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ファーマとムフタ  作者: 由遥
2/7

ファーマ 2

 「朝飯できたぞ、坊ちゃん」

 スープの入った容器を受け取りながら、少年は顔を顰める。

 「坊ちゃんてなんだ」

 「いいところの坊ちゃんなんだろ。知らんけど」

 「だからって坊ちゃんはないだろ。馬鹿にしてるのか」

 「嫌ならなんて呼べばいいんだ? ルゥルアとか?」

 匙でスープを掻き混ぜる少年は、はっきりと嫌そうな顔になった。

 「おいやめろ。祖父みたいなこと言うな」

 「……そふって何だ? 聞いたことない」

 「親の親。俺の場合は父親の父親」

 「ルゥルアは?」

 「真珠」

 「しんじゅってなんだ?」

 「貝が作る丸い宝石。だいたい白だけど、黒いやつもある。意味は知らないのに言葉は知ってるんだな」

 「酒場の客が踊り子を呼ぶ時に使ってた」

 「その時点で男に使う言葉じゃないって気づけ。……ムフタだ」

 「ムフタ?」

 「俺のことはムフタでいい。で、お前の名前は? 俺にだけ名乗らせるってことはないよな」

 「ファ……マ」

 ファティマ、と言おうとして躊躇った。もし父親の誘拐や、それに加担していることが明るみに出た際への幼稚な保身だった。

 「ファーマ? お前の方が女みたいな名前だな」

 妙な間を疑問には思わなかったらしい。顔には出さないが安心した。

 「ほっとけ。どうせ呼ばれないんだから男も女も関係ねーよ」

 「どうしてだ? 名前は呼んだり呼ばれるためのものだろ」

 「昨日から親父がオレの名前呼んだことあったか? 「おい」って言えば通じるんだよ」

 どうして自分の名前がファティマだと知っているのか不思議なくらいだ。昔は呼ばれていたのかもしれないが記憶にない。

 少年はそうか、とだけ言い、昨日と同じようにスープを掬った匙を差し出す。今日もなぜだか食事を分けてくれるらしい。

 匙を出されるままに、自分で作ったスープを食べる。言い合う間に冷めていたが、それでも美味しい。

 半分近くをファティマに食べさせて、ようやく少年も口を付けた。おこぼれを貰っている身としてはありがたいが、食事の量は足りるのだろうか。

 「……ムフタ」

 ちぎって渡されるパンを食べる合間に名前を呼んでみる。反応があるか分からなかったが、すぐに「なんだ」と声が返った。

 「お前の飯、オレにも食わしてるけど足りてるのか?」

 ファティマやムフタくらいの子供はそだちざかりというらしく、食べても食べても腹が空くという。実際、ファティマもいつも腹を空かせていた。

 子供が一度に食べる量が分からないから、自分が食べられたら嬉しい量を作っていたが、少ないのか多いのか分からない。

 「毒なんて入れてないから、オレに食わせなくてもいいぞ。もらえるのは嬉しいけど」

 ムフタは少し食事の手を止めたが、はあ、と息を吐く。

 「……いつもより食べる量は少ないが、体調……体の具合が悪いだけだ。残して捨てるのも勿体ないから、お前にも食べさせてる。気にするな」

 「ふーん。早く治るといいな」

 「そうだな」

 「だからちゃんと薬飲め。昨日の夜も飲まなかっただろ」

 ムフタはそっぽを向いたが、結局は薬を飲んだ。


 特に何もない午前を過ごし、昼食の後、ファティマは水を汲みに外に出た。

 昨晩、父親に家から放り出された際、甕いっぱいに水を汲んでおいたのだが、洗濯や水浴びをしたので使い切ってしまったのだ。

 ムフタはまた一人にしてくれと言っていたから、休んでいるんだろう。父親と一緒にいた若い男が言っていた、体が弱いというのは本当らしい。

 彼はいつまでいるんだろうか。早く自分の家に帰ることができればいいと思う。ファティマの家、ファティマの作る食事では元気になれないだろうし。医者とかよく効く薬とか、そういうものが必要だ。

 それでも、ムフタを逃がそうとは思えなかった。できないのではない。やろうと思えばきっとできる。父親がいない時に、刃物でムフタの足に結ばれた縄を切って、憲兵の詰め所辺りにでも連れて行けばいい。良いところの子供なら、進んで助けてもらえるだろう。

 しかし、そうなったらファティマが困る。多分父親に殺される。それか、父親に殺されるくらい殴られた後、あの若い男に殺される。

 「こんにちは、ファティマ」

 家と井戸を何往復かしていたら、知り合いに声をかけられた。下町の孤児院で働く、ウラス先生と呼ばれる大人だ。

 「こんにちは、先生」

 「最近見かけないから気になってたんだ。生活はどうかな」

 「今までと変わんないよ」

 「頬が赤いけど」

 「昨日親父に叩かれた」

 ウラス先生は自分が叩かれたような顔をした。

 「他に怪我は? 痛いところはない?」

 「大丈夫。寝てれば大体治る」

 「……そうか。食事は摂れているかい? 向こうで炊き出しをやっているから食べておいで」

 「んー、今はいいや」

 いつもなら一も二もなく頷くが、今は食事を分けてもらっているからあまり空腹ではない。それに、ムフタを長時間一人にしておけない。

 「そう? 遠慮しなくていいんだよ」

 「遠慮なんかしないって、ちょっと用事があるだけ。またなー、先生」

 水を入れた桶を持ち直し、ファティマはウラス先生と別れて家路を辿った。


 家に着きムフタの様子を見に行くと、彼のぐったりと横倒れになっていた。眠っているのかと思ったが、ファティマに気づいたのかこちらを向く。眉がきつく寄っていて、苦しそうな表情だった。

