甦った前世の記憶
思い、出した。
膨大な情報が脳内に雪崩れ込んでくる。
そうじゃない。これは、これまで僕の中にあったもの。僕の中にあったけど、取り出せなかった彼方の記憶。
頭が自らの熱で蕩けそうなほど熱く、手は血が巡らず凍りつきそうなほど冷たい。
全身が痺れる。世界が遠ざかる。崩れ落ちる。慣れ親しんだ村の柔らかい大地が僕の体を刺す。
「ど、どうしたの!? ミロ!?」
幼馴染みのアリシアが、膝をついた僕の体を揺する。
ミロ。
違う。
それは僕の名前じゃない。
確かにそれは僕の「今の」名前だ。けど本当の名前はそうじゃない。
僕は、この世界の住民じゃない。
たった今、思い出した。
僕は混濁する頭の中から、強引に情報を引っ張り出す。
ここはどこ? 村の市場だ。
今はいつ? 元いた世界の基準で言えば春。雨上がりの昼下がり。
なにをしていた? アリシアが売ってる魔法細工の説明を受けていた。
僕は誰?
誰?
僕はミロ。オリヴェート村に住む15歳。
そのはずだ。
そのはずだ。
そのはずだ。
「違う! そうじゃない! そうじゃないんだ!」
僕は大きな声を出して叫んだ。確かめるように叫んだ。自らの存在を確立せんと叫んだ。
音の波紋が冷たい路地に波打って、こだまし静かに溶けて消える。
痺れて震えてぐらついて、揺らいで弾けて消えそうだった僕の意識が、叫びと共にひとつに戻る。
元の僕に戻る。
元の僕? それはどちら? オリヴェート村の僕? 地球に住む日本の僕?
わからない。ともかく僕は、やっとのことで混迷から抜け出した。
見回す。
中世風と近世風が混ざったような、西洋的な町並み。アリシアを含む周囲の人たちが、僕のことを心配そうに見つめてくる以外は、何も変わらないいつもの市場。
変わってしまったのは、僕一人だった。
伊藤健人。
それが僕のかつての名前だったと思う。
覚えているのは27歳まで。数学を研究する大学院の学生で、劣等生だった。前世の記憶で最も新しいのは、苦節して書いた最初の論文が、周りより大分遅いながらも初めて通って、舞い上がってる記憶だった。
最後の記憶は、ほんの不注意から道路に出て、トラックが迫ってきてる記憶──。
健人としての27年。
ミロとしての15年。
それらが混ざりあって、僕は突如、健人でもミロでもない何かになってしまった。
「アリシア。ありがとう」
僕は手を借りて立ち上がる。
「ミロ……、ほんとに大丈夫?」
僕は心配そうに声をかけてくる幼馴染を見る。
アリシア。
ミロとしての人生において、幼い頃から仲のいい、とてもとてもかわいい同い年の女の子だ。
透き通る銀髪に、色素を忘れたような白い肌。雨上がりの空よりも透き通った蒼の目が、僕を見つめる。
「ミロくん。体調が悪いなら休んできなさい。アリシアもついていってあげるといい」
アリシアと一緒に店番をしている、屈強な中年の大男、アリシアの父ティモンドさんが言う。
「アリシアの夫となる男、わしの未来の義理の息子なのだから、しっかり健康でいてもらわんとな!」
ティモンドさんはがははと笑う。
アリシアは「お、夫だなんて、そんな……っ!」と顔を真っ赤にしながらわたわたと手を振った。
ティモンドさんは、なにかと僕とアリシアが結婚するものという前提で話をしてくる。
この子はかわいくて気立てもよくて、僕なんかにはもったいない子だと僕は思う。
こんな、村で疎まれている僕なんかと結婚したら、アリシアの立場はさらに弱くなるだろう。
僕はあまりにも魔力が弱い。
王都のような都会ではそんなこともないらしいけど、このオリヴェート村のような辺境の村では、魔力に優れない子供というのは被差別階級だ。
アリシアも僕ほどじゃないけど、魔法の力が弱い。器用な作業は得意で、こうして魔法で作った便利アイテムを売ることで、僕よりは村の人から認められているけど、なんの非もないのに暴力的な言動をしてくる村人がいるのも確かだ。
現に、ついさっき、ティモンドさんがほんの少し席を外している間に、チンピラが絡んできて、アリシアは並べていた製作物のうちいくつかを破壊されている。
ティモンドさんには内緒だ。僕らがこんなことされたと知られたら、ティモンドさんは確実に激怒する。犯人の家まで怒鳴り込みに行くだろうね。
「机から落として壊しちゃった」
そう言うアリシアの泣きそうな顔を見て、僕まで涙を流しそうになった。
父親にすら正直に今の不遇を語れないアリシアを見て、僕はとても悲しくなった。
こんな暮らしから抜け出したい。
だけど、どうやって?
