文化祭の練習1
――誰かが私の髪をかき上げて、左耳の上にある傷跡にキスをする。すごく優しく、大切な物を扱うように。
私は思わず微笑んだ。
夢だとわかっているけれど、温かい気持ちになってしまう。
私も……
同じ想いを返したい。
だって貴方が好きだから――
すぐ側で誰かが身じろぎするような音がしたので、慌てて目を開ける。けれどぼんやりしていたから、二、三度瞼をパチパチした。ゆっくり目を開くと、驚いた顔で覗き込む紅と目が合った。
「え? ……ええっと、あれ?」
まさか今の妄想、バレてないよね?
「紅! ど、どどどーしてここに?」
「うん? 部屋に戻ったら、お前が気持ちよさそうに寝てたから」
「えと、今何か聞いた? っていうか私、寝言なんて言ってないよね?」
尋ねると、紅はおかしそうにニヤリと笑った。
「『私も』とか、『もっと』ってやつ?」
「言ってない!」
あ、いえ「私も」は言ったかもしれない。でも、「もっと」は絶対に言っていないはずだ。
髪をかき上げた紅が喉の奥で笑っている。その姿を見ただけで、胸の奥が熱くなるのはどうしてだろう。
「で、何か用事?」
ごまかすために、わざと素っ気なく聞いてみた。桃華のことを好きな紅が、わざわざ私に構うわけがない。
「ああ。紫にちょっと頼みたいことがあって」
「頼みたいこと?」
私は思わず身構えた。
桃華との結婚式のブライズメイドとかだったらどうしよう。婚約もしていないのに、まさかいきなり? 緊張しながら答えを待つ。けれど、紅の答えは予想とは違っていた。
「……で、何で私が姫の役?」
「この時間部屋にいるってことは空いてるんだろ? 寝てたくらいだし」
「そりゃあそうだけど。今日はたまたま材料が届かなかったからで……。でもそれなら紅は? 本人と練習すればいいじゃない」
「あっちも色々忙しいみたいだ。寮も別だしつき合わせるのは悪いだろ」
「あーのーね~」
頼みというのは、セリフの練習だった。一人だと気分が出ないから、私に付き合ってほしいのだと言う。だったら桃華本人と練習すればいいのに。いきなり台本を渡されて、しかも姫の役だなんて自信がない。
「無理だよ。私、大道具だし」
「知ってる。でも、練習だからいいだろ? 他のクラスの奴には頼めない」
「それもそうだけど……。でも、物覚えが悪い方でもないのに変なの」
「演じるからには真剣にやらないと。どのクラスも手を抜かないはずだ」
「人気投票がかかっているから?」
「それもある。俺だって好きな子と踊りたい」
どう思う? という風に目で問いかけられた。けれど私は視線を逸らす。桃華への想いなんて聞きたくないから。
私は男性パートだし、後夜祭ではどうあがいても彼とは踊れない。ただでさえ、紅は桃華を選んでいる。ファーストダンスに限らず次もその次も、私は紅とは踊れない。きっともう一緒に踊る機会は来ないのだと思うと、悲しくなった。
「どうした?」
「ううん、何でもない。でも、それなら頑張らなきゃね。優勝しないと誰かに奪われちゃうし」
「そうだな、それは言える」
言いながら紅が目を細めた。
今までよくわからなかったけれど、好きな人のことを想う時、紅は少しだけ切ないような表情をする。見ているだけで、なぜか心が痛む。
「で、どこから練習すればいいの?」
そんな思いを打ち消したくて、私は渡された台本に目を落とした。大道具用の台本は、ここまで細かく書かれていない。横で聞いてたことならあるけれど、セリフに目を通すのは実は初めてだ。
「ん? この辺かな」
「そんな適当な。優勝しなきゃダメなんでしょう?」
「まあ、お前がそう言うなら」
「そうだよ! かっこいい姿を印象付けなくちゃ。応援するから」
桃華と紅、二人のことを応援するって決めたんだもの。あと少し、それなら何とか耐えられそうだ。
紅が適当に開いたページを確認してみる。
でも、そこは。
「ええっと、本当にここでいいの? 練習しなきゃダメ?」
「何だ、付き合ってくれるんだろう?」
「まあね。でも、こっ恥ずかしいんだけど……」
私が照れるのには訳がある。
紅が指定してきたのは、王子が姫を起こす場面。これでもかってほど、恥ずかしいセリフが続いている。
ためらう私に紅は笑うと、不意に真剣な表情をした。
『我が愛しの姫君よ、どうして目覚めない。私の想いを受け取れないとおっしゃるのか』
ありゃ、始めちゃったよ。
『疑うのか、この想いを。君のために空を駆け、竜まで退治してきたというのに。どうすればいい? どうすれば君は、私のものになる?』
こっちがどうしようだよ?
練習したいと言っておきながら、紅のセリフは完璧だ。それに、この先セリフというより演技が多い。はっきり言って私、要らなかったんじゃあ……
『姫よ、この熱い想いをどうか受け取ってほしい』
言うなり紅が迫ってきた。
綺麗な顔を近づけてくるから、避けようとした私はそのままソファに背中から倒れ込んだ。
『姫――』
掠れた声も色気たっぷりの仕草も、練習の必要はないと思う。
だからお願い、ちょっと待って……
「ねぇ、近づき過ぎだと思うんだけど」
ソファの背を持ち覆い被さってきた紅。
その肩を押し返しながら抵抗すると、突然ニヤッと笑われた。
「だってここ、キスシーンだぞ?」
「はい?」
何ですと?
私は慌てて台本を確認する。
「ほら」
彼が指差したのは、セリフの下の小さな字。ここで近づく、とか想いを込めて、などの指示が書かれている。そこに『キスをする。できれば思いっきり』と、確かに書いてあった。でも、思いっきりって何?
「で、どうする?」
「へ? どうって……」
言われている意味がわからなかった。けれど、紅の淡い茶色の瞳は、食い入るように私を見ている。
すごくドキドキしてしまう。これはただの練習で、私は桃華の代わりなのに。そのまま固まっていたら、紅の顔が更に近付いてきた。
「は? え? ダ、ダメだから!」
慌てて台本を間に挟む。
それを見た紅は、私のおでこに自分のおでこをコツンと当てた。
まさか途中まで、本気だった?
保健室の時は不意打ちだったし、ほんとに軽いキスだった。でもこれは、違う気がする。恋人同士の本物のキスは、冗談では済まされない。そんなのを練習でしていいわけないでしょう?
「何だ残念。で、セリフは?」
整った顔を離した紅が、手にした自分の台本を見ながら言う。
「は……え?」
何だって何だ。
そんなサラッと言うなんて。
桃華に悪いとは思わないの?




