この世界は……
紅の言葉がショックで、身体がぐらりと傾いた。
「紫っ、いきなりどうした。とりあえず座れ!」
慌てた紅が私の腰に手を回し、支えてくれる。彼は私をソファに座らせると自分も隣に腰を下ろした。
「どうしたんだいったい。変なことを言ったつもりはないけど?」
「でも、魔女のシーンって確か……」
私は必死で思い出そうとした。
あの時感じた絶望も一緒に――
『君の忠節に感謝している。今までありがとう。だがこれからは君らしく生きて欲しい』
『ええ、そうします。私こそありがとうございます。やっぱり私、貴方を愛して良かった……』
「今までありがとう。俺は姫の方がいいから、これからは魔女のように潔く身を引いて、一人で生きて欲しい。って、そういう意味?」
私が答えると紅は盛大にため息を吐き、自分の額に手を当てた。
「何でそうなるんだ。誰が一人でと言った? それに、肝心なところを飛ばしている。俺は君らしくありのままの姿でってそう言ったはずだ」
「だから君らしく一人でってことでしょう?」
「あのなー。紫、俺が嫌なら嫌だとはっきり言ってくれ。その方が気持ちの整理もつく」
どういうこと?
嫌がっているのは紅の方でしょう?
紅は私に向き直ると、両腕を掴んだ。
淡い茶色の双眸が真っ直ぐ私を見つめている。
「俺はお前に――長谷川 紫に好きだと伝えたはずだ。なのにどうして花澤がいいと言う? どうして俺を信用しないんだ」
紅の目が悲しそうに翳った。
彼が私に本心を言っているのだとわかる。
桃華とのキスは誤解だった。長いラブシーンは、台を調節していたため。魔女に言ったセリフも……あ、ありのままの姿って?
しばらく考えた末、私は答えた。
「それって、世話役から解放するから男装するのをやめろってこと?」
「それもある。だけど一番は……」
「そんな! 特待生じゃなくなったらこの学園にいられなくなる。それにゲームではこの後もずっと……」
「……ゲーム?」
途端に紅が眉を寄せ、怪訝な表情をした。唇を引き結び、何ごとかと思案しているようだ。
――私は突然理解した。
メインヒーローの彼が、この世界がゲームの舞台であることを知らない。現時点でヒロインの桃華にも惹かれていない。それなら、ここは本当に乙女ゲームの『虹カプ』とは関係ないのかも!
「言っていることがわからない。紫、説明してもらおうか」
詰め寄る紅の綺麗な顔が間近に迫る。
だけど今回甘い雰囲気は微塵もなくて、言葉の意味をただ知ろうとしているだけみたい。
「何のこと? ゲームなんて言ってないよ?」
私は思いっきりすっとぼけようとした。すると、ソファの背に片手を置いた紅が、更に私に近づく。
「ほら、それだ。ゲーム……どういう意味だ? 俺とのことは遊びだとでも?」
「はい?」
「いや、お前にそんな駆け引きができるとは思えない。だったらどういうことだ?」
「え? いえ、あの、えーっと」
「紫、いったい何を隠している?」
「そ、それは……」
囲い込まれて艶っぽい声で耳元に囁かれた。ときめくはずの状況も、私にとっては尋問にしか感じられない。背中を変な汗が伝っている。慌てて目を伏せ下を向こうとするけれど、紅が許してくれなかった。
彼は私の顎をすくうと、ギリギリまで自分の顔を近づけて瞳を覗き込んできた。そして私にダメ押しの一言を放つ。
「言いたくなければそれでもいいけど? だったらずっとこのままだ」
ち、近い近い近い近すぎる~~!
