婚約者
赤いレンガを積み重ねて出来た、国境近くの街。商いに、荷運びなどの力仕事、働く大人が店の並ぶ通りを行ったり来たり。大人の間を、きゃらきゃら笑って子供達が走り抜けて行く。
少女は一人、にぎやかなこの日常をぼんやりと眺めていた。通りに面する店の中で、カウンター横のイスに腰掛けて。
年の頃は14歳程で、空色の大きな瞳と丸みのあるほほに幼さが残っている。長い栗色の髪を三つ編みにして、二本背中に垂らしていた。
店の中には、焼けた小麦粉と甘いバターの香ばしい匂いが漂っている。少女はゆっくりと首を回すと、通りから店内へと視線を移した。ピーク時を過ぎて、棚に並ぶ品物は少なくなっていた。
今いる客は一組だけ。年の離れた兄妹だ。兄の腰にしがみついた妹が、真剣な眼差しで黒いマフィンと赤いマフィンをじぃっとにらんでいる。兄の方は急かすこともなく、緩く笑みを浮かべながら妹のつむじを見守っている。
栗色の少女は、その様子をじっと眺めていた。けれど、彼女に見えているのは二人ではなく、二人に重ねた在りし日の自分達だ。
まだ、世の中のことが全く見えていなかったあの頃。「家族」という狭い世界のことすら、自分は正確に見えていなかったかも知れない。ただただ、大好きな彼の言葉を全て真実だと信じていた。彼は自分の望みを叶えてくれると、何一つ疑っていなかった。
あの日の約束は必ず果たされるものなのだと、つい最近まで彼女は信じていた。
***
とても仲の良い姉妹がいた。
小さくてかわいい妹が大事で、姉はいつも妹の手を引いていた。優しくてかっこいい姉が大好きで、妹はいつも姉の後をついて回った。
いつも妹を守っていた姉は、街のみんなを守ってくれる憲兵の一人と結婚した。いつも姉に菓子を焼いていた妹は、街一番のパンを焼く青年と結婚した。
姉夫婦には息子が生まれた。顔立ちは母に似ていたが、父に似て寡黙な少年だった。彼が10歳の時、妹夫婦に娘が生まれた。
少女、フェリシアは、かつて母がそうだったように、イトコのリチャードの後ろをヒヨコのように追いかけた。
フェリシアが5歳、リチャードが15歳の頃、その光景はすっかり近所の日常となっていて、リチャードは同年代の少年達に「カルガモ兄」などと呼ばれていた。幼いイトコのことを好ましく思っていたからなのか、リチャードはそれを大して気にした様子もなく、そのまま呼ばせていた。
「おにいちゃんっおにいちゃんっ。」
フェリシアが8歳になる少し前、家に伯母一家を招いた夜のことだった。夕食後、ダイニングで寛いでいたリチャードにフェリシアが抱きついた。
ここまではいつも通りのことである。
リチャードに手伝ってもらって、彼の膝によじ登ると、フェリシアは空色の瞳をきらきらと輝かせて宣言した。
「あのね、わたしね、おおきくなったら、おにいちゃんの およめさんになる!」
片付けをしていた父の手から、重ねていた皿が滑り落ちた。床すれすれで伯父が受け止めたため、被害は出ずに済む。母と伯母は顔を見合わせてから、けらけらと笑い出した。
「そうね、リック君になら安心してフェルを任せられるわ。」
「良かったわね、リック。フェルちゃん、絶対に料理上手になるわよ。」
硬直したままの父の手に皿を返しながら、伯父もふむっとうなずいた。
「リック。フェルちゃんを幸せにするんだぞ。」
幼さ故、家族愛と恋愛感情をごっちゃにしているのだろう。いや、「好きの区別」すらまだないだろう。母二人は、幼子の拙いプロポーズが微笑ましくて、ただただ笑い続けた。
なぜ笑われているのかが分からず、フェリシアは不思議そうに首をかしげた。そんなイトコを見つめて、リチャードはじっと黙り込んでいた。
やがて、「そうだな……」とつぶやいた。フェリシアの顔をのぞき込んで、藍色の瞳を緩める。