王都に行けば、魔法がろくに使えなくてもできる仕事はいくらでもあり、田舎の村と違って差別されることもないと聞く。
しかし、王都に移住するにはとてもお金がかかる。その金を稼ぐことすら、ここではできない。
「うっぷ……」
僕は現状を悲観し、胃の中のものをぶちまけそうになる。健人としての記憶を持って、あらためて現状を俯瞰して、あまりのひどさに吐き気を覚えた。
「ミロ……。顔色がさっきより悪いよ?」
「ああ、心配かけちゃったね。ごめん。もう大丈夫だから」
僕はそう言いながら歩き出す。
アリシアに連れられ、村の真ん中にある集会場に向かって歩き出した。
僕は、空を見上げた。
入道雲漂う清んだ空。かつて僕のいた世界となにひとつ変わらない空。アリシアの眼ほどではないけども、すっごく綺麗な空だ。
もはや、この空だけが、健人とミロを繋いでくれる、唯一のよすがだった。
アリシアと共に歩きながら、僕は今の状況について考える。
僕はかつて日本という国に住んでいた。
科学が支配する、魔法など存在しない世界だった。
伊藤健人、それが、あの世界における僕の名前のはず。
なのになぜ、僕はミロなのだ。
なのになぜ、魔法なんてものが当たり前のように存在しているんだ。
わからない。わかるはずもない。
ひとつ確かに言えることがある。
ミロとしての人生も、紛れもなく僕が生きてきた本物だということ。
健人としての人生だって、僕が生きて僕が拓いた人生だということ。
頭に浮かぶは荒唐無稽な仮説。しかし、それ以外にこの状況を説明する言葉を、僕はどちらの人生でも聞いたことがなかった。
異世界転生、とかいうやつだ。
けど、神様と転生についての会話をしたこともない。伊藤健人はもう死んでるのか、それとも意識がないまま病院のベッドの上にいるのか。それすらわからない。
集会場にたどり着き、涼しい一部屋で椅子に腰かける。
集会所の職員さんが、僕のことを心配して布や水を運んできてくれる。
役所や集会所の人たちは、僕やアリシアに怪訝な目を向けず、普通に接してくれる数少ない大人だ。
しばらく経つと、だいぶ心も落ち着いてきた。
「ミロ、大丈夫? お母さんに連絡しようか?」
「いや、いいよ。ありがとうね」
この世界で生まれた僕には、もちろんこの世界での母親が存在した。僕は母親と二人でこの村で暮している。
家に帰ったらどんな顔で母親と顔を合わせればいいんだろう。普通にこれまで通り接するのは、前の世界っで伊藤健人を産み育てた「前の」両親に申し訳ない気がしてならない。
「ミロ、さっきの質問は、なんだったの?」
「さっきのって?」
「ほら、ミロが倒れちゃう前の」
あれか。
先ほどの僕は。内なる衝動に任せて、アリシア向けて続けざまにある質問を投げかけてしまっていた。
アリシアの魔法細工が、どこまで複雑な構造を作れるかどうかについての質問だ。気分が落ち着いたら、またアリシアに同じ質問をして再確認しようと思う。
先ほどは、アリシアの返答と、蘇った記憶。それによって、僕は一つの仮説を立てた。
僕の前世の数学知識、そしてアリシアの魔法細工の力を組み合わせれば、この世界にコンピューターを作り出せるのではないか?
本日あと1回更新します!