ファーマ 3
毒を飲まなくなったためか、翌朝はムフタの顔色が良かった。
息も苦しそうではないし、果物以外にスープも食べられた。
父が家を出た後、家の中を掃除しながらムフタと色々な話をした。
「フーマは普段何をしているんだ? ずっと家にいるのか?」
「いつもは売れるゴミとか鉄クズ探して、炊き出しがあれば飯もらいに行く。夜は大体家で寝てるけど、親父の機嫌が悪かったり、女連れ込んでるときは外に出されるから、外で暇つぶしてる」
「ああ、酒場とか言ってたのはそういうことか」
「うん。物陰にいるとばれないから、中の話聞いたりしてる」
踊り子がひらひらの服を着て踊っている姿を見たり、吟遊詩人の弾き語りを聞くのは好きだった。どちらもきらきらしていてとても綺麗だ。
「危なくはないのか?」
「見つかったら追い返されるくらいだから怪我したことはない」
精々水をぶっかけらる程度だ。
「あとはー、たまに孤児院で外で授業やってるときはこっそり聞いてる。中に入らなければ怒られないんだ」
「孤児院……」
「親のいない子供を育ててるところ。下町にあるんだ。いいよなー、飯あるし、読み書きも教えてくれるんだって」
いつも外から見る孤児院の様子を思い出して声が弾む。ウラス先生と出会ったのも孤児院の授業をこっそり聞いている時だった。何度か顔を合わせる内に、ファティマが読み書きや計算ができるようになりたいと知ったウラス先生は、一通りの文字を書いた紙をくれた。まだ文字は読めないが、書く練習はできる。ファティマの宝物だ。
「でも、オレは入れないんだ。親父が生きてるから」
「ファーマは孤児院に入りたいのか」
「入りたい。あそこなら勉強できるだろ。オレ、たくさん勉強して医者になるんだ」
「へえ」
「あと、調剤師と薬草摘みと狩人と料理人と針子と建築士になる」
「欲張り過ぎだろう。人生1回じゃ足りないぞ」
「でも医者になれば怪我しても治せるし、調剤師になれば病気になっても薬が作れる」
「確かにそうだけど、1人で全部できないだろ」
だから人間は国や街を作り、仕事を分けて助け合うんだという。ファティマにはよく分からなかった。勉強すればわかるようになるんだろうか。
「ムフタは色んなこと知っててすごいいな」
「そ、そんなことない。まだ勉強してないことばっかりだ。ファーマとだって、そんなに歳も違わないだろうし」
「オレ、自分の歳知らない。ムフタは何歳なんだ?」
「年齢を知らないのか? どうして?」
「数えてねーし」
そうか……とムフタは少し黙って、こうしよう、と言った。
「同じにしよう。俺は8歳だから、ファーマも8歳だ」
「おおー、オレ8歳か」
「誕生日はいつがいい?」
「なんだそれ」
「生まれた日のことだ。親族や知人を呼んで祝いの席を囲むんだ」
「よくわかんないし、それもムフタと同じでいい」
「それじゃつまらないだろ」
「じゃあ今日」
「適当だな。まあいいか」
あはは、とムフタが笑う。
「誕生日おめでとう、ファーマ」
その後、ムフタは本で読んだというボウケンタンの話してくれた。
「船を飲むこむくらい大きな魚か。腹いっぱい食えるな」
「どうやって仕留めるんだ」
知らない話が聞けて面白い。ファティマはとても楽しかった。ムフタも笑っていたから、楽しかったのかもしれない。
ムフタは他にも色々な話を知っていた。何度も読んだから覚えてしまったという。
「いいなあ。オレも字が読めれば本を読めるのに」
「俺だって最初は他の奴に呼んでもらってたんだ。今度は俺がファーマに読んでやるよ」
そんなことが本当に起きるわけがないと分かっていた。それでも、そうなったらいいなと思った。
◆
「チビちゃん、おーい。チビちゃーん」
体を揺すられて目を開ける。数日前、父と一緒にいた若い男がファティマを上から覗き込んでいた。
反射的に丸くなり、頭と腹を守る。昼食の後、うっかり寝てしまった。きっと殴られる。
そう思ったのだが、若い男はけらけら笑って、そんなことしねーよ、と言った。
少し経っても何もされないので、おそるおそる顔を上げる。本当に殴らないらしい。
「横並びで午睡とか微笑ましくて結構結構。すっかり仲良しさんだな!」
ファティマには男の言っていることがよく分からないが、悪いことを言っているようには感じられない。しかし、隣のムフタは険しい顔だ。
「怖い顔だなあ。ボク、体調どうだ? 飯食えてるか?」
「触るな!」
忌々しいと言わんばかりにムフタは頭を撫でる男の手を振り払う。
「おっ、元気」
男は楽し気に叩かれた手を振り、ムフタは噛み付きそうな顔で男を睨む。ファティマ両方にハラハラした。
「チビちゃん、薬の袋貸して」
水を向けられ、ファティマは内心で冷汗を滝のように流しながら毒の入った袋を渡す。男は中身を手の平に開け、残数を数えて頷いた。
「うん、ばっちり。ちゃんとお薬飲めて偉いな、ボク」
「たわ言を……!」
ムフタが信じられないほど低い声で唸る。ファティマは驚いて肩が跳ねたが、男はどこ吹く風といった様子だ。
「チビちゃん、お世話ありがとな! 駄賃弾むから期待しててくれよ」
「お、おう……」
こんなに親しげに接してくる奴はいなかったから、男の朗らかさにどう返すか困る。
そういえば、ムフタの世話をちゃんとできればお駄賃をやる、というようなことを言われていた。多少の金を貰っても、どうせ父親に取られるのが分かりきっているから嬉しさはない。
