独り占めしたくて
何日か前、化学準備室で備品の片付けを手伝っていた時に、私――櫻井 蒼士は声をかけられた。
「小テスト、一組の長谷川君だけが受けてないみたい。でも、彼は普段の成績もいいから見逃しちゃおうかなぁ。どう思う?」
化学の教師は若い女性なので、男子に人気がある。本人もそのことはよくわかっているようで、甘えたような喋り方をする。
苦手な人種だが、専門分野である化学の知識は豊富だ。学ぶところもあるかと思い、時々手伝っている。けれど、恋人からの連絡待ちなのかしょっちゅう携帯電話を気にしている。その姿は尊敬できないため、そろそろ限界が近い。
「生徒に聞くことではないでしょう。ただ、一人だけ特別扱いするのもどうかと」
「もう、相変わらず堅いわねぇ。ぷんぷんっ」
そう言って頬をふくらませている。
何がしたいんだ?
本人が可愛いと思っている仕草も、興味のない他人から見ればバカみたいに見える。けれど口に出すのは失礼にあたるので、そのままにしておく。
「テストを別に用意して、受けさせればいいでしょう。それなら予め答えもわからず、公平なのでは?」
そう提案してみた。真面目な紫は特待生である自分に誇りを持っている。ズルをしたり、一人だけ贔屓をされていると思われるような行為は望まないはずだ。
「えぇ~~。テスト作るのって意外に面倒くさいんだよぉ? 今はネットから引っ張ってきて問題作れるけど、前回ので使っちゃったし」
大丈夫なのか? という言葉が喉元まで出かかった。だが、おかげでいいことを思いついた。
「でしたら代わりましょうか。小テスト用の問題を作ればいいんですよね?」
「え、いいの! だったらお願いね。今日デートだから、仕事が増えると困るのよね~」
何だそれは。
実験中不在だったことといい、適当な態度といい目に余るものがある。だが、扱いやすいのも事実だ。もう少しだけ様子を見てもいいかもしれない。
「その代わり、監督と採点も任せてもらいますね。終わったらここにお持ちしますので」
「本当? 櫻井君、天使! あ、でもごめんね。先生年上の彼氏いるから」
「その点は全く心配ありませんので、ご安心を」
冗談じゃない。
イラっとしてしまう相手に好意なんて持てるわけがない。まあ、この先生の軽口は今に始まったことではない。何で人気があるのかわからないが、こういうのを可愛いと思う輩もいるのだろう。
私の想い人は女性であることを武器にせず潔い。何事にも一生懸命取り組むし、思いやりがある。鈍感なのが玉にキズだが……
テストはとびきり難しくしよう。すぐには解けないように。その方が、君を長く独占できるから。私は早々にいなくなった教師の代わりに、彼女のためのテストを作った。
そして今日――
放課後バスケットボールの試合があるというのは、藍人から聞いていた。バスケ部は性懲りもなく、また紅や藍人に助っ人を頼むのだろう。一時期私も誘われたが、さすがに断った。五人中三人が助っ人というのも、部としてはかなり情けない。試合には交代で出すのだろうが、なるべく自前で賄って欲しい。
紫がいつものように紅の応援に行くと思ったので、わざと声をかけた。ただでさえ紅は同じクラスなのをいいことに、彼女といる時間が多い。父との約束を守る気があるのかどうか甚だ疑問だ。
だったら私も。寮では無理でも放課後くらいは、紫と過ごしたい。
渡した問題を見てしきりに首を傾げる紫を、可愛いと思う。わざと難しくしたのだ。解けなくて当たり前だが、そんなことは無論おくびにも出さない。
本を読むふりをして、彼女を観察している。一生懸命解こうとしている彼女の姿勢が好ましい。伏せられたまつ毛と、口元に当てられた白い手、考え込む仕草を美しいと思う。二人だけの貴重な時間をくれた教師に、少しは感謝しないとな。
頭を抱える彼女に教えてあげる。肩が触れ合うくらい近くで。
「うーん、わかったけどすごく難しい。専門的な知識がなきゃ絶対に解けないよね。蒼、これ本当に小テスト?」
散々唸った後で、紫が疑問を口にした。ある程度わかるように説明もしたが、さすがにバレたか。だけど当然、しらを切り通す。
「何か問題でも?」
「いや、問題だらけだよ。何だか一人だけ取り残された気分」
大丈夫。大学でも滅多に出ない難問だ。一人でこれが解けるようになれば、大学くらいは楽に入れる。
「頑張れ。あと少しで終わるから」
投げ出さずによく頑張っていると思う。紫が自分で解答を導き出せるよう助言だけに留めているから、余計に大変だろう。悩む姿が可愛くて、思わず頭を撫でた。同じ黒髪だが、彼女の方が艶のあるストレートだ。
二人だけの時間を楽しんでいたのに、思わぬ形で邪魔が入った。
「もうお帰りになったかと思っていました。こんな所にいらしたんですね?」
戸口に立っていたのは、紫と同じクラスの転校生。化学の実験で失敗した張本人だ。けれど、紫――紫記は彼女に目をかけているらしく、邪険に扱わない。いや、冷たくしようとしているのだが、生来の優しさでいつも失敗しているように思う。転校生の方もどうやら、紫に懐いているようだ。
「何だ、後にしてくれ」
つい不機嫌な声が出てしまった。
見ればわかるだろう?
今はテスト中だが。
「ええっと、じゃあ後は自分の教室に戻って一人で解くから。ごめん、ありがと」
ちょっと待て。紫、なぜお前が遠慮をする? 出て行くなら転校生の方だろう。
「あと少しだろ。諦めるのか?」
「いや、そんなわけでは……」
転校生が来て以来、紫の調子がおかしくなったと考えるのは気のせいだろうか? 面倒を見ているようで、時々辛そうな表情をする。
「じゃあ、終わるまでお待ちしてますね」
「蒼、僕はもういいから」
紫は転校生と約束をしていたのだろうか。紅を応援するために?
――行かせない。せめてあと少し一緒にいたい。首を振り、ダメだという意思表示をする。
「ええっと。終わったら体育館に呼びに行くから、それまで応援しといてあげて」
やはりそうか。
どうやら一緒に応援しようと約束していたみたいだ。ところが、私の意図を見抜いたのか、隣のクラスの転校生も教室から出て行く気配がない。まさか、紫の男装した姿である紫記を狙っているのではないだろうな? すごく邪魔だし厄介だ。
頼むから、遠慮してくれ。




