後夜祭3
ここに来る前――
橘さんに仕度を手伝ってもらった私は、後夜祭の開始時刻間際に理事長室を出た。綺麗なメイクとドレスで浮かれていた気持ちは、講堂までの長い廊下を歩くうちにどんどん沈んでいった。
女装して気持ち悪いと言われたらどうしよう。騙していたと、気づいた人からいきなり罵られたら? せっかくのドレスが似合ってないと、紅に思われたらどうしよう。
ホールの正面扉の前に着いたものの、開く勇気が持てなかった。この扉を開ければ、私は紫記には戻れなくなる。みんなとの友情が失われるし、学園生活も終わってしまう。何度も取っ手に指をかけては引っ込めた。時間だけがどんどん過ぎていく。
中の声はスピーカーを通して外でも聞けるため、人気投票の結果はわかっていた。うちのクラスが一位だったけど、可愛い桃華と紅が主役だったから、当然と言えば当然だ。
それより、早くしないとファーストダンスが始まってしまう。ギリギリになったので、紅はもう別のパートナーを見つけてしまったかもしれない。
そういえば「ドレスを着て来て」と言われたけれど、「一緒に踊って」とは言われていない。勘違いだったらどうしよう? 私に全てを捨てて、紅を信じる覚悟はある?
答えはYESだ。
彼が好きだから、信用していると証明したい。それに、全部を彼のせいにしてはいけない。女の子に戻りたいのも、これ以上嘘を重ねたくないというのも、私の意思だ。
新しい自分になると決めたから。こんなところで立ち止まっている場合ではなかった。気分を奮い立たせた私は、大きく扉を開いた。
目に飛び込んできたのは、眩しい光と色の洪水。煌々と照らす明かりの中に、カラフルなドレスやタキシードを着た人達がいる。彼らはこちらを見ながら、何かを言っている。私は緊張していて、よくわからなかった。
遅れてきたから仕方がないんだけど、できればそんなに見ないで欲しい。
それよりも、こんなに大勢の中から紅を見つけることができるのだろうか? それとももうダンスは始まっていて、彼は誰かと仲良く踊っているの?
前に行かなければいけないのに、足がすくんで動けない。戻った方がいいのかな、ひょっとして場違いなのかも。そう思い弱気になった私は、ただ立ち尽くしていた。
ふと見れば、人垣の向こうから赤い髪が近づいてくる。紅だと認めた瞬間、ホッとして泣きそうになった。胸にじんわり温かいものがこみ上げる。
彼はいつも側にいる。
私が困った時には、こうして手を差し伸べてくれる。
「踊っていただけますか?」
「喜んで」
私は微笑むと、大好きな紅の手を取った。
それからは、甘いセリフのオンパレードだった。ガチガチな私の緊張をほぐすため、わざと大げさに言ったのだろうけど。紅の褒め言葉と近づく距離に、余計にドキドキしてしまう。照れまくる自分の顔を見られたくなくて、私は彼から目を逸らした。
ちょうど蒼と踊っている桃華が見える。ラベンダー色のドレスを着た彼女は、抜群に可愛らしいな。桃華と目が合ったように感じたのは、気のせいだったのかもしれない。だって、特に何のリアクションもなかったから。
幸い彼女には、私が紫記だとバレてないみたいだ。
「すごく綺麗だって言ったかな?」
「えっ……そんな! 紅こそ素敵だよ」
私は目の前の紅に視線を戻した。
正式な場で久々にドレスを着た私とは違い、紅は白いタキシードを見事に着こなしている。中に着ているジレも鮮やかな水色で、すごく素敵だ。……って、あれ? その色と生地って私のドレスに似ていない? ま、まさかとは思うけどお揃いなの!?
彼はいつも一言足りない。
紅ったら、何も教えてくれないんだもの。気づいたことが嬉しくて、つい笑ってしまった。
そんな私を彼がじっと見ている。
注がれる熱のこもった視線がくすぐったくて、私は思わず目を伏せた。それでも胸のときめきは治まらず、深呼吸して気持ちを落ち着かせようとする。
その後は冗談を言う紅に応じ、わざとふくれた真似をした。でも、女性パートってこんなにピッタリくっつくものだっけ? ダンスのレッスンでは、もっと離れていたような。
腰に置かれている手が気になるし、息のかかる距離で見つめられると、妙に意識してしまう。でも、彼のリードはすごく上手で踊りやすい。女性パートに慣れていない私でも、ダンスが楽しくなってきた。
私はお礼を言おうと、紅の淡い茶色の瞳を見つめた。なのに、彼は変なことを言ってくる。
「紫、俺だけを見て」
「もちろん見てるよ? あのね、私……」
言いかけた時、突然耳元で声がした。
「紫記ちゃん。そのドレス、似合っているね」
「……え?」
咄嗟にどう反応していいのかわからない。いきなり正体がバレたので、頭が一瞬真っ白になる。声の主である橙也を呆然と眺めていたら、紅が私を守るように腕を回してきた。
橙也が紅に何かを言っている。
答える紅の顔は険しい。
橙也が向こうに行くのを確認した私は、すぐに口を開いた。
「どうしよう。紅、私……」
「大丈夫だ。全て任せておけ」
焦って震える私に紅がしたことといえば――
あ、頭にキス~!?
「こ、ここ紅! みんな見てるのに」
更に混乱してしまう。
頼りになると安心した途端にこれって何?
もっと目立ってどうするの!
それに、橙也がすぐにわかったってことは、みんなももう気づいているということ?
ちょうど曲が終わったので、慌てた私はここから一旦逃げ出そうとした。会場の雰囲気を壊したくないし、みんなに謝るのはもう少し後の方がいいと思う。終了と同時にパートナーの紅にお辞儀をすると、私はそそくさと退場しようとした。
けれど、あっさり紅に捕獲されてしまう。
「紫、どこへ行く。お前がいるべき場所は俺の隣だろう?」
「だ、だって!」
どうしたらいいかわからないんだもん。みんなの視線が痛い気もするし。
女装した変態だと思われているかもしれないし、今更何だと責められるかもしれない。覚悟して来たとはいえ、軽蔑されて非難されるとわかっている。だから、みんなに頭を下げるのはもう少し後にしたいかな、なんて思ってるんだけど……
紅は何を思ったのか、司会にマイクを要求した。この場にいる全員が、何ごとかと彼の動向を窺っている。
今なら走って逃げられるかも。そんなことをチラッと考えてしまった私。でも、紅がどうするつもりなのか気になった。
まさか、みんなの前で私の正体をバラすわけじゃないよね? 「世話役を解放するからここでお別れだ。じゃあな」とか言わないよね?
マイクを手にし、戻って来た紅が私の腰に手を添える。私は緊張でドキドキしながら、彼の次の言葉を待った。




