ムフタ 1
兄と一緒に領内の視察から帰る途中、誘拐された。誘拐される最中や移動中の記憶がないから、薬を使われたのかも知れない。
拐われた時は昼過ぎだったが、今は夜のようだ。暗くてはっきり見えないが、小屋のような場所にいるらしい。埃や砂の臭いが鼻をつく。
すぐ傍では、数人が車座になって座っている。気絶した振りをして話を聞いていると、今後について決めかねているようだった。
「交渉はあんたに任せるとして、あの子供はどうする。ここに置いとくのか?」
「見張りはどうする。飯だって誰が用意するんだ」
「それなら、うちで預かろう。ガキがいるから見張りと飯の世話もさせられる。その代わり、俺の取り分を多くしてくれよ」
ガキがどこかにチクらないか、取り分の話はことが終わってからだ、などの悶着はあったが、結局アンハルは手を挙げた男の家に隠されることになった。
埃まみれの袋に詰めこまれて着いた男の家には、そいつが言った通り子供がいた。男は自身の子と思しき子供にアンハルを見張れと言いつけて隣の部屋へと消える。すぐに鼾が聞こえてきた。犯罪に手を染めておいて随分と寝つきがいい。どれだけ神経が図太いのか。忌々しい気持ちで足に結ばれ家の柱に繋がる縄を引いた。びくともしない。
灯りのない暗闇の中、子供は訳が分からないと言った様子でアンハルを見ている。威嚇のつもりで睨みつけるとびくついて少し後ろに下がった。いくらかの後ろめたさが湧いたが、こいつだって誘拐犯の子供だと思いなおす。
子供はしばらくアンハルを見ていたが、その内に舟をこぎ出し、ぱたんと倒れてそのまま寝入った。
いま無理に起きていても体力を無駄遣いするだけだ。アンハルも床に横になり目を閉じた。
◆
物音がして目が覚める。目を開けると、昨夜とは違う場所に倒れる子供が目に入った。腹を庇うような姿勢で丸くなっている。
「見張ってろっつったじゃねえか。何寝てんだグズ」
アンハルをここに連れてきた男が子供を蹴る。どうやら見張りを言いつけた子供が寝ていたから折檻しているらしい。
ただ飯ぐらい、役立たずと子供を罵りながら男は家を出て行った。足音も聞こえなくなると、子供は気にした様子もなく起き上がる。そのままアンハルのいる部屋を出て行き、手に茶色い塊を持って戻ってきた。
「食べるか?」
手に持っているのはどうやらパンらしい。空腹ではあったが、他人から渡された食べ物を迂闊に口にできない。いらない、と断ると。子供はあっさり伸ばしていた腕を引っ込める。代わりのように「水が飲みたい」と頼んでみると、汲んでくると言って外に出て行った。
思わぬタイミングで一人になれた。壁に体重を預け、深く息を吐く。
考えなしに逃げようとするのは危険だ。ここがどこなのか分からない。屋敷から近いのか遠いのか、それとも知らない街にまで連れてこられたのかさっぱりだ。そもそも、これが本当の誘拐なのかも怪しい。当面は大人しくしていた方がいいだろう。
昼頃、子供の父親と、若い男がやって来た。子供にアンハルの世話を言いつけている。
子供が作った昼食を食べずにいたら、若い男が子供をそばに呼んでアンハルの昼食を食べさせ始めた。毒味のつもりらしい。何も知らずに毒味役をした子供は、目を輝かせて差し出される食事を口に入れている。その姿を直視できずに目を逸らす。胸の内側が痛い気がした。
結局、子供の父親と若い男がいなくなってからアンハルは食事に手を付けた。子供との会話から、あいつらにアンハルを殺すつもりはないらしいとわかったからだ。
食事の後、子供に渡された丸薬を飲み下す。アンハルに常用している薬はない。子供は薬だと教えられているようだが、十中八九、毒だろう。死なない程度に弱らせて扱いやすくしたいのだ。
休みたいから一人にしてくれと頼んだら、子供は渋りながらも部屋を出て行った。弱っている姿を見られたくなかったのでありがたい。
やがて、無性に体が重く、怠くなっていく。薬が効き始めたようだ。その場で横になり、アンハルは目を閉じた。
夜、帰宅した子供の父親が、憂さ晴らしのように子供を張り倒していた。誘拐、子供への暴力。自然と侮蔑の気持ちが湧いた。アンハルの視線に気づいたのか、子供の父親がこちらを見て顔を歪める。鼻で笑ってやろうかとおもったが、その矛先が子供に向かうと思うとその気も萎えた。
