世話役として
蒼の指導のもと、小テストとは名ばかりの超難問を解き終えた私は、急いで化学準備室に持って行った。けれど、先生は不在。職員室にも寄ってみたけど、やっぱりいなかった。まさかもう、帰ってしまったとか?
「ど、どどどーしよう。本当に0点?」
「まさか。きちんと解けたし、置いておけば大丈夫だろう」
急げ、とか言っていたくせにここに来て蒼は適当だ。一緒について来た桃華も答案用紙を見て目を丸くしている。
「何ですか、これ。暗号?」
いや、化学式だけど。
というより、やっぱりこれってかなり難しいよね。個人的にこんな問題を出されるなんて、化学の先生に嫌われてないといいんだけど。
蒼が言うように、先生が不在なら仕方がない。『虹カプ』の先生達は大体そんなものだったし、職員室で起こるイベントは特にないから帰っても大丈夫そうだ。蒼もいつまでも私に構ってないで、桃華との約束を果たせばいいのに。
顔を上げて時計を見たら、だいぶ時間が経っている。今から体育館に行っても、バスケの試合には間に合わないかもしれない。でも、世話役として終わった後の紅の状態を見るくらいならいいよね?
まだ少し痛む足を前に出し、体育館に急ぐことにする。だけど蒼も桃華も、なぜか私について来る。
「ええっと、終わったしもういいよ。二人で予定があったんじゃないの? ……か」
いけない。気を抜く所だった。
桃華がいる以上、男っぽく話さないといけない。けれど、蒼と桃華は私の言葉を聞くと互いに顔を見合わせた。
「いや、別に何もないが」
「私は紫記様の所に来ただけですもの」
蒼に続いて桃華が答える。
え……私? 何で。
蒼じゃないの?
あ、もしかして。
さっき教室を出る時も桃華は後ろを振り返り、他にバスケットボールの応援に行く人がいないかどうか確認していた。私が試合を見るつもりだったのに来ていないとわかったから、わざわざ誘いに来てくれたのかな? ヒロインって優しいな。でも、そのせいで桃華が自分を見ていないと知ったら、紅が悲しんでしまう。
「そう。じゃあ一緒に応援しようか」
桃華が頬を染めた。
そうかそうか、体育館にいる紅のことを考えただけで照れてしまうのか。女の子らしくて可愛いな。だったらやっぱり、桃華は紅がいいんだね? 蒼も可哀想に。まだ桃華への気持ちを自覚していないとしても、気づいた時には紅にだいぶリードされた後だ。ゲームの展開とは逆になっているけれど、二人とも攻略対象だしこれでもいいのかな?
体育館に着いた時、試合の残り時間はわずかだった。この学園はお金のかかった造りなので、座り心地の良い二階席からは下のコート全体が見渡せる。蒼のファンなのか女子が席を譲ってくれたから、私達三人は甘えることにした。一番前で彼の姿を探す。赤い髪は目立つから、私はすぐに紅を見つけることができた。
間に合って良かった。
嬉しくて思わず手を振る。
ちょうどこっちを見た紅が頷いたから、彼も気づいてくれたんだとわかる。紅の隣には藍人がいる。
二人共頑張って!
声に出さなくてもわかってくれるだろう。どれどれ、点差は……何だ、頑張らなくてもいいみたい。
紅と藍人のパス回しは絶妙で、藍人があっさりシュートを決めてくれた。手を叩いて喜んでしまう。
おおっといけない。久しぶりの試合でついはしゃいでしまったけれど、主役は桃華だ。私は出しゃばらないようにしないと。
喜ぶ藍人がこちらを見てガッツポーズをしている。……ってことは、彼はもう桃華狙いなの?
ちなみに『虹カプ』では、藍人が剣道場で竹刀を振る姿に桃華が見惚れて立ち止まる。そんな桃華を見た藍人が可愛らしさに息を呑む――みたいな感じで恋が始まるはずなのに。バスケットボールだと、ゲームと全然イメージが違うんだけど。
でも残念! 桃華は紅がいいみたいだよ? その証拠に彼女は藍人のことを全く見ていないようだ。
試合終了のホイッスル直前、紅が遠くからシュートを決めた。3ポイントだ。喜ぶ学園の生徒達……って、相手校の女子までちゃっかり混じっている。試合が終わった途端、気を良くした紅がこちらに向かって片手を突き上げた。手首には、以前私があげた黒のリストバンドを付けている。
どうしよう?
一瞬泣きそうになってしまった。
彼はヒロインのものなのに――
紅の方を見ながら無理に笑顔を作る。泣き笑いのような情けない表情になっていないといいけれど。
紅の隣の藍人が首を横に振っている。
まさかダメ出し?
そんなわけないよね。
藍人は紅を小突くと、そのまま退場してしまった。バスケ部のみんなや紅は、まだコートに残っている。
さあ、試合開始だ。
お嬢様方の本当の闘いはこれから!
「もも……花澤さん、ごめん。僕は足が痛いから、代わりに君のハンカチを紅に渡してあげて欲しいんだ」
世話役として、いつもなら私がタオルを準備している。けれど今日は職員室からそのまま体育館に来たために、教室に置いてきてしまったのだ。
取り巻きの女の子達がタオルやプレゼントを紅のために用意しているけれど、ケンカになるためなのか試合後の彼はいつも受け取らない。世話役で良かったと思うのはそんな時。彼のために役に立っていると実感できるから。
だけど、その役目ももうすぐ終わる。
彼の世話を焼くのは、恋人となる桃華の仕事になる。今もハンカチだったら貸してくれるよね? 大好きな紅のためだし、仲良くなるきっかけにもなるし。
「紫記様、どうして私が? それに私、今ちょうどハンカチを持っていませんわ」
「え……あれ?」
桃華、まさかの忘れ物?
まあ急に言い出した私も悪いんだろう。ヒロインの女子力についての議論は後にしよう。
「じゃあ、代わりにこれを。『良かったら使って下さい』って持って行ってあげて」
仕方がないので自分のラベンダー色のハンカチを彼女に渡す。この色は男としては変かもしれない。けれど、小物くらいはせめて女の子のものを使いたいので持っている。だけど性別がバレないよう、フリルやレースのないものを気をつけて選んでいる。
まあ、いつもと違ってタオルじゃないから紅は受け取ってくれないかもしれないけれど。それならそれで、試合後のタオルを部の人に借りればいいのかな?
桃華は頷くと、そのまま紅の所に向かったようだ。女の子達に囲まれる紅の姿を、私は上から眺めることにする。
「……良かったのか?」
「何が?」
蒼が私に話しかけてくる。
良いも悪いも、ヒロインの役はヒロインにしかできない。私は紅を幸せにしないといけないし、最初から自分が攻略対象の役どころだってわかっている。
そうか、でも――
「ごめんね、蒼。蒼も花澤さんのことが気になっていたんでしょう?」
「私が? どうして」
「どうしてって……あれ?」
廊下でまだぶつかっていないとか?
それとも、桃華の気持ちが紅に傾いているのがわかったから、潔く譲るとか?
「どうしてそう思う。私が気になるのは、お前の方だ」
蒼は私の耳元に顔を寄せると、掠れた声で囁いた。




