01 図書館は飢えていた
せめて、おまえだけでも生きて伝えてくれ。
事の次第を、何も知らぬ人たちにも、納得のいくように。
――ありのまま。
『ハムレット』 ウイリアム・シェイクスピア
01 図書館は飢えていた
とある時代。とある世界。その世界で最も大きな大陸の中心部。砂漠にぐるりと周囲を囲まれた先に、深いふかい樹海がある。
その樹海の奥深くにある、シルヴィオという小さな隠れ里がルイスの故郷だ。樹海に点在するほかの村と同じように、村人の誰もが質素な木の小屋に住み、空を高く覆う黒い梢からこぼれてくるわずかな日差しを掬うように大切にして、畑を耕し、鹿を狩り、少しの山羊や牛を育て、外からは隔絶された世界で生きる。
しかし、と、村の大人たちはまだ幼いルイスに言う。
――いいかいルイス。この村はそんな隠れ里の中でもとくに秘密の里なんだ。
――秘密も秘密、とにかく絶対の隠された村なんだ。 なぜなら、私達の『神』は、ほかのどんな『神』とも違っているからだ。だからもしもお前が将来、村の外へ行くとしても、“あれ”がこの村にあることを、絶対に人に教えてはいけないよ。争いの元になるからね。
大まじめな顔でそう言うと、みんなは決まって同じ方角を指さした。
そこには一本の大樹がそそり立つ。
それが『図書館』だ。
〇
ルイスが見つけた『図書館』の蔵書のうちの一冊に、こんな物語がある。
その物語もまた、とある不思議な図書館にまつわる物語だった。
とある時代。とある世界。そこには無窮の図書館がある。全く同じ構造の六角形の閲覧室が上下に無限に続き、どの閲覧室にも、同じ規格の書架と、同じ規格の同じ厚さの本が、同じ数だけ並んでいる。
その本の題字は、ほとんどの場合、本の内容とは一致しない。本の内容は、ほとんどの場合、二十五個の文字と句読点のランダムな羅列だ。
そんな本が無限にある。すると何が起こるか?
現在、過去、未来、全ての時代に書かれるありとあらゆる物語、論文、技術書、日記、詩歌、その翻訳書、解説書、偽書、偽書の偽書までもが、その図書館には内包されていることになるのだ。
〇
『図書館』は、数えられないほど古い時代から大樹海に根をおろす、樹海で最古の樹のうちの一本だ。あまりにも巨大な樹なので、内部の全容が未だに解明されていないうえ、どうして樹が図書館になっているのかも、いつ、誰がなんのために造ったのかも定かでない。それだけまか不思議な樹であるのに、『シルヴィオの図書館』という呼び名だけはいつの間にか村の人々に浸透していたというのだから、それはもはや神話をとおり越して怪談ではないかと疑う者も居る。
今年で十歳になるルイスも似た意見だ。図書館にはありとあらゆる本があるが、ありすぎて、蔵書目録だけで大きな本棚がひとつ丸々埋まってしまうほどだし、しかもその目録すら村の誰かが書き起こしたものではない。当然、樹海の外から持ってきたわけでもない。|すべて図書館に最初からあったもの《・・・・・・・・・・・・・・・・》なのだ。村人が、数百年、ひょっとしたら千年以上の時間をかけて、図書館のありとあらゆる閲覧室の書架からそれらの目録を探し当て、一層目の一番入り口に近い本棚に集めたのだった。
村に伝わる最古の伝承では、原初にこの世界が生み出されたとき、原初の神々の手によって一本の知恵の木が生み出され、その木が成長したのがこの図書館である、とされる。最初期の図書館は名もない一人の女神によって守護されていたが、人と神々との間で起こった戦争を境に、女神は姿を消してしまった。そのあとも人々は女神と図書館への信仰を失わず、いまも図書館を守り続けている。
だが当然その伝承も、図書館の書架にあった一冊の折本の中にあった。その本は村の子供が読み書きを教わるときに必ず使われる。
ルイスと、そしてルイスと同い年のエルもその本で字を覚えた。