 「具合悪いのか」

 「……悪いけど、平気だ。大したことない」

 そうは言うが、瞼は今にも閉じそうだし声にも力がない。

 「どうしよう……もう一個薬飲むか?」

 「要らない」

 「ええ……でも苦しそうじゃん」

 「寝てれば……治る……」

 隙間風のような細い呼吸にファティマは慌てる。病人の面倒なんて見たことがない。こういう時はどうすればいいのだろう。

 「えーとえーと、何か食べるか? 水飲む?」

 水、と息の合間にムフタが言ったので、ファティマは家で一番大きい器に水を入れて渡す。水を飲んだムフタの表情が和らいだので、ファティマは胸を撫で下ろした。


 食欲がないと言っていたムフタだが、本格的に具合が悪くなり、夜にはまともに食事ができなくなった。

 パンはおろかスープも喉を通らない。細かく切った果物を少量口にした程度だ。

 ムフタが食べなかった料理は仕事から帰ってきた父親が嬉々として平らげた。上機嫌で眠りに就いて、今は隣室から轟くような鼾が聞こえる。

 「ファーマ、お前……覚えてろよ」

 横になったムフタがファティマを睨み上げた。口をこじ開けて無理矢理薬を飲ませたから怒っているのだが、具合が悪いのに薬を嫌がるなんてどうかしている。食事ができないくらい体調が悪いのに、青い目からは力が失せないのはすごいと思う。

 「いいから寝てろよ。薬飲んでも治らないぞ」

 枕元に水を入れた容器を置き、ファティマは布の向こうに移動した。

 「ここにいるから。水なくなったりなんかあったら呼べ」

 「わかった……」

 それからすぐに、ムフタの寝息が聞こえてきた。

 暗い部屋の中に座って、父親の鼾とムフタの寝息を聞きながらぼんやり思う。

 早くムフタが帰れればいいのに。

 


 窓から差し込む光で目が覚めた。眩しくて横を向くと、近くに寝ているムフタの顔がある。

 「……んん? ……あー、そうだ」 

 思い出してきた。昨晩、切れ切れに目を覚ますムフタが度々「ファーマ、いるか?」と聞いてくるので、布の内側に移動したのだ。これならムフタはファティマが近くにいると分かるし、ファティマもムフタに何かあればすぐわかる。と考えたのだが、いつの間にか寝てしまったらしい。 

 起き上がる時、服が引っ張られた。何かと思ったら、ムフタが服の裾を掴んでいた。軽く引っ張って裾を引き抜く。ムフタが寝ている間に水汲みを終わらせてしまおう。ごおごおと鼾をかく父親の隣を音を立てないように通り抜け、ファティマは桶を持って外に出た。

 

 水汲みを終えて家に戻ると、甘い香りが屋内に漂っていた。父親が食べている果物からだ。

 「それ……」

 父親が食べているのは、ムフタの食料として運ばれた果物だと見た目でわかった。

 昨日のパンに続いて、今日は果物。ムフタが家に帰る前に食料が尽きたらどうするつもりなのか。ただでさえ今のムフタは具合が悪いのに。

 そんな非難の気持ちが伝わったのか、単にファティマの目つきが気にくわなかったのか、父親は不快気に顔を歪め、ファティマを殴りつけた。

 「お前もあのガキの飯食ってただろうが」、「テメエの食い扶持も稼げないガキが偉ぶるんじゃねえ」と、拳や足と一緒に罵倒が降ってくる。

 丸くなって頭と腹を庇いながら父親の暴力を耐える。その内に飽きたのか、一際強い蹴りを入れて父親は足音荒く家を出て行った。

 ドアが閉まる音がしてしばらく経って、父親が本当に出かけて行ったと分かってから起き上がる。体中が重くて、外側も内側も痛かった。口の中が血の味でいっぱいで気持ち悪くて、外に出てうがいをする。水がしみてびりびり痛い。吐き出した水は薄赤かった。

 ついでに顔を洗っていると、「ファーマ」と声がする。

 窓枠に飛び付いて部屋の中を覗き込むと。ムフタが腕をついて体を起こそうとしていた。

 「ムフタ、起きたのか。具合悪いのか?」

 「体調は大丈夫だ……ファーマはどこにいるんだ?」

 「外。今そっち行く」

 奥の部屋でムフタと顔を合わせると、彼は目を見開いて固まった。

 「酷い怪我だ。父親にやられたのか」

 「うん。でもそのうち治る。それより、飯食えるか?」

 「今はいい……多分、食べたら吐く」

 「じゃあ止めたほうがいいな。もったいない」

 薬を飲ませようとしたら、こちらも拒否された。また無理矢理飲ませるのかと思ったが、「あの薬、食後に飲まないと逆に体に悪いんだ」と説明され、ファティマは薬の入った巾着袋を戻す。