怖気付いたとでも思われたのか、逆に鼻で笑われた。めちゃくちゃ不愉快だった。
父親の就寝後に帰ってきた子供は歩き方が少し変だった。大丈夫かと聞くと、平気だ、寝てれば治ると淡々と返される。あんな暴力が茶飯事ということが察せられて、アンハルにはどうしようもないのにやるせない気持ちになった。
◆
この家に来て2日目、子供から坊ちゃんだの真珠だの呼ばれた。そんな名称で呼ばれるのは断固拒否だが、かといって本名を名乗ることにも抵抗がある。案外何も変わらないかもしれないが。
もしアンハルの立場を知られたら、この子供がどんな行動に出るか分からない。咄嗟に真珠で連想した祖父の名を出したが、特に疑いもなく受け入れられた。子供の中で、アンハルは「ムフタ」になった。
子供の名前はファーマというらしい。真珠呼ばわりされた仕返しにそっちの方が女みたいな名前だと言ったら、呼ばれないから男も女も関係ないと返ってきた。名前を付けたのがあの父親なのか、姿の見えない母親かは分からないが、本当に性別も知らないで適当に名付けた可能性もありそうだ。
一悶着の後で朝食になった。身代金と交換する予定もあるし、薬と偽って毒を飲ませるくらいだ。食事に毒は入っていないとは思うが、出されたものを素直に食べることはどうしてもできなくてファーマにも食べさせる。昨日からそうしていたら、ファーマから食事の量は足りているか、自分には食べさせなくてもいいと言われた。
食事を分ける振りで毒味をさせていることに気づいているのかと思ったが、単にアンハルを心配してのことのようだ。体の調子が悪くて食欲がない。捨てるのが勿体ないから分けている、という苦しい言い訳をファーマは信じた。昨日と同じように、胸の内側が痛む気がした。
食後に飲む丸薬と疲労のせいで調子が悪い。横になって浅い眠りと覚醒を繰り返す。目が覚めている時、いつも意識の端にファーマの姿や何か作業している物音が引っかかっていた。いつものアンハルなら、今の時間帯は算術や読み書き、礼儀作法の勉強をして過ごしていただろう。歳の近いであろうあの子供は普段何をして過ごしているのだろうか。
◆
3回目の朝を迎えた。はっきり自覚できるほど体調が悪い。絶不調だ。寝たり起きたりを繰り返したせいで、全く休んだ気がしない。起き上がることもできなかった。
明け方頃に目を覚ますと、いつの間にかファーマが近くで寝ていた。毒の効果が切れたのか、体が少し楽になっている。ここぞとばかりにアンハルも眠りに落ちたが、そう時間も経たないうちに大きな音に起こされる。
何事かと思ったら、ファーマの父親が大声でファーマを罵っているようだ。布に阻まれて見えないが。合間合間に物音とファーマの苦しそうな声も聞こえる。どうやらアンハルの食料に手を出したことを咎められ、逆上して暴力を振るっているらしい。
「お前もあのガキの飯食ってただろうが、テメエの自分の食い扶持も稼げないガキが偉ぶるんじゃねえ!」
その言葉を聞いて、ファーマを案じる気持ちと父親への怒り、それらを上回る自分への嫌悪が押し寄せた。
ファーマに自分の食事を分けていたのは毒味をさせていたからだ。同情や優しさからの施しではない。お前が想像するような理由ではない。大声でそう言ってやりたいのに声が出ない。暴力が自分に向いたらと考えると恐ろしい。荒い息を吐いて這いつくばりながら歯噛みするしかできない自分が嫌だ。鼓動が狂いそうな程に胸が痛い。もう分かっていた。この痛みは罪悪感だ。アンハルのせいで割を食うファーマへの罪悪感だった。
その内父親は外に行ったが、ファーマが起き上がる気配がしない。まさか死んでいるのかと思って名前を呼ぶが、掠れ声しか出なかった。言葉にならない声を出し続ける内に、アンハルは気絶するように意識を失った。
次に目を覚ましたら太陽はすっかり高く昇っているようで、室内にも明るい光が差し込んでいた。意識はかなり明瞭で、体調もいくらかマシになっていた。枕もとの水入れから水を飲み、姿の見えないファーマを呼ぶ。布の向こうの部屋や土間にも姿が見えないと思っていたら外にいたらしい。声はいつもと変わりないから安堵していたら、屋内に戻ってきたファーマの顔を見て愕然とした。頬や目元が腫れ、いくつもの痣が広がっている。口元にこびりついた血が生々しい痛みを伝えてきた。
「父親にやられたのか」と、知っているのに聞いてしまう。