図書館のすべての書架は、最初から、つまり、図書館が出現したときからすでに本で埋め尽くされていると言われている。根、葉、枝が複雑に張り巡る木の内側は、大小いかなる空間も、すべて天井まで本棚で囲われた閲覧室だ。閲覧室は木の成長と共に少しずつポコンポコンと泡のように拡大し、しかしそうして広がっていく書架にもまた、初めから何らかの書物、物語、文献がすき間なく入れられている。
図書館には貴重な本がごまんとあるので、秘密が外の人間に知れて荒らされないよう、村の人間はつねに外との接触には注意をはらう。おかげで、村には月に一度の塩売りの荷馬車をのぞいて、来客が来ることはない。
それが、ルイスとエルの故郷が隠れ里たるゆえんだ。
ふしぎで巨大な図書館を守り、同時にその知恵の恩恵を受けながら、誰にも知られることなく暮らしてきた。
〇
昔、ある日、シルヴィオの隠れ里の狩人が、村の外に鹿狩りに出たときのことだった。苔むした古木の根元の分かれ目のところに、藤で編まれた小さな籠がぽつんと置かれていた。
籠からおぎゃあ! と元気な声がしたので、彼は息をのんで、下ろしていた石弓を肩にかついで慌てて籠に駆け寄った。そこには一人の赤ん坊が寝かされていて、腹をすかして顔をしわくちゃにして泣いていた。
銀色の髪、銀色の目の男の子だった。
それがルイスだ。籠の奥にはじつはもう一つ同じような籠が置かれていて、そちらにも同じように男の赤ん坊が眠っていた。こちらの子どもはやわらかな金髪に青い目で、隣のルイスの泣き声をものともせずに狩人に笑いかけた。これがエルだ。
よく、と言えるほど頻繁ではないが、樹海という場所ゆえに、そういったことも起こりやすいのだそうだ。
拾われてから六年が経とうというころ、二人を拾った歴戦の狩人であるダミアンから、ルイスとエルは自分たちが拾われた子供であることを明かされた。
二人はとくに驚かなかった。ダミアンをはじめ村のみんなは黒髪で、自分たちに違う系統の血が流れていることは明らかだったし、同じように森に捨てられたところから始まる子どもの物語を、図書館でもう何冊も読んでいたからだ。
〇
十歳になるころにはもう、二人は立派な働き手として村のさまざまなことを手伝っていた。牛や山羊のエサやり、木こり、水くみ、巻き藁つくり、畑の世話、そのような手伝いをして、代わりに食べ物や服を貰って暮らしていた。何年か前には、大工の棟梁でもあるダミアンやほかの男衆にも手伝ってもらって、丸太を材料にして小さな家も作った。
家。自分たちの家。それはルイスにとって特別な価値があるものだった。エルにとってもそうだ。たとえそれが丸太でできた、部屋がひとつしかないちょっぴり貧相な小屋であっても、ルイスたちにはその家はめったに村に差し込んでこない日の光に負けないくらいに輝いて見えた。大切な宝物だった。
自分たちが外の人間であるという予感を打ち明けられる前から感じていたせいか、仕事がないとき、二人は村の誰よりも夢中で図書館にかよって、外の世界の本を手当たり次第に読んだ。そして、やがてルイスとエルは、同じものに憧れを持つようになった。つまり、大きくなったら村の外に出て、本でしか読んだことがない様々なものを自分たちの目で確かめに行くのだ。晴れ渡る空、海に沈む夕焼け、真っ白な雪で輝く山並み、人でたくさんの街、他にもいろいろなすばらしいものを。
――確かに当時はそう思っていた。
ルイスたちの冒険心は外ばかりでなく内にも向いた。
図書館は、二人の幼い好奇心をつかんで離さなかった。村のみんな、特におじいさんやおばあさんは、図書館と女神をほとんど同じように見ている、というのがエルの考えだった。みんなは図書館にまつわる謎を、自分たちから進んで神様という霧で覆い隠そうとしているとエルは主張した。ルイスたちは、おそらく自分たちはみんなほど信心深くはないだろう、そしてそのことはあまりみんなには言わないほうがいいだろう、という共通の認識によって結託し、周りに誰もいないときにだけこの手の話をするようにしていた。