「10年経っても、フェルが俺を好きだったら、結婚しよう。」
「やったぁっ!」
空色の瞳が先程の比でないくらい輝く。まあるいほほが喜びで色づく。フェリシアはリチャードの首に抱きつくと、きゃっきゃっと跳ねた。大きな手が応えて、小さな背をぽんぽんとたたく。
その様子を見て、伯母は急に笑いを引っ込めた。母に耳打ちする。
「い、良いの?」
「大丈夫よ。リック君もフェルに合わせてくれてるだけでしょ? ま、私はリック君なら、全然問題ないけどね。」
ふふふっと母はうれしそうに笑う。父は皿を投げ出さん勢いで叫んだ。
「問題大ありに決まってんだろ! リックはもう、フェルのことフェルって呼ぶの禁止!」
「あらまあ、横暴ねー。」
「おにいちゃんっだいすきっ!」
何かにつけてフェリシアがそう告げると、リチャードは優しい藍色の目を細めて微笑み、フェリシアの頭をなでてくれた。リチャードから愛をささやかれたことは一度もない。けれど、フェリシアの「大好き」をリチャードはいつも受け止めてくれた。
だから、フェリシアはリチャードも自分を好いてくれていると、欠片も疑っていなかった。大人になったら、いつか母のように白いふわふわのドレスを着て、ミカンの花で髪を飾って、リチャードの隣に立つのだ。そう、ずっとずっと信じていた。
***
「フェリシア。」
低く優しい声に、はっと我に返る。
バターと小麦の香り。フェリシアは、カウンター横のイスに腰掛けて、ぼうっと自分の靴へ視線を落としていた。外を見ると日が傾き始めていた。あの兄妹を見送ってから、もう随分と時が経ってしまっている。
戸口に、背の高い青年が一人立っていた。黒い髪を短く切りそろえた、20代半ばの青年である。憲兵の制服である紺色のジャケットをきっちりと着ていた。
彼は心配をその藍色の瞳に乗せて、再度彼女の名を呼んだ。
「フェリシア?」
「あ。……いらっしゃい、お兄ちゃん。」
フェリシアは慌てて立ち上がると、にこっと笑った。カウンター裏から紙袋を一つ取り出して、トングを持つ。彼、リチャードが気に入ってる、ナッツたっぷりのパンを入れる。それから、ツヤツヤのロールパンも。
「今日も、まだお仕事?」
「いや、夜勤は昨日で終わった。もう帰るところだ。」
「じゃあ、伯母さんと伯父さんの分もいるのかな。」
「ああ、頼む。」
伯母が好きなふわふわ甘いパンと、伯父の好きなサクサク軽いパンも詰める。棚を行き来するフェリシアを、店の中程に立ってリチャードが眺めていた。
フェリシアは袋を閉じると、それを渡そうと彼に近づいた。大きな手がさっと降りてきて、フェリシアの額を包む。
「……熱はないみたいだな。」
「……私、もう小さい子じゃないよ。」
子供扱いされたようで、フェリシアはぷうっとほほを膨らませた。それを気にせず、リチャードはピタピタと桃色のほほに触れる。
「気分が悪くなったら、すぐ叔父さん達に言うんだ。疲れたら無理はするな。」
「さっきは考え事してただけだよ。大丈夫。」
えいっと、フェリシアはリチャードの胸元に紙袋を押しつけた。リチャードはそれを片手で受け取り、コインをフェリシアの手に握らせる。
「あのね、今日のロールパン、私が焼いたんだ。」
「そうか。楽しみだ。」
優しく目を細めて、彼は笑った。ぽふぽふとフェリシアの頭をなでて言ってしまう。フェリシアはなでられた頭を押さえたまま、じっと彼を見送った。
フェリシアはリチャードが大好きだ。それは今も昔も変わらない。けれど、彼との未来を無邪気に信じることはもう出来なかった。
***
巡回中や買い物中のリチャードが、彼と同じ年頃の女性と共にいる様子を小さい頃からよく見てきた。フェリシアが隣にいるのに、付いてこようとする女性もいた。