あまりの色気と迫力に、心臓が口から飛び出そうだ。自分がかっこいいこと、絶対わかってやっているよね? 悔しいけど認めよう。あなたイケメンです、降参です。全部話しますから許して下さい。
観念した私は、前世でプレイしていた乙女ゲーム『虹色奇想曲』とこの世界がそっくりなこと。登場人物とヒロインとの関係やレナさんとの約束のことなど、全てを紅に打ち明けることにした。
「くっつかれると緊張して話せないから」
そう言うと、紅は長い足と腕を組んで座り直した。私は彼の隣で、ポツリポツリと今までの経緯とゲームのことを話し始めた。途中二三質問されることはあったけど、紅は私の話に真剣に耳を傾けている。自分なりに何とか理解しようと努めているようだ。
「それで全部?」
話し終えると、彼が聞いてきた。
「うん。もう言いたいことはないかな」
「そうか。だが、どこから訂正していいのやら……」
紅が珍しく困った顔をしている。
あまりに突飛な話だし、『虹カプ』を知らない人にとっては信じ難いのだと思う。
「要するにお前は、この世界がゲームだと思い込んでいた。それで俺達と花澤をくっつけようとしていた。で、合っているか?」
「まあ、そういうことになるのかも」
「しかもそれが、亡くなったお袋の希望にも即している、とそう考えたわけだ」
「だ、だってその方がみんなが幸せになると思ったし……」
「幸せ? 誰の?」
「え? だから紅達三人の」
私がそう答えると、紅は黙ってしまった。真面目な顔をしているから、少し怖く見える。
「紫、お前って賢そうに見えて……」
「うん?」
私は首を傾げた。
紅は何が言いたいんだろう?
「実は相当バカだろ」
「なっ……はあ? どうして! だって私はみんなのためになると思って」
「だからそれだよ。周りをよく見て考えたのか? 何で人から幸せを与えられなきゃいけない。誰の基準で幸せだと?」
「え? だからゲームの攻略対象はそれで満足していて……」
「ゲームは所詮ゲームだろ。現実世界とは程遠い」
「まあ、それはようやくわかってきたんだけど」
はっきりわかったのはついさっき。
ゲームそっくりでもゲームじゃなかったこの世界。紅は桃華に惹かれずに、私の方がいいと言う。それだけでも十分『虹カプ』とは異なっていると言い切れる。
「お袋が言う『素敵なレディ』もきっとお前のことだ。あの頃から俺達がお前を好きなことはバレていたから」
「え? でもそれじゃあ母親代わりになるっていうのは……」
「それはお前が勝手に言いだしたことだろう? 誰もそんなことは望んじゃいない」
「そんな――」
私が今まで頑張って来たのって、強くなろうとしてたのっていったい何だったの?
そんな私の心を読んだのか、紅が続けた。
「ずっと側にいてくれて感謝している。だが俺も蒼も黄も、今はお前に守られるより守る方がいい」
「え?」
「それに、幸せって自分の力で手に入れるものだろう? お前はゲームを気にしているようだが、人の感情はゲームじゃない。俺の心は俺だけのものだ」
強く言い切る紅の顔は真剣だ。もしかして、怒らせてしまった?
「まさか紅、怒ってる?」
「そうだな。怒ってはいないが、信用されなかった自分に失望している」
低くて暗い声の紅が髪をかき上げた。
私は彼に対してすまない気持ちで、胸がいっぱいになる。
「そんな! ごめん、そんなに傷つくとは思ってなくって……」
違う、それは言い訳だ。
紅の言う通り、私は何も見えていなかった。好きだと言う紅の言葉を信じられず、いつかゲーム通りに離れていくと恐れていたから。
「ゲームにこだわってごめんなさい。紅、あなたに好きだと伝えるには、どうすればいいの?」
思わず口に出して初めて、好きだと言ったことに気づいた。だけど今更遅いのかも。この期に及んで何だ、とか自分で考えろ、と言われてしまうかもしれない。
案の定、紅は難しい顔をしたまま考え込んでいる。
「紫、俺に対する同情なら要らない。だけど――」
私は息を飲んだ。
その先の言葉は、全く予想していないことだったから。




