、あたしは……何も」


 コリンナの世話をする使用人たちには、理由がわかるような気がしていた。コリンナは、借金を肩代わりしてあげるうえに、爵位まで継げるのだからと、相手の伯爵令息を見下し、まるで下僕のように扱っていた。前の婚約者、ニエミネン伯爵の令息には、まだ猫をかぶっているところがあったが、今回の相手には、遠慮なく、最初から本性を現していた。


 実家にいたころは、親がいたし、何もかもが満たされていたから、ヒステリックになることもなかったのだろう。だが、ニエミネン伯爵の令息には婚約破棄を迫られていたうえ、妹から簡単に奪えると思っていたアールは、コリンナを選ばなかった。プライドを傷付けられたコリンナには、かつてないほどのストレスがたまっていた。それを、父親が連れてきた伯爵令息に全てぶつけていたのだ。


 言葉だけでなく、実際に暴力をふるうこともあった。あれでは別れたいと告げられても仕方のないことだ。と、後に使用人たちは、ワウテレス伯爵に語ったという。



 コリンナの評判はすなわち、ワウテレス伯爵家の評判にもつながる。コリンナへの愛情が一気に冷めていったワウテレス伯爵は、嫌がるコリンナを、修道院へと無理やり入れた。持参金もなかったため、修道院でのコリンナの扱いは、平民のそれと変わらず。その生活にコリンナが耐えられずはずもなく、ヒステリーを起こしたコリンナは、暴力事件を起こすことになる。


 コリンナは危険人物とされ、修道院の地下牢に監禁された。以後、コリンナがそこから出されることは、二度となかった。



 ワウテレス伯爵家の面汚しめ。


 コリンナに対して思っていたことを、一族のみなも、ワウテレス伯爵に抱いていた。それから後、ワウテレス伯爵は、一族総意のもと、ワウテレス家当主の座を、弟に譲ることになる。




 ♢♢♢♢♢




 ──はたして、あれは初恋だったのだろうか。


 ふと、アールはそんなことを考えることがある。デージーは覚えていないようだが、はじめて顔を合わせたときから、コリンナはアールに、思わせぶりな態度を取っていた。やたらと距離が近く『あなたみたいな人、大好きです』『またすぐに会いに来て下さいね』など。会うたびによく言っていた。いま思えば、誰にでもそういった態度を取っていたのかもしれないが──。


(あのころ。年頃の令嬢と会うのは、数えるほどだったしな……)


 だからこそ、別の令息と婚約したと知ったとき、ショックよりも、何故、という気持ちの方が大きかったように思う。そして、恋心が冷めるのも、驚くぐらい、あっという間だった。


『あたし、妹が可愛くて仕方がないんです』


 コリンナの言葉を馬鹿みたいに信じていたが、妹のためにと言いながら、妹の了解も得ず、勝手に気持ちを暴露するその姿に、うっすらと恐怖すら覚えた。純粋とはかけ離れた、いっそ強かさすら感じられる姉とは対照的な、大人しい妹。最初はただ、可哀想だな、と思った。はじまりは、そんな想いから。


 デージーと触れ合うようになって、思い知った。ああ、純粋とは、こういう人のことを指すのだと。演技ではない好意とは、こういった反応を示してくれるのかと。嬉しくて、一挙一動が可愛く思えて。守りたいと、いつしか心から思うようになった。




「……アール様? どうかされたのですか?」


 自室の窓からぼんやり外を眺めるアールの名を、デージーが背後から、小さく呼んだ。振り返り、アールが頬を緩める。


「どうやら僕は、愛情表現が足りていなかったみたいだなと思って」


 え。首を捻るデージーの腕を引き寄せ、アールはそっと抱き締めた。


「僕がコリンナに告白したと、疑いもなくきみは信じてしまったから」


「そ、それは、アール様のせいではなく……わたしが自分に自信を持てないせいですので……」


「いまも持てない?」


「……う、えと」


「僕に愛されている自信も?」


 デージーはアールの胸に顔を埋めると、少しだけあります、とぼそっと呟いた。アールは、いまはそれでいいよ、と優しく囁いてくれた。


 ──わたし。こんなに幸せでいいのかな。


 大好きな人の匂いと体温に包まれながら、思う。けれど、だからこそ。


(……もう。笑って、お別れなんてできない)

 

 別れに怯えるデージーは、まだ知らない。




 やがて授かる愛する娘と息子に、


「昔ね。こんなことがあったのよ」


 と。


 穏やかに微笑みながら、これらの出来事を語る未来が来ることを。



 

                   ─おわり─ 




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