彼女達は頑なにフェリシアを「妹ちゃん」と呼び、フェリシアは不機嫌に膨れてはリチャードを困らせた。それでも、まだフェリシアは自分がリチャードの恋人だと信じていた。
不安に、ならなかった訳ではない。
きらきらの金髪や、つやつやの黒髪を見ては、鏡の前、自分の栗色の髪と比べてしょぼくれた。鼻筋の通った美しい人を見ては、自分の丸い顔と低い鼻と比べて肩を落とした。豊満な体つきの女性を見ては、自分の凹凸の少ない体を見下ろして涙目になった。
頭の中で彼女達に負ける度、自分はあまりリチャードに相応しくないように思えた。
それでも、リチャードはいつもフェリシアを優先してくれた。フェリシアと一緒にいる時は、連れがいるからと彼女達の同行を断ってくれた。街中でフェリシアを見かければ、傍に誰がいても自分の下に駆け寄ってくれた。
だから、だからだからだから、リチャードの恋人は自分のはずなのだ。
***
それは一週間前のことだった。
日が傾き始めたのを見て、フェリシアは持ち手のついた籠を一つ取り出した。やわらかい丸パンと新作の豆入りデニッシュを詰めて、店を出た。
ふんふんと鼻歌混じりに通りを進む。商店街を抜けて、騒がしさが遠くなる。家路を急ぐ子供が数人、フェリシアの前を横切った。それに足を止めると、横から声がかかった。
「リックの妹って、貴方?」
女性が一人、立っていた。年は、リチャードと同じくらいに見える。夕日を目映く弾く金髪に、フェリシアより濃い青い瞳で、肌は雪のように白かった。フェリシアはその整った相貌を見つめ、知らない人だな、と思った。
リチャードを愛称で呼んだということは、彼の知り合いなのだろう。
何となく視線を下げて眉を八の字にした。フェリシアの気分は沈んでいく。女性が余程の料理下手か、怠け者でもない限り、勝てる要素が一つもない。
お客さん以外で、知らない人と話すのは苦手だ。でも、話しかけられたからには、無視出来ない。フェリシアはどうにか口を開き、弱々しい声を発した。
「……イトコです。」
「あら。じゃあ、やっぱり貴方でいいのね。」
女性はうれしそうに笑うと、踊るような足取りで距離を詰めた。フリルで膨らんだスカートが揺れる。かがむようにフェリシアの顔をのぞき込んできた。
「貴方なら知ってるわよね? リックの婚約者がどこの誰か。」
「え?」
ぱちり。フェリシアは空色の瞳を大きく見開いた。
婚約者。結婚の約束をしている人。そんなのもちろん、
「私です。」
「はぁ?」
眉間を中心に顔をゆがめて、ひっくり返った疑問符を吐き出す。美人にあるまじき表情と声だ。自分でもいけないと思ったのか、女性はごほんっとせき払いしてすまし顔を取り戻した。相手が落ち着いたのを見て、フェリシアは答えを繰り返す。
「私、お兄ちゃんと結婚の約束しました。」
女性が唇を引き結ぶ。じっとフェリシアを見下ろす目が鋭い。やがて、はぁーっと大きく息を吐き出した。両目を片手で覆って、大げさな動作で空を仰ぐ。
「アホらしい。時間の無駄ね。」
フェリシアはむっと眉を寄せた。ちゃんと答えたのに、なんと失礼な態度だろう。
「私、ちゃんとお兄ちゃんと……っ」
「アンタみたいなちんちくりんと婚約だなんて、そんなはずないでしょう?」
女性がフェリシアの鼻先へビシッと指先を突きつけた。磨かれた爪がきらりと光る。
「いい? 婚約よ、婚約。大人の話をしてるの。ままごとになんて付き合ってらんないわ。」
「ままごと?」
「だってそうでしょう? 愛も恋も分からないようなお子様の空想に付き合ってあげるのは、ごっこ遊びと一緒よ。」
「ごっこ遊びなんかじゃ……」
ない。と、そう訴えようとした。
空想なんかじゃない。自分は本当にリチャードが好きだ。
でも、あれ? そういえば、母はいつもリチャードになんて言っていたっけ?
