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「ぐえ」とか「ぎゃあ」みたいな音が自分の口から出て目を覚ます。
肩の辺りが痛いが、寸前まで眠っていたファティマの意識はそれ以上のことがわからない。
「起きろっつってんだ」
振ってくる声と脇腹の痛み」。のろのろと顔を上げると意識もはっきりしてきた。どうやら父に叩き起こされたらしいと知る。辺りは暗い。まだ夜だ。家の外は静かだから、周囲の住人も寝静まっているんだろう。
暗い部屋の中で父を見上げた。肩に何か担いでいる。新しい家具か毛布でも拾って来たのだろうか。
担がれていたものが降ろされる。袋のようだ。中から人間が出てきた。子供だ。暗くてよく見えないが、それくらいは分かった。
拾った、預かった、とも考えたが、子供に睨まれてそうではないと悟った。第一、普通は子供を袋に入れて運んだりしない。
人攫いだ。良いとこの子供を誘拐。一人でやったのか、誘われて手を貸しているのか。どうあっても、犯罪に加担しているのは間違いない。
「こいつ見張ってろ」
黙ったままのファティマはまだ寝ぼけていると思われたのか、頭を殴られた。
わかったと言って頷けば、父親は背を向けて隣の部屋へ行った。ごそごそと物音がする。寝るんだろう。
外に出ていればよかったな、と思った。これでは、ファティマも犯罪者の仲間入りだ。セケンはゼンカモチに厳しいというのに。
「……」
ファティマは誘拐された子供を見た。口は開かない。話すこともないし、声を出せば父にうるさいと殴られる。
相手も無言でファティマを睨み続けていた。怒りがひしひしと伝わってくる。怖いやら自分だって訳が分からないやらで、ファティマは身を縮めて相手を見返した。
翌朝、蹴り転がされて目が覚めた。子供を見張っていたらいつの間にか寝ていたようだ。役立たず、次やったら殺すなどと言いながら父親は家を出て行った。
急に目を覚ましたせいでばくんばくんと音を立てる心臓を撫でて落ち着かせながら起き上がる。誘拐された子供も起きていて、じっとファティマを見ている。同い年くらいの少年だ。白っぽい短髪と青い瞳。薄汚れているが、いい環境で育ったと分かる。何というか頭が良さそうな顔つきだった。
子供の足には縄が付いていて、その先柱に結ばれていることに気付く。逃げ出さないようにしているのだろう。
腹が減ったので食べ物を漁ると、古いパンが出てきた。子供に食べるか聞いたら要らないと首を横に振った。
「……水」
パンを食べようとしたら、相手が口を開いてぼそりと呟いた。
「水? ああ、水欲しいのか」
子供は頷いた。攫われてきて一晩。確かに喉が渇くだろう。
粗末な台所に置いてある水瓶の中は空っぽだった。昨日の夜の時点で残り少なかった。多分、今朝方に父親が飲んでしまったのだろう。
「水無いから汲んでくる」
子供にそう言い、ファティマは水汲み用の桶を片手に家を出た。見張っていろと言われたが、これは仕方ないと自分に言い聞かせる。水がないと困るのだ。
ファティマの家は貧困街の隅に建つぼろ家だ。周囲に住む人間もは少ないし、関わり合うことも殆んどない。だから子供の隠し場所に選ばれたのかもしれない。
仕事に向かう男や遊びに出る子供たちに交じり、固いパンを齧りながら歩く。いつもなら日銭稼ぎに行くが、今日はあの子供を見張れと言われた。家に戻らないとだめだろう。
まだ太陽の位置は高くないが、日差しは熱を持っている。今日も暑い一日になりそうだ。
◆
昼頃、父親が家に戻ってきた。日雇いの仕事に行ったと思っていたが違ったようだ。知らない若い男が一緒にいる。
ファティマはできるだけ彼らの視界に入らないよう部屋の隅に退いた。
若い男は足を繋がれた少年を見て満足そうに頷いた。
「今のところは周りにもばれてなさそうだし、いいんじゃないか。このまま頼む」
「へえ。わかりました」
軽い調子の男とは反対に、父親はへこへことした態度だ。ファティマへの態度とは天地ほどの差があるが、大人なんてそんなものだと知っている。子供など自分より弱い相手には徹底的に横暴で身勝手でも、自分より上の相手にはすぐへりくだる。
「で、これ食料ね。チビちゃん、こっち来て」
他人事で父親と男の話を聞き流していたら、急に手招きされてファティマの肩が跳ねた。びくびくしながら近づくと、男はしゃがんでファティマと視線を合わせた。
「そこにいる男の子、ちょーっと事情があってこの家にお邪魔してるんだ」
足を繋がれて見張りを付けられる事情とは何だろうか。口に出さずに思う。
「しばらくの間、食事とかの面倒を見てあげてくれないか。上手くできたら駄賃をやろう」