 

 昼時になると流石に空腹が勝ったようで、ムフタは果物が食べたいと言った。

 食事ができるのは良いことだが、果物があとひとつしかないのが心配だった。このままだと、ムフタが食べられるものがなくなってしまう。

 そうなったらどうしよう、市場に行っても金がないから調達できない、と考えながら果物を切っていたら、「ファーマも何か食べろ」と言われた。

 「でもこれ、お前の食べ物だろ」

 「その俺が食べろって言ってるんだ。お前、俺が食べさせた分以外食べてるところを見てないぞ。腹空いてないのか」

 「腹は空いてるけど」

 「それなら食べろ。俺が食べなかったら、腐って捨てるかお前の父親の腹に入るかだ。それよりファーマが食べた方がいい」

 ムフタは最後に「お前が空腹で動けなくなったら俺が困る」と付け足した。確かにムフタの言う通りだ。父親にムフタの世話をするのは無理だろう。腹が立ったからうっかり殴って殺してしまった、なんてこともあり得る。ファティマもムフタに死んでほしくはないので、食料を入れた袋の中から目についたパンを取り出した。

 奥の部屋に果物を運んで、2人で昼食を食べる。体調が悪くても、ムフタはファティマに食事を分けた。

 「ムフタ、全然具合よくならないな。この薬作った医者、ヤブなんじゃないのか」

 先に食べ終わったファティマは、ムフタに飲ませている丸い薬をつまんで眺める。何日も薬を飲んでいるのに、ムフタの具合は一向に良くならない。

 果物の最後の一切れを咀嚼していたムフタは、時間をかけてそれを飲みこむとぼそりと呟いた。

 「……それは薬じゃない」

 ファティマは首を傾げて、向かいに座る少年を見た。難しい顔をしていて、何を考えているか分からない。

 「でも、ムフタは体が弱いんだろ? だから薬を飲ませろって言われたぞ」

 「俺の体は丈夫だ。風邪だって滅多に引いたことない」

 え、とファティマは薬だと思っていた物に視線を戻す。

 「じゃあこれ、何なんだ?」

 「毒だ」

 「毒って……なんでお前に毒を飲ませるんだ? 金と交換するんだから、死んだら困るだろ」

 「死ぬほど強い毒じゃない。今の俺みたいに、体調が悪くなって動けなくなるくらいだ。うっかり逃げ出さないように弱らせときたいんだろう」

 そんなものがあるのかと驚いた。ファティマにとっての毒は、飲んだら死に直結するもの、というイメージだったからだ。

 「オレ、今までお前に毒飲ませてたのか」

 具合が悪くなるのも当然だ。一向に調子が戻らないのも当然だ。だって毒なのだから。

 ムフタに薬と思っていた物を飲ませた時の記憶が蘇る。

 そうだ、ムフタはいつだって薬を飲みたがらなかった。昨日なんて、1人で起き上がることもできなかったのに必死に身を捩って口を閉ざして嫌がっていた。そんなムフタの口を無理に開けさせて、ファティマは毒を飲ませていたのだ。

 「ごめん、ムフタ。ごめん」

 ファティマはムフタのことが嫌いではない。父親のように嫌なことを言ってこないし、食事を分けてくれるし、怪我をしていれば気にしてくれる。話している時に知らない言葉があれば教えてくれる。ウラス先生みたいで、少し好きだった。そんなムフタに毒を飲ませていたという事実は、ファティマの胸でじくじくとした痛みになる。ふわふわのパンを食べた嬉しさは跡形もなく消えてしまった。

 「ファーマは知らなかったんだから仕方ない。俺だって、本当はこんなこと言わなくていいのに言ったからお相子だ」

 食事を終えたムフタがファティマの手から毒の粒を取る。迷いなく口元へ向かう手を、咄嗟にファティマは掴んでいた。

 「……それ、毒なんだろ」

 「まあ、そうだな」

 「飲んだらもっと具合悪くなる。昨日だってすごく苦しそうだったのに」

 「死ぬわけじゃない。知ってるだろ、あいつらは俺を金と交換したいんだ」

 「ムフタは毒飲みたいのか?」

 「そんな訳ないだろ」

 「じゃあ止めよう。今だって具合悪いなら、飲まなくたって分からない」

 ムフタの手首を掴む手とは逆の手で、ファティマは毒を取り返して袋に戻す。

 「……数を調べられたらばれるぞ」

 「飲まなかった分は隠しとく。ムフタが帰ったらどっかに捨てる」

 ムフタは長いこと黙っていたが、やがて「井戸とか川には捨てるなよ。人がバタバタ倒れるぞ」と言った。 


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