リチャードに飛びついてはしゃいでいる自分の後ろで、「フェルに付き合ってくれてありがとう。」と、そう言ってなかったっけ?
あれは、この人が言ったのと同じ意味?
女性が背を向ける。
「全くもう。どこにいるのよその女はっ。」
もうフェリシアへの興味を失ったようで、低い声でブツブツつぶやきながら女性は行ってしまう。
フェリシアはぎゅうっと籠を抱きしめた。
***
夕日に照らされる坂をとぼとぼと下って行く。住宅街の端の端までやって来た。並ぶ家々の中で、少し小ぶりな家の前で立ち止まった。緩く握った右手を上げて、ちょっと迷ってから胸元へ引き寄せた。すぅーっと息を吸い、胸が空っぽになるほど吐く。今度こそ、扉をたたく。
「まあまあ、フェルちゃん。いつもありがとうねぇ。」
ノックに応えて、扉が開く。開ききる前に、緩やかな年月でしわがれた優しい声がフェリシアを出迎えた。少々不用心だが、この時間の来客が自分だと決まっていることが何だかくすぐったい。
もう、いつも通りの自分に戻れたと思ったのに。
クルミの殻を思わせる白茶色の髪の老女は、フェリシアの顔を認めると、細いフレームの奥の目を丸くした。
「フェルちゃん? どうしたんだい?」
戸口の外へと進み出る。声と同じ、時の中で硬くなった手が、フェリシアの手を包んだ。
「顔色が悪いよ?」
「えっと……。」
思わず、フェリシアは唇を引き結んだ。首を横に振る。
「何でもないの。ちょっと、考え事があって。」
「考え事? 何か悩みがあるのかい? ばあちゃんで良かったら聞くよ?」
最愛の夫との間に子供がいないからだろうか、彼女は街の子供達に親身だ。ちなみに、彼女にとっての「子供」とは、フェリシアの両親の代も含まれる。フェリシアは微笑んで、彼女へ籠を差し出した。
「ありがと、でも、大丈夫。」
「そうかい? ……そういえば、リック君、結婚するんだってね。フェルちゃん、寂しくなるねぇ。」
彼女としては、明るい方向に話題を振ったつもりだったのだろう。イトコに懐いて回っていたフェリシアをからかって、元気づけたかったのかも知れない。けれど、フェリシアの笑みは凍り付いた。老女が差し出す、先日の籠を受け取ることも出来ない。
「……その話、どこで?」
「え? うちの人が聞いたのよ。屋台で、憲兵さんが話していたんですって。先輩は、口を開くと婚約者さんの話しかしないって。フェルちゃん?」
より青くなったフェリシアの顔色に、老女は自分が話題選びを間違えたことを悟った。どうしたのかと寄ってきた夫に、パンの籠と空っぽの籠を押しつける。先程より強くフェリシアの手を握った。
「大丈夫。大丈夫よ。他に大切な人が出来たって、リック君にとってフェルちゃんが大切な子なことに変わりないんだから。」
ね? と同意を求められた夫は、不思議そうな顔で取りあえずうなずいている。
フェリシアは笑った。二人に心配をかけたくなくて。でも、二人とも変な顔をしているから、上手くいかなかったようだ。老女に至っては泣きそうになっている。
的外れな慰めは、フェリシア以外の人間にとって、きっと真っ当なものだ。フェリシアだけが、間違っているのだ。
フェリシアがリチャードに求婚したのは、もう6年以上も前のことだ。今頃人の口の端に上るなんて、今更過ぎる。うわさの元が、フェリシアであるなら。
もし、7歳のあの時、リチャードにフラれていたら、自分はどうしただろう。ギャンギャン泣いて、床に転がって暴れたかも。
だって、今も目の前がよく見えないのだ。拭っても拭っても、ぼろぼろ涙があふれてくるのだ。
リチャードは、いつもフェリシアに優しい。フェリシアが泣いた時、真っ先に目元を拭ってくれるのは、母でも父でもなく、いつもリチャードだった。