特に考えずファティマは頷いた。この男が父親より立場が上なら断れない。もし嫌だと言っても殴られて終わりだ。わざわざ痛い思いはしたくない。
「よしよし、助かるなあ。食料はここに入ってるから好きに使っていいぞ」
男は持っていた布袋の中身を見せる。傷んでいない野菜や果物、パン、燻製肉がどっさり入っていた。貧困街では値が張るものばかりで、ファティマにとっては見ることしかなかった食べ物だ。
「できるだけ食べやすいものにしてやってくれ」
袋の中から目を離せなかったファティマは、男の声で何とか視線を引きはがす。
「……食べやすいもの?」
「煮込みとかスープとか、野菜や肉が柔らかいと飲みこみやすいし消化にもいいんだ」
言っている意味はよく分からなかったが、食材を柔らかくなるように料理すればいいということらしい。
「じゃあ早速昼飯作ってあげて。その子、昨日の夜から何も食べてないんだ」
はい、と袋を差し出されて思わず仰け反った。パンの甘い匂いが腹を鳴らせる。この男は、ファティマがパンや果物をちょろまかすと思わないのだろうか。
しかし、いつまでもこうしてはいられない。ファティマはずっしりと重たい布袋を受け取り、台所へ向かった。
言われた通りにスープを作ろう。料理なんて対してできないが、食材を切って水で煮るくらいはできる。ファティマは布袋から燻製肉と適当な野菜を取り出した。
調理中、布袋の中のパンをちらちらと見ていたら、男がこちらを見ていたのに気づいて慌ててスープを煮込む鍋に向き直る。優しそうな顔だけどやっぱりあいつは怖い奴だ、と思った。
スープとパンを持って少年たちのいる部屋に戻ると、部屋の半分くらいが大きな布で遮られていた。少年を隠しているつもりだろうか。
「おっ、ありがとうなチビちゃん。ほらお食事ですよ~」
男はファティマから食事を受け取って少年の前に置くが、少年は男を睨むとそっぽを向いた。
父親がスープの入った容器を凝視している。食べたいのだろう。気持ちはよく分かる。
「食べないの?」
「……知らん奴から出された食事を食べられるか」
初めて少年の声を聞いた。空腹らしいのに、声には力が入っていた。
「でも食べないと体が保たないよ。いつ家に帰れるかもわからないのに、水だけで耐えるつもりかい?」
「……」
顔を背けたまま少年の目と目の間、鼻筋の上に皺が寄った。
「強情さんめ。こっちもあんまり弱られると困るんだけどなあ」
困っていない様子で男が言う。ファティマは困っている。少年が反抗的なので父親の機嫌が悪くなっているのが分かるからだ。
「しょうがないなー、チビちゃんおいで」
呼ばれるまま近づいたファティマに男は匙に掬ったスープを差し出した。
「はいあーん、口開けて」
「?」
疑問に思いながらもファティマは口を開ける。男はそこに匙を差し込んでファティマにスープを食べさせた。冷ましてあったので熱い思いをすることもない。
「どう?」
「おいしい」
いつ父親が癇癪を起すかとはらはらしていた気持ちを忘れてファティマは目をいっぱいに開いて口を抑えた。食材を切って煮ただけなのに、肉、野菜、塩の味が混ざり合って信じられないくらい美味しい。材料が良いということもあるのだろう。
「そりゃよかったな。ほら口開けて」
男はそのままスープを数回と、パンを少しちぎってファティマに食べさせた。
「ほら、美味そうだろ」
思いがけない役得に緩み切った顔をするファティマを指して男は少年に食事を摂らせようとするが、少年は頑なに食事に手をつけようとしない。
男はしばらく待ったが、根負けしたのか立ち上がると父親とファティマを連れて奥の部屋を出る。
「じゃあちびちゃん、俺等は行くけど、あの子のお世話よろしくな」
頷いたファティマに、男は手の平に乗る大きさの巾着袋を差し出す。
「あの子は体が弱くてな。毎回食後にこの薬を飲ませてやってくれ。食事に混ぜてもいいから」
ファティマはもう一度頷き、男から巾着袋を受け取った。
「じゃあな……行くぞ」
ちゃんと飯食うか見ててくれよ、と言い置き、男は父親を連れて出ていった。
奥の部屋に戻っても、少年はまだ食事に手を付けていない。
「どうして食べないんだ?」
「毒が入ってるかもしれない飯を食えるか」
「薬を用意したのに、わざわざ毒飲ませないだろ」
「……薬?」
うん、と頷き、ファティマは男から渡された小さな巾着袋を見せた。
「食後に飲ませろって言われた」
「薬……ふうん。薬か」
ハッ、と少年は短く息を吐く。笑ったように見えた。
「確かに、それなら食事に毒なんて入れる必要はないな」
そう言うと、少年はやっと食事に手を伸ばす。結局、少年は鍋に残っていたスープも食べきった。ずっと食事をしていなかったから空腹だったのだろう。
