どうして?
一瞬びっくりしたけれど、蒼が言っているのはさっきの小テストのことだとわかった。
「だよねー。私もさっきのテストが戻ってくるまで気になるもの。でも、教えてくれてありがとう。蒼のおかげで少なくとも0点は免れると思う」
名前だって書いたし、教えてもらったところは解けているはずだし。なのに蒼は隣で頭を抱えている。え、何? もしかして、そんなにひどい出来だった!?
試合が終わって下のコートがバスケ部男子&紅のふれあい広場と化したため、二階席にはほとんど人がいない。女子は特に猛ダッシュで駆け下りて行ったから、ここにいるのは私と蒼くらいだ。そのため、誰かに話を聞かれる心配はない。
「あ、見て! ようやく桃華が紅のところにたどり着いたみたい」
紅は囲まれているので、女子だと近くに行くだけでも一苦労だ。私はいつも男装しているから、今まで別に平気だった。ごめんね、桃華。全然気がつかなかったよ。
紅の方はというと、相変わらず何も受け取っていないようだ。けれど、自分を囲む女生徒達には愛想よくしている。さすがは理事長の息子だ。他校の子に対しても感じのいい笑顔を忘れない。
紅に近づいた桃華が、背伸びをして何やら耳打ちした。その後すぐにハンカチを渡している。「良かったら使って下さい」って言ったのかな?
紅は桃華からハンカチを受け取ると、なぜか目を閉じ自分の唇に押し当てるような仕草をした。
ちょっと何?
何なの、その反応は。
色気が凄過ぎて、見ているこっちまでドキドキしてしまう。周りのお嬢様方からも悲鳴やため息が出ている。紅の目の前の桃華なんて、赤くなって震えているし。
そうか、やっぱり――
これで紅の好きな人が、桃華だと確信できた。ゲームでは一番最後に攻略できるはずの紅の好感度は、現時点で既にかなり上がっているようだ。だったらもうすぐ二人は両想いになるから、世話役の仕事もそろそろ終わり。さすがに男装しているとはいえ、恋人同士の間に入り込むほど私は野暮ではないし。
どうして寂しく感じるんだろう?
胸が痛いように思うのはなんでだろう。
紅が桃華からの好意をあっさり受け取ったからといって、気にするのはおかしい。だって、そう仕向けたのは私だもの。櫻井三兄弟をヒロインとくっつけて、絶対幸せにすると決めたのも私。だから気にしちゃいけないはずだし、ここは上手くいったと祝福しなくてはいけない場面だ。それなのに、泣きたくなるのはどうしてだろう?
「そろそろ戻るよ。もう一度先生を探しに行こうかな」
隣に立つ蒼にボソッと言ってみた。
これ以上ここにいて、仲睦まじい二人を見ていてもしょうがない。
「紫記……紫、顔色が悪いようだが」
「何でだろ。さっきのテストで疲れたからかな?」
私を心配する蒼に、適当に相槌を打つ。上手くごまかしたつもりだったのに、蒼は眉を寄せたまま表情を崩さない。まさか、あれくらい解けなくてどうするとかって思われてる? でも、桃華も暗号みたいだと言っていたから、あれは高等部のレベルではないと思うんだけど。
同じ女の子で同じ高等部の学生で、同じような学力で。それなのに、私と桃華は決定的に違っている。桃華は生まれながらのヒロインで、私はただの攻略対象だ。それも、攻略できない――
紅と桃華から無理に視線を引き剥がし、蒼を見上げるとまだ難しい顔をしている。そうかと思うと、彼は小さな子供にするように私の頭を撫でながら、優しく言ってくれた。
「だったら私が先生に伝えておく。ちょうど校舎に戻る用もある。お前は先に戻って部屋で休んでおくといい。かばんも後から持って行ってやるから」
「……いいの?」
「ああ。任せておけ」
私の方が世話役なのに、世話をしてもらっていいのかな? だけど、蒼の言葉がすごく魅力的に聞こえる。誰もいない自分の部屋に帰って、今すぐ泣きたい気分だ。
「ごめんね、じゃああとはよろしく」
体育館を出たところで蒼と別れた私は、真っ直ぐ寮に帰った。
部屋に戻った私は、自分のベッドまで行く気力もなく、中央にあるソファの上にゴロンと横になった。蒼に心配されたせいなのか、気分が悪くなってきたような気もする。時々、本当に体調を崩すこともあるから用心しないといけない。念のため、夕食の時間までここでゆっくり休むことにしよう。
蒼には別れ際「花澤さんに会ったら、ありがとうって伝えておいてね」と伝言を託しておいた。「紅と仲良くね」というのは余計なことだし、今はまだ早いと思ったので言わないでおいた。
額に手を当て天井を見ながら考える。この気持ちは何だろう? 何だかがっかりしたように感じるなんて。
紅が成長したと意識したのは最近のことで、彼に好きな人がいるとわかったのが今日のこと。そして、その相手が桃華だと確信したのが今しがたで――
『櫻井三兄弟の誰かとヒロインをくっつける。桃華が紅を好きなら、二人に上手くいって欲しい』
幸せを願っていたくせに、いざそうなってみると何だか苦しい。幼なじみだし世話役として長く一緒にいたせいで、急に渡したくなくなったのかな? この分だと三兄弟と離れる日には、相当辛いと思う。
「もしやこれが独占欲? でも、約束――レナさんとの約束は、きちんと守らなきゃ」
私は呟くと、ひと眠りしようと目を閉じた。涙が一筋頬を伝ったような気がしたけれど、どうせ誰も見ていないしいいや。そのままにしていると、いつの間にか寝てしまったようだった。
パタン、という扉の音で目が覚めた。
戻って来たのかと思ったら、誰かが出て行く音だったみたい。寝ぼけた目をこすって見回しても、誰の姿も見当たらない。私、結構深く眠っていたのかも。
そのせいか、さっきまでの沈んだ気分も少しはマシになったようだ。出て行った誰かが毛布をかけてくれたみたいで、寒くなかった。
でも、ありがたいけど寝顔を見られてしまったな。私、ヨダレを垂らしてなかった? でもまあいいか。三人共幼なじみだし気心の知れた仲だし。
それなのに、寝ている間に変な夢を見た気がする。誰かが私の髪をかき上げて、左耳の上にある傷跡にキスをしたのだ。すごく優しくいたわるように。頬に滑った唇がためらうように動きを止め、そしてその後……
「うわ、私、変態かもしれない」
妄想も行き過ぎると危ない。
特にこの部屋は、私の他には櫻井三兄弟しか使わないのだ。攻略対象でありヒロインに惹かれているはずの彼らが、私にそんなことをするはずがない。
彼らがカッコいいからといって調子に乗ってはいけない。世話役である私が急にそんな夢を見たと知ったら、幼なじみ達もさすがにドン引きするに違いない。
「危ない危ない。あと少しなんだし、世話役の務めをちゃんと果たさなくっちゃ」
私は自分に言い聞かせると、急いで部屋を後にした。