だから、そんなリチャードが、フェリシアが悲しむようなことを言えるはずがない。
だから。だから、もうこれ以上、リチャードを困らせちゃいけないんだ。
その日、フェリシアは自分の部屋でもう少しだけ泣いて、もう馬鹿な夢は見まいと心に誓った。
***
あれからずっと、フェリシアはぼんやりしてしまう。
思い出すのは、全てが自分の思い通りだと信じていた幼い頃と、その幻想にひびを入れた女性の言葉だ。ずっとぐるぐる、フェリシアの頭の中を巡り続けている。昼も夜もなく、フェリシアはそれらをじっと見つめていた。
父母や客が話しかければ、はたと現実に引き戻されたが、一人きりになるとまたすぐ気分が沈んで、思考から抜け出せなくなる。
両親に心配をかけていることは分かっていたし、自分でもしっかりしなくてはいけないと思った。しかし、ぬかるみにはまった足は泥に吸い付いて重くて、持ち上がらなかった。
***
ある日の昼過ぎ、フェリシアは二階の自室で窓際のイスに座っていた。友人から借りた小説でも読もうと思ったが、乗り気になれなくて、膝の上に広げたまま1ページも進んでいない。
窓の下の通りを、フェリシアとそう年の変わらない少女達が、きゃいきゃいと声をあげて過ぎて行く。おそらく定期市に行くのだろう。4ヶ月に一度、遠くの街の商人達が、街の中心部にある大きな広場で店を開くのだ。今日は、その日だ。
他所の街のものはもちろん、異国のものも並ぶので、男性も女性も、大人も子供も毎回楽しみにしている。フェリシアもその一人だった。
両親に連れて行ってもらうこともあったが、リチャードと一緒に行くことの方が圧倒的に多かった。冬の市は彼の誕生日が近いから、一人でプレゼントを買いに行くこともあった。
今行ったら、そんな思い出に押し潰されて泣いてしまいそうだ。
カーテンを閉めると、本を抱きしめるように膝を立てる。閉じた本の固い表紙に額を押しつけて、目をつぶった。
「フェリシア。」
低く優しい声に、空色の瞳がぱちっと開く。フェリシアは恐る恐る顔を上げて、閉じられたままの戸を見つめた。その先で、とんとんとん、と軽い音が鳴る。
「フェリシア、いないのか?」
「お兄ちゃん……?」
思わず彼女がそう口にすると、ほっとしたように扉の向こうの気配が和らいだ。
「入るぞ。」
「……うん。」
フェリシアは足を床に下ろすと、まくれたスカートをささっと手で戻した。また沈んでいたことを気取られぬよう、本の適当なページを開く。しかし、
「こんな暗い部屋で読んでいたのか? 目が悪くなる。」
「あ。」
扉を開けたリチャードが不思議そうな顔をする。今日は仕事ではないのか、紺のジャケットは着ておらず、シャツとズボンのラフな格好をしている。
彼の言葉に、フェリシアは閉めてしまったカーテンに気がついた。気をつけるんだぞ、と付け足してから、リチャードは薄く笑みを浮かべた。
「天気も良いし、定期市に行かないか?」
カーテンを開けるか開けまいか、悩みながらその端を握りしめていたフェリシアは、えっと軽く口を開けたまま動きを止めた。
今回も、一緒に行って良いのだろうか。自分が、一緒に。
いつもなら元気良くうなずくイトコが、口を閉ざしたままだからだろう、リチャードが僅かに眉を寄せた。
「もしかして、他に約束があるのか?」
「ち、違うよっ。」
フェリシアは慌てて首を横に振った。結わえた髪が左右に揺れる。
「そうか。なら行こう。」
大きな手が、フェリシアの手からさっと本を引き抜いた。机の上に置いて、改めてフェリシアの手をつかむ。ぐいと引いて、部屋から連れ出した。
