雲の向こう側
「紫、俺に対する同情なら要らない。だけど、俺を好きだと言うならドレスを着てきて」
「……え?」
私が驚いたのは、その一言だった。
一瞬頭が真っ白になる。
紅はいったい何を言ってるの?
「贈ったドレスを寮に持って来ている、と言ってただろう? 後夜祭には、それを着て出て欲しい」
「でもそれって……」
そんなことを急に言われても、どうしていいのかわからない。男の子の紫記が急に女装したら、変態扱いされてしまう。それに、実は女の子だとわかれば、みんなを騙していたと責められてしまう。
少し考えればわかることなのに……。でも紅は、考えた上で私を試しているような気がする。
「もちろん無理に、とは言わない。この話はなかったことにしよう。信用されずに残念だけど、仕方がない」
「そんな!」
彼の想いを疑った私に、これ以上の罰はない。けれど、思い直してみる。紅は私を傷つけない。知らない所でもいつも私を守ってくれていた。だったら、今回のことにもきっと理由があるのだろう。
ゲームにこだわり過ぎて、紅の想いを信じられなかった私。ドレスを着ることで彼の信頼を得られるなら、別に構わないんじゃない?
腹を括った私は、紅に向き直った。
「わかった。じゃあ戻って着替えてくるから。蒼と黄が部屋に入らないようにしていてね」
女の子は女子寮で着替える。もしくは講堂の中の女子更衣室を使う。だけど突然私が入って行ったら、彼女達を怯えさせてしまうだろう。痴漢だと間違われて捕まってしまうかもしれない。いつものように保健室でもいいけれど、ドレスを持って歩くのはかなり目立つ。着替えるための人払いくらいは、紅に頼んでもいいわよね?
「そのままここを使えばいい。ドレスは部屋から持ってこよう。人手が必要なら手配する」
「でも、ここって理事長室……」
おじ様に迷惑をかけるわけにはいかない。それでなくてもさっきから、長時間無断で使用しているのだ。いくら紅が理事長の息子でも、占有し続けるわけにはいかないと思う。
「大丈夫だ。理事長の許可は取っている。後で話したいこともあるんだ」
「いつの間に!」
櫻井のおじ様が『彩虹学園祭』にいらしていたとは気づかなかった。いえ、お忙しい方だから電話で済ませたのかな? でも、紅は朝から劇の準備でバタバタしていたはず。いつ電話で話したんだろう?
「じゃあ、持ってくる。準備が出来次第講堂に来てくれ。ずっと待っているから」
理事長室を出て行った紅が、私のドレスを持って戻って来た。かと思えば、邪魔になると思ったのかすぐに扉を開けて出て行く。
「後はよろしく頼む」
扉の外に誰かいるのだろうか?
紅が誰かに声をかけたと思ったら、入れ違いに女性が入って来た。櫻井家の使用人である橘さんだ。彼女と会うのは随分久しぶりだけれど、学園祭を見に来ていたとは知らなかった。紅が招待したのだろう。
それにしても、彼女は気が利く。靴や髪飾り、長い黒髪のウィッグをどこかから持って来てくれたようだ。
「お久しぶりです、紫お嬢様。大事なパーティーのお手伝いができる日が来るとは思いませんでした。感無量です」
「お手伝い? 紅が無理を言ったようで、急にすみません。でも、大げさです。ただの後夜祭なのに……」
「いいえ、坊ちゃんから聞いていますよ? ファーストダンスは、好きな人と踊るのが学園の伝統なのだとか」
紅が未だに坊ちゃん扱いされているのは面白い。だけど、学園の伝統を嬉しそうに伝えていたとは思わなかった。
でも、待って。彼はこの日をずっと楽しみにしていた。「人気投票で一位になって好きな子と踊りたい」とも話していた。今なら紅が好きなのは、桃華でないとわかっている。それじゃあ彼はもしかして、最初から私と踊るつもりで……?