丸薬を渡す時、受け取る少年の手が震えていた。薬は苦くてまずいものと聞くし、飲みたくないのかもしれない。しっかり者に見えるのに、意外と年相応のところもあるようだ。
薬を飲んだ後、少年は「一人にしてくれ」と言った。
「でも、見張ってろって言われた」
親父や男の言いつけを破れば多分殴られる。ファティマはそれが嫌だった。
「家の外に出ろっていうんじゃない。布の向こうに行っててほしいんだ。一人になって、落ち着いて休みたい……それに、」
少年は彼の足首に結ばれた縄を手にとって引いた。
「俺の力じゃ縄を解いたり切ったりできない。どうせ逃げられやしないだろ」
頼む、と少年は言う。ファティマは少し悩んだが頷いた。少年が使った食器を持って部屋を出る。
食器を片付けると、父親から隠している紙切れを取り出した。知り合いが文字を書いてくれたものだ。読めないけれども。表で適当な石を拾って、土間で紙を見ながら字の練習をする。
時々、布を捲って少年がいるか確認した。横になっていて、眠っているようだった。休みたいというのは本当だったらしい。
夜、少年の食事中に帰ってきた父親がファティマを張り倒した。よくわからないが機嫌が悪いようだ。
何か言っているが、小声なので聞き取れない。仕事で鬱憤が溜まっているのだろうか。
これで終われば楽だったのだが、父親は倒れたままのファティマに水瓶をひっくり返して中味をぶち撒け、水がもうないから汲んでこいと言って外に放り出した。
家のドアが閉められると、ファティマゆっくり体を起こす。張られた頬が火傷した時のように痛い。濡れた服や髪にこびりつく泥を払い落して歩き出す。
水を汲んで帰ってくると、父親はすでに鼾を立てていた。できるだけ音を立てないように瓶に水を移し、奥の部屋へ移動する。
少年は寝ているだろうかと布を捲くると、暗がりの中で青い目と視線がかち合った。
驚いて、うわ、と声を漏らした口を手で塞ぐ。隣室に耳をそばだてるが、父親が起き出す気配はない。
「……大丈夫か」
「何が?」
小声の問いかけに首を傾げる。
「さっき、父親に殴られてただろ」
「平気。寝てれば治る。あ、でもお前を見張るから寝れないか」
「逃げないで寝てるから、お前も寝ろ」
「うーん……あっ」
「どうした」
「お前、夕飯の後の薬飲んでないだろ」
「飲んだ。寝ろ。早く寝ろ」
◆
翌朝、少年につつかれて目が覚めた。
家の外も静かで、朝早い時間のようだ。
「これで殴られないだろ」
昨日、少年を見張っている内に寝てしまって父親に蹴られたことを覚えていたらしい。
「ありがとう」
起き出した父親に汚いなりで家に上がるな、ついでに服を洗えと蹴り出された。ファティマは家の裏で水を被って泥を落として服を着替える。体中に消えかけや新しい痣があちこちにあり、変な模様を付けたみたいだった。
服を洗う間に父親は仕事に出て行った。会話はなかったが、昨晩とは反対に機嫌が良さそうだった。
洗濯物を干し、不揃いな毛先から雫を落としながら家に入る。少年の食事を作ろうと布袋を開くと、明らかに食料が目減りしていた。分かる範囲でも、燻製肉やいくつかのパンがなくなっている。どういうことかと布袋の中を見つめていると、「何かあったか」と少年が布の下から頭を出した。
「食い物が減ってる」
ハッと気づいて「オレは盗ってない」と付け加えるが、少年は知ってる、と頷いた。
「やったのはお前の父親だ。さっき見た」
「親父か」
昨日も少年の昼食を穴が空きそうなくらい見ていたし、多少くすねてもばれないと思っているのかもしれない。
「ばれたらどうすんだか」
あの若い男は何だか怖い。父親より偉いようだし、もし少年の食べ物に手を出したと知られたらただでは済まない気がする。
「ところで、何でお前は髪とか服とか濡れてるんだ。雨は降ってないだろ」
泥が汚いって言われたから洗った、と答えると、少年は何とも言えない顔をした。怒っているような、悲しんでいるような。どうしたんだろうと思って、ふと気づく。
「お前も水浴びたいのか?」
昨日も暑くて、ファティマは沢山汗をかいた。汗をかくとべたべたして気持ち悪い。少年もそうなのかと聞くと、少し間を置いてこくりと頷きが帰ってきた。
「って言ってもお前は外に出れないから、布で体拭くくらいしかできないけど」
「それでもいい。頼めるか」
ファティマは洗濯に使った盥を奥の部屋に運んで水を張り、少年に布を渡した。
「助かる、ありがとう……なんだその顔は」
「別に。オレは飯作るから」
ありがとうなんて言われたので面食らってしまった。普段父親から受けるのは罵声や怒鳴り声くらいなので尚更。誘拐犯の子供に礼を言うなんて変な奴だ。良いとこ育ちの坊ちゃんは何を考えているのだろう。