***
いくつもの露店が並んで道を作る。広場はまるで一つの街のように、迷路のようになっている。人も店すらも広場からあふれている。
息苦しくなる程の人混みの中、はぐれないようにと、リチャードの手はフェリシアの手を捕まえたままだ。
カラフルな織物で出来た露店の屋根。鈴生りに飾られたアクセサリー。宝石のような飴細工。カーテンのように店を囲う華やかな衣服。ごちそう。お菓子。知らない果物。読めない題字の本。怪物を模した奇妙な置物。鮮やかな色彩の小鳥。
定期市の広場は、いつもとは違う世界だ。まるで夢の世界が広がっているようで、外の世界が詰まっているようで、小さい頃から来る度にわくわくした。どきどきした。いつもいつもリチャードの手を引っぱって、あれは何、これが欲しい、きゃいきゃい騒いで連れ回した。
けれど、今のフェリシアはただリチャードについて歩くだけで、世界は視界からも意識からも流れていく。
すれ違った女性が、リチャードに声をかけた。ただの挨拶だけれど。
いつもなら焼き餅を焼いて、ぷくりぷくりとほほが膨れる所だが、今日のフェリシアの心はしおしおと萎んでいった。このまま、手まで細く萎んで、するりとリチャードの手から抜けてしまえば良いのに。そんなことまで考える。反対に、不安は悲しい言葉でぱんぱんに膨らんでいた。
リチャードが足を止めた。ぶつかりそうになって、フェリシアも止まる。顔を上げると、振り返った藍色がじっと自分を見下ろしていた。
「疲れたか?」
「ううん。平気。」
立ち止まったのはリチャードの方なのに、急にどうしたのだろう。こちらからも、じっと彼を見上げていると、リチャードがそっと眉を下げた。
「気晴らしになるかと思ったんだが、余計顔色が悪くなったみたいだ。ごめんな。体調が良くないなら、こんな人の多い所に連れて来るべきじゃなかった。」
フェリシアの手が強張る。
そうだ。ここ最近、リチャードは自分の体調を気にかけてくれていた。このお出掛けも、その一つだったんだ。
心配をかけてしまったことが、心苦しかった。リチャードは悪くないのに、謝らせてしまったことが申し訳なくて、フェリシアはうつむく。握られた手に視線が落ちる。
もういっそ、ここで終わらせてしまおうか。この手を放してしまおうか。
「あのね……」
「あれっ? 何してんすか先輩。」
意を決して口を開いたフェリシアの声を、知らない男性の声が遮った。
駆け寄ってきたのは、茶髪の青年だ。リチャードより一つ二つ年下なのか、明るい笑顔と弾んだ口調がどこか幼い。後ろからもさらに青年が二人やって来た。彼らが着ている紺のジャケットは、いつもリチャードが着ているものと同じだ。後から来た片方が、フェリシアに向けてひらひらと手を振る。よくパン屋にも来てくれる、リチャードの友人だ。
フェリシアは、イトコの陰に隠れながら小さく頭を下げた。
「お前、何で私服なの? さっきまでパトロールしてたよな?」
一般人に紛れてしまうリチャードの格好に、青年達が首をかしげる。リチャードがうなずいた。
「ああ。今日の午後は休みを取った。」
「そうなんだ。俺は明日休みー。」
「えー。いいなぁ。」
フェリシアごとリチャードを囲んで、青年達がわいわい話し始める。最初に声をかけた一人が、リチャードにしがみついて隠れていたフェリシアに目を留めた。
「先輩、妹さんっすか?」
かわいいっすね、と笑った彼の言葉に、フェリシアはビクリと肩を跳ねさせた。シャツを摘む指先に力がこもる。
やっぱり。自分は妹分でしかないのだ。妹にしか見えないのだ。
彼に、相応しくないのだ。
「いや、」
緩くリチャードが首を横に振る。腕をフェリシアの背に回して、肩を抱いた。