「うん。でもそのうち治る。それより、飯食えるか?」
何がそれよりだ、と思ったが、詳しい話を聞いても自分にできることなど何もない。この場で一番無力なのはアンハルだ。手当ての方法を知っていても道具がない。それらを揃える方法も持たない。生まれ持った立場がなければ、自分は何もできない子供でしかないと思い知らされる。
今は食事は要らない、と首を横に振ると、薬だけでも飲めと言われたが、「あの薬、食後に飲まないと逆に体に悪さをするんだ」と誤魔化した。折角体調がマシになってきたのに、またむざむざ毒を飲むのはごめんだった。一食抜くくらい我慢してやる。なんなら今日は水だけで過ごしたって構うものか。
しかし、子供の体というのは正直なもので、昼食も食べずに過ごすというのは無理だった。ファーマの家に来てから食事の量が減っているのも理由だろう。相変わらず水以外は果物くらいしか喉を通りそうにないが、何も食べないのでは体が保たない。忸怩たる思いでファーマに頼んで果物を用意してもらう。それと一緒に、アンハルの食料から何か食べるように言ってみたらパンを一つだけ食べた。腫れていても一目で喜んでいると分かる表情で。空腹だと言っているし、やせっぽっちなんだからもっと食べればいいのに。そう思いながら、アンハルは自分のために一口大に切られた果物を数切れファーマに食べさせる。自分のことが心底嫌いになりそうだ。
「ムフタ、全然具合よくならないな。この薬作った医者、ヤブなんじゃないのか」
ファーマが丸薬に疑問を呈す。果実を噛む顎が石のように重くなった。
言わなくていい。本当のことなんて言う必要はない。ファーマを困らせるだけだ。これ以上の迷惑をかけるのか。自制心の叫びも虚しく、噛み過ぎてどろどろになった果物を飲み下した口が「それは薬じゃない」と言葉を発した。
直後、眩暈がするような後悔に襲われた。言ってどうするんだこんなことを。それでも舌は動く。堰を切ったように言葉が出る。
ファーマの顔を見られない。暴力を振るう様な父親たちに命じられたからということを差し引いても、見ず知らずの相手の世話を懸命にする子供に、お前は人に毒を飲ませていたんだと突き付けた。
案の定、ファーマは酷く動揺した。震え声で謝られて、アンハルは「ファーマは知らなかったんだから仕方ない。俺だって、本当はこんなこと言わなくていいのに言ったからお相子だ」とふざけたことを言った。
何がお相子だ。自分の虚勢に吐き気がする。それきりどちらも黙ってしまって、布と壁で仕切られた空間が重苦しい沈黙でいっぱいになる。
その空気に耐え兼ね、アンハルはファーマが摘んでいた丸薬を奪い取る。さっさとこれを飲んで横になろう。具合が悪くなっていっそ意識が朦朧としてくれればと思った。そうすれば、この自己嫌悪も罪悪感も少しは感じにくくなるだろう。
しかし、丸薬を口に含む前にファーマがアンハルの手を止めた。
「ムフタは毒飲みたいのか」
「そんなわけないだろ」
知らず語気がきつくなる。誰が好き好んで毒を飲むものか。けれど飲む以外の選択肢なんてないのだ。無力な子供でしかないアンハルは、ファーマの父親や誘拐の主犯格であろう若い男に逆らうことはできない。
「じゃあ止めよう。今だって具合悪いなら、飲まなくたって分からない」
それなのに、ファーマはあっさりそんなことを言う。更にはアンハルの手から毒を取り返して袋に戻してしまう。苦し紛れに「数を調べられたらばれるぞ」と言えば、飲まなかった分は隠すと言う。
「飲まなかった分は隠しとく。ムフタが帰ったらどっかに捨てる」
アンハルは唇を強く引き結ぶ。目元に力を込めて精一杯真面目そうな顔を作った。そうでもしないと、泣き出しかねないからだ。
「井戸とか川には捨てるなよ。人がバタバタ倒れるぞ」
ありがとう、と言うべきだと思った。言いたかった。しかし、礼を言ってもファーマは困るだけだろう。アンハルが嫌がっていたから止めた、ファーマにとってはそれくらいのことでしかないないだろうからだ。
アンハルではない自分。ムフタというただの子供の意志をファーマは尊重した。
後ろ盾となっている権威に従う訳ではない。将来の恩寵を期待しているのでもない。
アンハルがそれは嫌だと言ったから。
初めて他者と目が合ったと思った。
身分も立場もないただの子供でしかない自分を初めて受け入れられた気がした。