「チビちゃん、なんか困ったことあるか? ボクの食い物足りてる?」
「ムフタは具合が悪くてあんまり飯が食えてない。果物なら食べられるから、持ってきてほしい」
「オッケー、任せとけ!」
男とファティマのやり取りを聞いていたムフタが、「お前、何しに来た」と口を挟んだ。
「ボクにお知らせ。もうじきお家に帰れるかもしれないぜ」
それを言うと、男はあっさり家から出ていった。風みたいな男だ。洗濯物を飛ばしたり、砂埃を巻き上げるはた迷惑な風。出入り口の方を見たまま、ぽかんと口を開けていたファティマだが、男が大事なことを言っていたことに気づいてムフタを見る。
「もうじき帰れるって。よかったな」
しかし、当の本人は浮かない顔のままだ。
「……嬉しくないのか?」
「あいつが本当のことを言っている保証なんてない」
ムフタは苦々しく言い捨て、ファティマは首をかしげて聞いた。
「ほしょうってなんだ?」
「あいつが言ってたことが本当だって分かる証拠がないっていうか……えっとな、証拠はわかるか? 例えば……ええと、例えばだな……」
それから、ムフタは保証について懸命にわかりやすく教えてくれた。
◆
翌日、ムフタの体調がまた悪くなった。
高熱が出て、ほとんど意識がない。当然食事など食べられず、朝から水しか飲んでいない。
毒を飲んでいた時は、辛そうだったが熱は出ていなかった。原因は別にあると思うのだが、ファティマにはどうすることもできなかった。
拭いても拭いても噴き出す汗を拭い、ムフタが目を開けるたびに水を飲ませる。
眠りに落ちたムフタがそれきり起きなかったらという不安を抱えて付きっきりで拙い看病をしていたら、いつの間にか夜になっていた。
「……ファーマ」
手を引かれて目を開ける。いつの間にかファティマまで寝てしまっていた。父親は帰ってまたすぐに出かけて2人きりだった。灯りがなく暗い家の中で、ムフタの苦しそうな息が耳にはっきりと聞こえる。
「どうした。どこか痛いか」
「大丈夫だ、痛くはない……水、貰えるか」
手探りで掴んだ水入れは空だった。待ってろ、と言って台所の水瓶のところへ行くが、こちらもほとんど中身がない。ムフタに飲ませたり、体を拭くためにいつもより沢山の水を使ったためだ。桶一杯分だけでも汲んできた方がいいだろう。
残っていた水をムフタに飲ませ、ファティマは桶を持って井戸へ向かった。熱のせいで心細くなっているのか、ムフタはファティマが側を離れることを嫌がった。1人にしておくのが可哀想で、ファティマは水を入れた桶を両手で持ち上げ家路を急いだ。
ドアを開けるのももどかしく、飛び込むように家に入る。外より一層暗い部屋の中に、父親が立っていた。
「おい」
どすの効いた声。明らかに機嫌が悪い。足が竦み、腹の奥が冷たくなった。
「ガキはどこ行った」
ムフタのことだろうか。奥の部屋で寝ている筈だが、何を言っても殴られるという確信と恐怖に、ファティマは何も言えなかった。
黙ったまま突っ立っていると、近づいてきた父親にて思い切り顔を殴られた。
「あのガキはどこだって言ってんだよ!」
ファティマは吹き飛ぶように横に転がり、落とした桶から溢れた水で周囲が水浸しになった。
父親はファティマの髪を掴むと泥水に顔を押し付ける。息ができない苦しさに、両手脚を振り回して暴れた。
「何してたんだテメエはよお!」
父親はファティマの髪を掴んだまま床を引きずり、奥の部屋に投げ込んだ。
外からムフタを隠していた布の向こうには誰もいない。ムフタの足に結ばれていた縄は途中で切れて床に落ちていた。
逃げた? どうやって縄を切ったのか。あんなに熱が出ていたのに動けたのか。
疑問がいくつも湧き上がるが、父親に腹を蹴って踏み付けられて全て消し飛んだ。
息ができなくて苦しい。殴られた顔が、足蹴にされる腹が、全身が痛い。
「何で見張ってねえんだグズ! 役立たずのクソガキが! 上手く行ってたのにてめえのせいで全部パアだ! 畜生!」
何度も何度も蹴り回され、段々と痛みが鈍く、薄くなっていく気がした。
「他の奴らに何て言えばいいんだ!? 答えろよおい! おいっつってんだろうがァ!」
頭の片隅でこの状況を他人事のように見る自分が、ほらな、と言った。オレの名前なんて、親父にとってはどうだっていいんだ。オレを名前で読んだのはほんの少しの人だけだった。
今日の暴力は今までの中でも一際容赦がない。文字通りに命の危険を感じた。
これで死んだら、と思った。
これで死ぬなら、どうせなら、最初からファティマって言えばよかった。
父親は奇声を上げながらファティマの足首を掴んでその体を壁に叩きつける。呻き声も上げずに床に落ちた子供を最後に蹴り上げ、父親はチクショウ、チクショウ、と繰り返し肩を怒らせて家を出て行った。
ふと目が開いた。気絶していたらしい。周囲が暗いから、まだ夜だ。
父親はまだ帰ってきていないが、次に顔を合わせたら間違いなく殺される。逃げよう、と思った。
起き上がろうと腕を動かしたら、とんでもない激痛に悲鳴を上げた。今まで経験したことのない痛みだ。
ぜいぜいと喘ぎながらどうにか起き上がり、激痛を発する左腕をぶら下げて家を出た。幾らも歩かないうちに足が動かなくなって膝をつく。しばらくは這いずるように進んでいたが、そのうち意識を失った。