体育祭前夜
音楽室から飛び出して、全速力で階段を駆け下りる。廊下を走るの禁止なんて、そんな規則は関係ない。混乱していた私は、そのまま出口まで突っ走った。
『本当にそうか、確認してみる?』
「男同士でこれはない」と言った途端、橙也がそう返してきた。彼が男子もOKだとは思わなかった。そういう人がいることは知識で知っていたし、別にいいとは思うけど。
でも、自分が巻き込まれるとなると大問題だ。それに、実際私は男の子じゃないし。慌てていた私は、外に人がいることにも気づかなかった。
「紫記!」
誰かが私を呼び留めた。
振り向くと、紅がそこにいた。
彼は寄りかかっていた壁から身体を起こすと、私に向かって近づいてきた。
「どうした、何かあったのか?」
「あ……。えーっと」
橙也に迫られたことを言ってしまうと、紅は心配するだろう。幼なじみの彼は優しいから。桃華が好きでも、私のために橙也を怒ったり問い詰めたりしてくれそうだ。
橙也が追ってくる気配はないから、さっきのあれは冗談だったのかも。もしかして、私の勘違い?
「随分時間がかかっていたようだが」
「ご、ごめん」
心配そうに眉を顰める彼に、打ち明けるのは簡単だ。けれど「橙也と一緒にピアノを弾いたら、迫られた」と正直に言うわけにはいかない。経緯を説明しなくてはいけないし、ゲームの話をしてもきっとわかってもらえない。
それに、私は彼の世話役だ。世話をさせてるようではいけない。ただでさえ明日は体育祭で忙しい。これは私の問題だから、紅に迷惑をかけるわけにはいかない。
「えっと、その……探し物がなかなかなくって。あとはお化け、かな?」
紅は私が怖いものが苦手だと知っている。小さな頃に『お化け』と呼ばれて、本当は私が一番怯えて傷ついていたことも。我ながら下手な言い訳だったけど、できたらあまり突っ込まないでほしい。
「かな? そうか、だから震えているのか」
「――え?」
紅は私の腕を引っ張ると、自分の身体に抱き寄せた。温かい身体が私を包み、髪を撫でる手は優しい。「大丈夫だ」と耳元で囁く声も。
小さな頃から一緒にいるから、安心する。このままずっと、こうしていたいような気分だ。 でも、紅は私を落ち着かせようとしているだけ。そこはちゃんとわかっている。こんな風にされたら、他の女の子だと大切にされていると勘違いしてしまうよ? もちろん私は大丈夫。紅が桃華のことを好きだって、ちゃんと知っているから。
「落ち着いたか?」
私を見下ろす紅。
星をバックにした彼は、とても綺麗だ。男の人に『綺麗』は変かもしれないけれど、その言葉が彼には似合う。紅をわざわざ見に来る女子の気持ちが、少しだけわかるような気がした。
そうだった。
小さな紅はもういない。
ここにいるのは、頼りになる大人の紅だ。
「うん、ありがとう」
本当はドキドキしていた。
急に恥ずかしくなって、少し離れる。そんな私を見た紅が、疑問を口にした。
「音楽室には電気が点いていたし、ピアノの音も聞こえてきた。真っ暗ではなかったはずだが?」
「あ……そうだったね。でも、夜の校舎ってなんか怖い感じがするから」
上手くごまかせたかな?
嘘をついてごめん。
でも、心配はかけたくないし、待ってくれているとは思わなかったから。
「だから一緒に行くと行っただろう?」
「ごめん。次からそうしてもらうよ」
もしも次があるのなら。
その時紅が、桃華に夢中になっていないのなら。今度は紅に来てもらおう。胸の痛みを紛わすように大きく息を吸い込むと、私は目を閉じた。
「一緒にいたいが明日は早い。とっとと食って寝るぞ」
「わかった」
目を開けた私は、紅に向かって頷いた。
紅はやっぱり紅だった。気を遣って「一緒にいたい」と言ってくれるけど、いつもの彼もそんな感じだ。だから私は、変わらない彼の近くが一番ホッとする。世話役から解放されても遠くに離れても、こんな風に友人同士でいられればいいのに。
「いよいよ明日だな」
「そうだね。優勝しようね」
紅と桃華をくっつけるために。
そのために、紅も私も練習を頑張ってきたんだもん。体育祭をきっかけに、紅とヒロインの仲は進展していくだろう。覚悟していたとはいえ、何だかちょっと変な気分だ。なるべく考えないようにしよう。
星空の下、紅と並んで寮に戻る。
『愛する貴方の幸せを
私は永遠に祈っている』
道の途中、不意に『虹カプ』の歌詞が頭をよぎる。私は少しだけ、泣きそうになってしまった。
寮に戻ると蒼と黄が飛んできた。
「紫ちゃーん、遅かったから僕、心配しちゃったよー」
「紅に手を出されたんじゃないか。大丈夫か?」
心配してくれてありがとう。
紅じゃなくて、橙也にちょっかいをかけられたけど。でもそれは、多分私の勘違い。焦って逃げて、橙也にも悪いことをしてしまったな。
「俺がいつ!」
「そうだよ。紅が私にそんなことをするわけないじゃない。さ、遅くなったし片付けられる前に食堂に行こう」
「僕もついでにお茶飲みに行こーっと」
複雑な顔の紅と楽しそうな黄と一緒にカフェテリアに行った。ちょうどそこで、食器を片付けに来た橙也とすれ違う。ビックリした私は、咄嗟に紅に身を寄せた。
「あっれー、紫記ちゃん。さっきはどうも」
「さっき?」
紅が怪訝な顔で私を見る。
黄も『ゆかり』の世話を一緒にしているから、橙也のことを知っている。その黄が橙也に聞いた。
「さっきって? 紫記が遅くなったのって橙也さんのせい?」
橙也は意味ありげな流し目を私に送ると、肩を竦めた。
「さあ、どうだろうね?」
いやいやいや。
紛らわしい言い方は止めてほしい。
橙也が男子もいける口だという疑惑は消えていないから、変な風に聞こえる気がする。
「違うよ。忘れ物を取りに行ったんだ」
証拠のディスクを取り出そうと、私は制服のポケットに手を入れる。あ……あれ!?
「忘れ物ってこれのこと? 落ちていたから拾っておいたよ」
「ああ、うん。ありがとう」
橙也から、見覚えのあるディスクを渡された。彼から逃げる時に落っことしたんだろう。全く気がつかないくらい、さっきの私は動揺していたから。
「じゃあ俺はこれで。紫記ちゃん、紅輝、黄司君も明日は頑張ろうね」
ウインクした後、橙也がにこやかに去って行った。何だ、やっぱり音楽室の発言は冗談だったんだ。私は詰めていた息を吐き出した。隣にいた紅が、なぜか表情を消している。あれ、もしかして機嫌が悪い?
夕食を食べている間も、紅は終始無言。
代わりに黄が喋りまくっている。
しまった、音楽室にいたのがバレた?
それとも、待たせ過ぎたのかな?
でも、先に戻ってって言っておいたから、待たせたことにはならないと思うんだけど。そこまで怒るんなら、先に帰れば良かったのに。
世話役の私は紅と黄の食器を片付けると、さっさと寮に戻ろうとした。黄が後ろからついてくる。
「ゆ……紫記、待って! 兄さんと何かあったの?」
「いいえ、何も」
「そう。だから機嫌が悪いのかな?」
黄まで意味不明なことを言い出す始末。
明日が本番だというのに、紅とのチームワークが心配だ。
優勝できるかな?




