ファーマ 4
次に目が覚めて、最初に思ったのは「生きてる」だった。
全身が痛くて重くて指もまともに動かせないが、自分がまだ生きているということはわかった。
そのままぼんやりしていると、1人の大人が部屋に入ってきた。
少し前にも会った、ウラス先生だ。
ここは下町にある孤児院で、ファティマは2日間目を覚さなかったという。
「ひどい怪我だよ。君を見つけた時は生きてるのかわからなかった」
怪我の説明をされてもよくわからなかったが、ぼこぼこに殴られて左腕の骨が折れた、ということらしい。
「君、2日も起きなかったんだよ。一体何があったんだい?」
「親父を怒らせていつもより殴られて、殺されると思ったから逃げた」
なあ先生、と話しかける。
「オレ、家帰んなきゃだめか?」
「……それは、わからないな。君の怪我が良くなったら、詳しい事情を聞いて、他の先生とも話し合って決めるだろうね」
「そっか。オレ、孤児院入りたい。ここなら殴られないし、飯も食えるのに」
「……最大限、努力するよ」
外からウラス先生、と呼ぶ声がする。
「じゃあ私は行くね。後で食事を持ってくるから」
ムフタのことを聞きたくて、待って、と部屋を出ようとするウラス先生を呼び止める。
「オレが倒れてる前の夜に、子供いなかったか?」
「子供?」
「ムフタっていう名前で、髪が白っぽくて、眼は青くてこんな感じで」
指で目を吊り上げ、ムフタの目付きの真似をした。
「熱出てて、具合悪かった」
「……私は見てないな。他の人にも聞いてみよう。その子は、君が大怪我したのに関係してるのかい?」
「うん。親父と知らない人がうちに連れてきた。見張ってろって言われたんだけど、水汲みに言ってる間にいなくなったから親父に殴られた。金と交換って言ってたからいいところの坊ちゃんじゃないか」
「そうかあ……今はとにかく休んでね」
さっきよりも疲れた顔でウラス先生は部屋を出て行った。
もう一度寝る気にもならなくて窓の外を見ていると、何人かの子供がちらちらとファティマを見ていた。そんなことには構わず、庭で遊んでいる子供もいる。楽しそうだし孤児院には入りたいが、そこにいる自分が想像できなかった。
父親たちがファティマを探しているかもしれないということで、当面の間外出をしないよう言い渡された。 不都合もないので素直に頷く。元より外に用事もないし、腕の骨折や足の怪我でまともに出歩けないのだ。
怪我の治療のため、近所で病院を開いているという医者が何度か往診に来た。怪我の治りは順調で、コウイショウも残らないだろうという。言葉の意味はわからないが、とりあえずいいことのようだ。
最後の診察になる日の帰り際、医者は一枚の紙をファティマに渡した。セイキュウショといって、ファティマの怪我を直すのにどれくらいの金がかかったのかが書かれているらしい。治療費を払えということだ。
書かれた数字がどれくらいの金額を表すのか分からないが、決して安い額ではないことは理解できた。
「オレ、金持ってない」
以前から金銭などほとんど触った試しがないし、ムフタの面倒を見ていた駄賃も貰わず終いだった。本当に、貨幣の一枚もない。
医者は眉一つ動かさずに、将来働いて稼いだ金で返せと言う。こうしてファティマは齢8で借金を負った。
外に出られない間、ムフタや父親と一緒にいた男について聞かれ、ファティマが知っている限りのことを話した。
ウラス先生や他の大人が調べてくれた話では、家は鍵が空いたまま、もぬけの殻で父親が帰った様子はないらしい。
ファティマの行く先も決まった。少し離れた街の、こことは別の孤児院に入ることになった。
「ロバベフ孤児院という名前でね。私の知り合いがいるんだ。いいところだよ」
「勉強できる?」
「できるとも。というか、ファティマは今でも読み書きの練習してるじゃないか。手伝いも嫌がらないし、他の先生も感心しているよ」
呆れたように笑った後、ウラス先生は真剣な顔でファティマと視線を合わせ直す。
「ロバベフ孤児院に行っても、他のところへ行っても、君のお父さんがやったことや、ムフタという子のことを人に話してはいけないよ。約束できるかい?」
「うん、わかった」
そうして、ファティマは隊商の馬車に同乗して生まれ育った街を離れることになった。
◆
ロバベフ孤児院に来て半年が経った。今のところ、新しい生活は順調だ。
洗濯や掃除当番をさぼることもなく、悪さもしないファティマはすんなり受け入れられた。
