君と奏でる音
いつも読んでいただき、ありがとうございます。
「ぎゃーーーーっ」
「おっと」
大きな声を出した紫記に、思いっきり突き飛ばされた。そこまで慌てるとは思っていなかったため、俺――橙也は不覚にもバランスを崩してよろけてしまった。
「うわー、変態~~!」
俺の腕をかいくぐり、叫んだ紫記が脱兎のごとく逃げていく。
あまりの反応に、俺は呆然としてしまう。「ふざけるのはやめろ」とか「お前、バカなの?」といったいつものクールな姿を想像していたんだけど、今のは……
「やっぱりね」
前髪をかき上げながら考えを整理する。どうやら、俺の予想は間違っていなかったようだ。これでも複数の娘と付き合ったことがあるから、女の子の行動は何となく予測できる。俺が強引に近づくと、顔を赤らめるか急に慌てるか。
けれど、あんな激しい拒絶は初めてだった。おかしくて思い出しただけで自然と笑みが浮かぶ。
だから彼女は面白い。
どんな理由で男装しているのか知らないけれど、あの顔で男と言うのは無理がある。運動神経もまあまあだし、口調も精一杯男らしくしようとはしている。
だけど、ふとした仕草や表情、触れた感じは女性のものだ。男にしては声も高いし、色も白く肌も綺麗。柔らかそうな唇や長いまつ毛は男ではあり得ない。きちんとした格好をさせれば、美女だと言えるのに。
そのせいか、最近は藍人も戸惑っている。あいつはあいつなりに、野生の勘で紫記が違うと感じ取ったみたいだ。でも、まだ女の子だとは気づいていないようで、ぎこちない様子が見ていておかしい。
まあ面白いから、放置しているけどね?
わからないのは、櫻井兄弟だ。
寮の部屋も同じだし幼なじみだと言っていたから、知っててわざと手元に置いていることになる。
学園は男女交際が禁止なわけではないから、男装の必要性を感じない。確かに紫記は男子の特待生だが、櫻井財閥の御曹司なら、彼女の学費を立て替えるくらいわけないはずだ。それよりも、一緒にい過ぎて男とそういう仲だと勘繰られ、不利になるのは彼らの方だ。
だがさっきのあの反応を見る限り、紫記は彼らと男女の仲でもなさそうだ。紅輝も蒼士も年下の黄司も、彼女をバカみたいに大事にしている。同じ部屋になるために、わざと男装させたと考えるのは、間違っている?
「いずれにしろ、紫記は謎だね」
秘密を知ったからといってどうこうするつもりはない。今まで、そこまで他人に興味があったわけでもないから。寄ってくるなら誰でもいいし、楽しけりゃそれでいい。
女の子達は、みんなそれぞれ一生懸命で可愛い。来るものは拒まず去る者は追わず。そうやって過ごしてきた。
だけど紫記は――男友達? 女の子? 俺の中で、どの部類に入るのだろうか。
何となく鍵盤に触れながら、先ほどのフレーズをたどる。
ピアノは、一番最初に俺が習った楽器だった。小さな頃は両親も家にいてくれたから、褒められるのが嬉しかった。純粋に喜ばせたくて、俺は一生懸命ピアノを弾いた。あの頃の俺は、確かに音を楽しんでいた。
でも、いつからかできて当たり前だと思われるようになってしまった。それだけの教育を受けていたし、受け継いだものもあったのだろう。本格的に活動を再開した両親は、海外の演奏旅行で不在がちになった。俺は広い家にピアノやたくさんの楽器と共に残された。
好きだったはずの音楽を苦痛だと感じるようになったのは、その頃からかもしれない。関わる全てを断ち切りたくて、海外への留学を断ってこの学園に入学した。
未練は少しあったようで、俺はジャンルの違う軽音部でベースを弾くことに決めた。賑やかな曲は楽しく、頭を空っぽにできる。慣れ親しんだ楽器よりこっちの方が楽しい。俺は自分にそう、言い聞かせていた。
久しぶりにピアノを弾いたのは、偶然だった。音楽室のカギが開いていたし、海外にいる母から昨日『お父さんとは別の道を行くことに決めました。貴方も元気で』というハガキが届きイライラしていたから。
何となく予感はしていたものの、もう少し保つと思っていた。少なくとも一度くらいは、息子の意見を聞いてくれるのではないかとどこかで期待もしていた。
行き場のない思いを込めて鍵盤に触った。一度触れれば懐かしくて、頭の中のメロディを音にしていた。元々他人に聞かせるためのものではないから、誰かが聞いているとは思わなかった。だから紫記が入って来た時、俺はすぐに手を止めた。
『橙也、もしかして悲しいの?』
そうか……俺は悲しかったのか。
今までずっと押し込めていた感情を、言い当てられるとは思わなかった。続きをねだられるとも。たった一度扉の向こうで耳にしただけの音を、紫記が正確に繰り返したのには驚いた。前後のメロディまで添えて。
紫記がピアノを弾けることも、作曲ができることも知らなかった。頭の中の形にしたい思いを、彼女が音にしてくれたのだ。気がつけば、俺は夢中で音を重ねていた。
誰かと弾いてこんなに楽しいと感じたのは、本当に久しぶりのこと。旋律の細かい所まで打ち合わせたかのようにピッタリだ。不協和音はなく、繰り返そうとした箇所まで全く同じ。そのため、昔からずっと一緒に演奏していたような、そんな錯覚を起こしてしまった。
『すごい!』
驚く彼女に、俺も素直に賛辞を贈った。ここまでピッタリだということは、何かしらの感情を共有しているのかもしれない。久々に興味が湧く。
『紫記ちゃんの方がすごいよ。俺の考えと一緒だね。なんでわかったの?』
いつものように軽口で。
大人に囲まれて育った俺は、本音を隠す癖がある。そんな俺から、紫記は目を逸らした。
『ど、どうでもいいけど近いよ。男同士でこれはないな』
あくまでもしらを切り通そうとする。女の子だと知っていると言ったら、君はどんな顔をする?
『本当にそうか、確認してみる?』
男同士かどうか。
女の子だと白状させる手段ならある。
「まさか、変態と言われるとはね」
おかしくて笑ってしまう。
宮野橙也が女の子に逃げられたばかりか、「変態」と言われる日が来るなんて。母からの別れのハガキが届いた翌日に、自分が笑っているとは思わなかった。もう一度、ピアノを好きだと思える日が来るなんて――
「君を好きになりそうだよ。どうしたらいいと思う?」
誰もいない音楽室。
俺はさっきのメロディを弾きながら、一人物思いにふけっていた。