「あの、橘さん。今日いらしたのは、学園祭に招待されたからですか?」
「いいえ? 紅輝坊ちゃんが大切な人をみんなに紹介したいと言うので、喜んで参りました。でも、良かったわ。紫お嬢様でなければ、亡くなった奥様に代わってお説教するところでした」
ウィンクした橘さんが、オートクチュールのドレスの包みを開いた。水色の華麗なドレスは届いた日に着て以来、袖を通したことはない。
「別のドレスもお持ちしたんですけどね。でも、せっかくですからこちらの方がよろしいかと」
「持ってきたって……」
「紅輝坊ちゃんも良かったですね。晴れて想いが伝わったようで。小さな頃からずっと『紫ちゃんをお嫁さんにするんだ』って張り切っていましたもの。蒼士坊ちゃんと黄司坊ちゃんは悔しがるでしょうけれど」
有能な彼女は、話している間も手を止めない。レナさんが元気でいた頃からずっとお屋敷にいた人だ。女性の支度も慣れている。蒼や黄のことはまあ、幼なじみを取られて悔しがる、といった意味だろうけれど。
後夜祭で紅が私と踊ろうと計画していたのなら、全てのつじつまが合う。橘さんがここにいる意味も、ヒールのサイズがピッタリなのも、わざわざ黒髪のウィッグを用意していることも。紅が忙しかったのはこのためか、と私は妙に納得してしまった。
「でも、いっつも一言足りないんだよね」
もちろん私の方にも問題はある。「ずっと好きだ」と言われても、素直に信じられなかった。一度は告白を断ったし、今日も疑って悪いことをしてしまった。レナさんや橘さんは、紅の想いをとっくにわかっていた。気づかなかったのは私だけ。曇っていた私の目には、雲の向こうにある虹がずっと見えていなかった。
「はい、できましたよ。惚れ惚れするほどお綺麗です」
「ありがとうございます。自分では、こんなに素敵にできませんでした」
仕度を終えた私は、橘さんにお礼を言う。ウィッグを結って髪飾りをつけ、薄くお化粧もしてもらった。理事長室の鏡の中から見返す姿は、まるで別人みたいだ。紅の選んでくれた水色のドレスは、しなやかに身体にフィットしている。ちょうど良かった胸周りが、今は少しだけきつい。だけどそこは喜ぶところなので、思わず口元が緩んでしまった。
でもあと一つだけ、変えるべき箇所がある。紅は「ありのままの姿で」と私に言った。それなら全てをさらけ出し、彼に応えなければいけない。
周りからどう見られようと構わない。お化けだと言われようと、騙していたと罵られようと。
紅が私を『綺麗だ』と思ってくれるのなら――
私は目に手を当てると、黒のカラーコンタクトを外した。
「まあぁ、お嬢様。久々に見ましたが何て美しい瞳なんでしょう! 坊ちゃんが焦るのもわかる気が致します」
私の瞳を見た橘さんが褒めてくれた。
励ましの言葉に勇気をもらえる。
「焦るだなんてそんな。お世辞でも嬉しいです。ありがとうございます」
「あらあら」
彼女のお陰で少しだけ自信がついた。
櫻井兄弟と橘さんは、私の目を綺麗だと言ってくれる。決してお化けとは言わない。
紫記が女の子だとわかったら、告白してくれた女子達はがっかりするだろう。裏切られたと怒るかもしれない。仲良くしてくれた男子達からは軽蔑されるだろうし、紫色の瞳を見たほとんどの人から、気持ち悪いと遠ざけられてしまうかも。
それでも、仕方がないと思う。
紅に言われるまでもなく、このままでいいのかという思いは、常に心の底にあった。本当の私は、男子だという特待生の基準を満たしていない。男装が板についてきたとはいえ、この頃毎日が苦しかった。女の子に戻りたいと、心の中で思っていた。
騙して悪かったと、みんなに謝ろう。
許されるとは思っていないけれど、嘘の自分でい続けるよりは気が楽だ。
これは自分で選んだこと。世話役が必要ないというのなら、『紫記』でいるより今日を限りに学園を去る方が私には合っている。
「紫お嬢様、そろそろ会場に向かいませんと。紅輝坊ちゃんが待ちくたびれて、探しに来てしまうかもしれませんよ?」
「それも面白そうですね」
慌てる紅を思い浮かべただけで、唇に自然と笑みが浮かんだ。偉そうに見えて、彼はいつも言葉が足りない。だけど優しくて、私の一番大好きな人。後悔なんてしない。雲の向こうにある虹を自分の力で掴みに行こう。
覚悟を決めた私は、扉の外へ新たな一歩を踏み出した。