「婚約者だ。」
きっぱりと、彼は確かにそう言った。にじんでいた涙が引っ込む。
最初の青年が目を丸くしてフェリシアを見下ろす。もう一人の青年の目がぱっとこちらに向く。その後ろで、リチャードの友人が口を一文字に引き結んでいる。
妙に間が開いた後、突如青年二人が声をあげた。
「じゃあ、この子がフェリシアちゃんっ!?」
「えぇっ? 先輩、年下っつっても、限度があるっしょっ?」
「叔母さんに許可はもらっている。」
ぎゃいぎゃい騒ぎ声が大きくなる。リチャードは少し眉を寄せて、フェリシアの頭をぽふぽふなでた。
急に活性化した青年らと、そのきっかけとなった彼の言葉を上手く処理出来ない。フェリシアはきょとんとほうけたまま、頭に与えられる軽い衝撃を受け止めていた。
リチャードの友人が、耐えかねたようにぶふぅっと息を吹いた。
「二人とも驚きすぎっ。俺、かなり年下だっつったじゃん。」
「いやぁ、聞いたっすけど……。」
フェリシアは、まだ笑っている青年を見上げた。口元を押さえて、肩を揺らしている。
「あの……?」
ようやく声が出せたが、フェリシアは続ける言葉が思いつけなかった。青年が目尻にたまった涙を指で拭う。
「フェルちゃん、フェルちゃん。良いこと教えてあげようか。リックはさ、毎日毎日俺らに君の話をするんだよ。」
愛されてるね。相変わらず。
パトロールの途中だからと、青年達は去って行った。騒ぐだけ騒いで、はいさようならとあっさりいなくなるなんて、まるで嵐のようだ。解放された二人は、彼らが消えた人の壁を眺めたまま、しばらく立ち尽くしていた。
とんとんっと、フェリシアの肩がたたかれる。
「フェリシア、そろそろ行こう。この先に、いつもの菓子がある。」
「あ、うん。」
リチャードの大きな手が差し出される。フェリシアがその手を取ると、確かに握り返された。すいっと手を引かれる。
「あ、あのね、お兄ちゃん。」
「うん?」
「あの、あのね……。」
勇気を出そうと思った。けれど怖くて、フェリシアの視線は足下の敷きレンガへと落ちる。ぎゅうっと握る手に力を込めた。
「私、お兄ちゃんのお嫁さんになって、良いの……?」
ぴたり。再びリチャードの足が止まる。
「……俺のこと、嫌いになったのか?」
「好きだよっ!」
ほほがかっと熱くなって、考えるより先に言葉が飛び出した。
「私、お兄ちゃんのこと大好きだよ! でも、でもね、お兄ちゃんは……、私、お兄ちゃんが私のこと、どう思ってるのか……知らないよ……。」
話しているうちに段々気分が沈んできて、声も弱々しく消えていった。
リチャードが不思議そうに首をかしげる。
「好きだから、結婚するんだろう?」
あっさりとした彼の言葉に、フェリシアの中でぐるぐる回っていたものがぷしゅりと抜けた。
風船に穴が開いたように、膨らんでいた不安が、悲しみが、みるみる萎んでいく。フェリシアはほっとして、そのあまり泣きそうになった。それを耐えた変な顔で笑う。
リチャードはフェリシアの頭をなでて、苦笑をこぼした。
「ただ、叔父さんは二十歳になるまでダメだって。だから、10年経ったらって約束は守れないかも知れない。ごめんな。」
「う、ううんっ! それは、お兄ちゃんのせいじゃないよ!」
フェリシアはブンブンと勢いよく首を横に振った。
良かった。
ただただ、その言葉だけがフェリシアの頭を埋め尽くしていた。
良かった。この人を諦めないでいられる。
良かった。これからもこの人の隣にいられる。
リチャードの胸に額を押しつけて抱きつく。甘えるようにぐりぐりと擦り付けた。
大好きな人は、ちゃんと自分を選んでくれていた。
END