豆腐の角に頭をぶつけて死んでしまった私
豆腐の角に頭をぶつけて私は死んでしまった。私は死んでしまったのだ。冷蔵庫の中に入っていた明日が賞味期限の豆腐ではなく、六日前に期限が切れた正方形の三個パックの絹豆腐の角に頭をぶつけて死んでしまった。お買い得だと思って買い込んでいた大きい豆乳パックのなかみを一口しか飲んでいないのに、私は死んでしまった。一口三百円なんてどこぞのフラペチーノより高価な飲み物じゃないか。
ああ、なんてこと、私の円い頭は寸分の狂いもなく絹豆腐のあの柔らかでべちょっとした少し崩れた未完成な直角に、後頭部ではなく、体中で一番固い額ではなく、その少し上にコツンとぶつかって死んでしまった。白い豆腐はもろく個体ではなく液体のように簡単に床に飛び散り、私はキッチンの床に倒れた。足元には昨日捨てたはずのペットボトルの残骸達が見るも無残に転がっており、壁にはにじみ出てきた染み(悪霊の類だと思うが)が広がり私を見下ろしていた。ああ、なんてこと、天井にも悪霊が広がっている。霊感のない私は祈祷することはできないし、カビキラーを振りまく勇気も、上の階の人間に文句を言う気力もない。横に目をそらすと、せめて運気を良くしようと廊下に置かれた皿の上の(風水が悪かったのか)茶色く変色した塩が崩れているのが目に入った。
倒れ伏した私の膝あたりのスペースが狭くきつい――先月ダイエット中だったため、強い忍耐で私がL一枚にしておいたピザの空き箱があったので、最後の力を振り絞って蹴りつけた。ああ、なんてこと、履きやすいズボンが少し汚れてしまった。これももう捨てるしかないかもしれない。いや、まだ部屋着という道がこれには残されている。そろそろ本当に着るものがなくなってしまう。あの山のどこかにワンピースがあるかもしれない。だけど拾い上げることはもうこんなに弱った私にはできないだろう。ああ、なんてことだ。
豆腐、なんの栄養もなさそうなこの白い四角い塊。せめて、葱味噌やしょうがをのせて食べてあげようと思っていたのに。私の頭にぶつかって私を殺すだなんて。ああ、息が苦しい。ぶひーぶひー、ああ、変な呼吸音、生きていることがとても苦しい。ぶんぶん、蠅が私の肩に止まった。あら、まだ死んでから間もないのに、もう蠅がたかるなんて。私の死体が発見される頃にはこいつらの餌にされ、豆腐も食べられてしまうに違いない。
どうしていつも私の人生の結論はこんなに早く出てしまうのだろう。それなのに、ちっとも苦しみから逃れる出口は近づいてこない。私は豆腐の角に頭をぶつけて死んでしまったのに、まだ、苦しみが続いている。部屋の中がぐるぐる回る。冷蔵庫の扉に貼っていたはずの去年のカレンダーが冷蔵庫の下の隙間から埃と共に私を見つめている。
去年の今頃、私は豆腐の角がこんなに危険なものだとは思ってもいなかったし、自分の頭をぶつけることがあるとも思っていなかった。豆腐とは食べ物であり、冷ややっこ、湯豆腐、スンドゥブチゲ、……美味しいなあとつつくことしか考えられなかった。「食事」とは「会食」のことであり、楽しい時間を過ごす手段だとしか考えていなかった。栄養をとるためだけに口を動かすことがこんなにも苦痛であるとは思わなかった。そのうちに食べることを忘れてしまいそうになるのに、ずっと口を動かし続けないとダルくて日々を過ごせなくなるとは思いもしなかった。ああ、でも、なんてこと。最後の食事だとわかっていれば、さっき適当にスナックを口に入れなかったのに。もっとステーキとか、ああ、何も思いつかないけど、何かもっと贅沢なものを食べて死んだのに。
ああ、豆腐の角に頭をぶつけて死んでしまうなんて、なんてことだ。でも、最期が、あまり痛くなくて本当によかった。私の頭の傷は浅い。豆腐による痛みはすぐにケリがつく。