しかし、未だに友人と呼べるような相手はできていない。どの子供とも付かず離れずで、誰かと特別仲がいい、悪いということがない。人間関係の薄さを大人たちは気にしていたが、当の本人はどこ吹く風といった様子だった。本を読んだり勉強したり昼寝をしたり、職員の買い出しを手伝うという名目で外に出て街の様子を見るのが楽しくて仕方がなかったのだ。
その日のロバベフ孤児院は、朝から騒がしく、浮足立っていた。
何かの祝日ということで、この街や周辺を治める領主の一族から誰かが訪れ、菓子を振る舞ったり音楽を聞かせてくれるらしい。
「去年はおくがたさまが来たの。すごくきれいで、大きな髪飾りとか沢山付けてた!」
「かっこよくて優しいお兄さんも来たことあったよ。また会いたいなあ」
「今年はごしそくさまの1人が来るんだって」
「ごしそくってなんだ?」
「確か子供って意味だろ」
「もらえる菓子ってどんなのだ?」
「ロクムっていう焼き菓子。甘くておいしいよ」
掃除中、子供同士で集まって話していたら職員の1人に見つかった。
「お前たち、さぼってないで手を動かしな!」
「うわ見つかった!」
「はーい」
「ウマーマ、リダー、ファティマ、ほれ窓を拭きな! 残りは庭の草むしりだ!」
支持を受け、子供たちはバラバラと散っていった。
「ねえファティマ、あんたそのままでごしそくさまに会うの?」
「うん」
ボロ布で作った雑巾で窓を拭いていると、隣の窓を拭いていたウマーマが話しかけてきた。
「せっかく髪が伸びてきたんだから、花でも飾りなさいよ。他の子はみんなやるのよ」
「めんどくさいからやだ」
「もう! ちょっとは女の子らしくすればいいのに!」
「ファティマに言ったって意味ねーよ。もっと髪が伸びたらかつら屋に売るって言ってるんだから」
リダーが笑う。
万が一父親に会ってもばれないようにと、ファティマはこの半年間髪を伸ばしていた。そのままだと邪魔っけなので紐で結んでいるが、大分違って見える……気がする。大人からは一人称を「わたし」にするようにとも言われているが、こちらの首尾は悪い。しょっちゅう「オレ」に戻る。
「とにかく、歓迎の準備が終わったら髪の毛梳かすわよ。そんなぼさぼさ頭は許しません」
◆
昼過ぎ、いつもより遅くなった昼食の片付け中にご子息様一行は到着した。
子供たちは洗い場に食器を運ぶと我先に玄関へと駆けていく。押し合いへし合いを壁際でやり過ごしたファティマが台所に入ると、食器洗い当番の子供が2人、半べそをかきながら食器を洗っていた。
「あっ、ファティマ!」
「お願い、食器洗い当番代わって! あたしたちも歓迎行きたい!」
「えー」
「おれのロクムあげるから!
「ならいいよ」
いつもなら監督役の大人に一喝される行いだが、今は歓迎に出て行った子供たちと一緒に外に行っている。ばれることはないだろう。多分。
「ありがとな!」
「あたしのロクムも半分あげるから!」
「やった!」
2人の子供はあっという間に出て行った。よほど楽しみだったのだろう。ファティマも菓子の取り分が増えて嬉しい。みんな嬉しいのはいいことだ。
食器を洗っていると、突然物凄い音が聞こえてきた。驚いて取り落としそうになった皿を慌てて持ち直す。楽隊の演奏が始まったようだ。低い、高い、長い、短い。色々な音が混ざり合っていて、聞いているだけでくらくらしてきた。厨房にいてよかった。外で聞いていたらひっくり返っていたかもしれない。
やがて演奏が終わり、子供たちの歓声がかすかに届く。菓子を配り始めたのだろう。洗っていない食器はまだ少し残っている。オレの菓子取っといてくれるかな、と少し不安になった。
早く食器洗いを終えて自分も外に行こう、と思っていたら、軽い足音が近づいてきた。
「いたいた、ロクム持ってきたぞ!」
背後から弾んだ声。約束通り、菓子をもらってきてくれたようだ。
「ありがとー。後で食べるからそこに置いといてくれ」
「ナッツ入りとフルーツ入りがあるぞ。どっちがいい?」
じゃあフルーツ、と答えてからあれ? と疑問を覚えた。誰の声だ?
食器洗い当番の2人ではない。というか、ロバベフ孤児院にこんな声のやつはいたか?
声の主を見ようと振り返る途中、真横に見知らぬ少年がいた。互いの視線がかち合うと、向こうが笑う。青い目がきらきら光って見えた。
「えっ、誰?」
断言できる。こんなやつ、ロバベフ孤児院で見たことない。