「あれがどんなに不思議な図書館だって、結局は図書館なんだからさ? 大昔すぎて忘れちゃっただけで、本を読みたい誰かが造ったんじゃないの。つまり、神様じゃなくて人がさ」
エルは言った。その意見にはルイスも賛成だった。神話に関する本はいくつも読んで勉強したが、神が実在する、と書かれた本は一冊もなかった。
ルイスたちは畑で肥料やりの手伝いを終え、報酬としてパンと野菜をもみがら袋に入れてもらって、家に帰って来たところだった。
いくつかの小さな玉ねぎと芋が入った袋を丸太の机に置いて、ルイスはエルを振り返った。
「じゃあ、図書館の女神様っていうのもただの言い伝えだと思うか?」
エルは裸足で土間にぴょんと下りて水瓶から桶に水を汲み、ぱしゃぱしゃと手を洗いながら「多分そうじゃない?」と言った。
「女神様自体、なにか別の物の例え話だったとか・・・・・・太い川や大柳の木そのものを神様として拝む文化もあるって本に書いてあったの、昨日一緒に読んだでしょ」
「ほんとは女神様なんかいなくて、昔の人には図書館そのものが神様みたいに見えてましたってことかよ」
「けっこういい線じゃない?」
「あんまりでかい声じゃ言えないけどな」
「まあ、この村にずっと居ればね。そうでしょ?」
「それもでかい声じゃ言えない。まだな」
ルイスはは釜に薪をくべ、火を付けた。鍋にはまだ今朝のスープの残りが三分の一ほどある。エルはその隣で、もらってきた長くて硬いパンをザクザクと薄く切っていた。鍋の淵に小さな泡が立ち始めたので、ルイスは木のおたまでぐるりと透明な魚のスープを混ぜた。
夕方は樹海の空気が一番濃厚になる。森が深呼吸をして吐き出したような湿った空気が、外から家に染みこんでくる。
スープの淡い湯気が立ちこめて、家中がいい匂いになったところでルイスは火を消した。
冬が近づいていた。晩秋の夕日が高窓からほのかに射し込んで、テーブルの上をやんわりと明るく滲ませていた。そこに暖かい食事を並べるこの瞬間ほど落ち着くことはない。ルイスはそう思った。机の真ん中にろうそくを立てて、二人は夕食を食べ始めた。
エルが、ちぎったパンの切れ端をスープに浸して柔らかくしながら、「ルイ、明日は何かあったっけ」と聞いた。
「特に手伝いは頼まれてない。食い物も今日貰ったのがあるし」
「じゃあ図書館だね。前で四層目は見終わったから、その続きからだ」
「新しい剣術の本も借りてこようぜ。今借りてるのはほとんど覚えただろ」
「さんせーい」
エルはパンを大きく頬張ってしばらくもごもごし、「おいしいね」と嬉しそうに笑った。
昔からエルはよく笑う子供だった。まんべんなく器用で、人に好かれ、大人と話すときだってとても上手くやる。日に当たるときらきら光る明るいブロンドの髪に、まん丸な青い目、赤いほっぺたに、通った鼻筋。将来とてつもない美少年になるであろうことが誰から見ても明らかな子供だ。反対に、ルイスは不愛想だと言われることの方が多い。頭はよく切れるが、心の内を人に見せたがらないので、なにを考えているかよく分からない、と。けれど、だからこそ自分達は生きていく上で結託できたのかもしれないとも思う。
小屋には釜と水瓶のための土間と、丸太の机の置かれた板間がある。板間の奥には五段の短い階段がついていて、それをのぼると、藁敷きの寝床がある。
その日は食事のあとすぐに半二階に上がった。ふかふかの藁に先に転がったエルに毛布を一枚放り、自分の体にも一枚かけ、横になって東方の見聞録を読みながらうつらうつらし、いつの日か自分達がそのような冒険を繰り広げる夢を見ながら眠りにつく。
今となっては、遠く懐かしい日々のことだ。
一緒に夢見た童話の世界。輝かしい夕食のスープ。
俺達の希望の時代。