君の近くで
具合の悪い生徒を寮まで送って保健室に戻ってみると、誰かがいた形跡があった。僕――島崎 碧は、物が少し動いただけで最近何となくわかるようになってきた。
「使い捨てコンタクト……紫ちゃんが来てたのか」
どの生徒もすぐに使えるよう、保健室の鍵は開けたままにしてある。今までそれで不都合はないし、理事長の許可も得ている。着替えなどで彼女はよくここを利用するから、不思議でも何でもない。
ただ、この時間だと一人ではなく従弟の紅輝や蒼士などが一緒だった可能性がある。
「まったく、いつまで甘えているんだか」
僕は苦笑した。
彼らの『紫ちゃん好き』にも困ったものだ。呆れを通り越して感心すらしてしまう。
守りたいがために学園に入学させるまでは予想通りだった。だが、無理やり男子生徒に仕立て上げていたのだ。まあ、今回の特待生は男子の空きしかなかったから、口実として仕方がなかったのかもしれないけれど。変なところで真面目な理事長は、融通をきかせなかったのだろう。
この仕事を選んで良かったと思う。でなければ、色んなことが今頃とっくにバレていたに違いない。
三兄弟と仲の良い長谷川 紫――彼らの大好きな『紫ちゃん』と僕とは、八つ違いだ。彼女とは、櫻井家を通じて何度か顔を合わせている。
初めて会ったのは、紅輝や蒼士、黄司がまだ保育園に通っていたから、僕が中学生になったばかりの頃だったと思う。
櫻井家の運転手と共に、従弟達を園まで迎えに行った時のこと。園の建物の影、木々の間に隠れて泣いている園児を見つけた。たった一人で声を殺して泣いている小さな女の子。そっと近付いた僕は、顔を上げた彼女の瞳を見て驚いた。ハッとするほど綺麗な紫は、この国ではまずあり得ない色だったから。
「どうしたの? 辛いことでもあった?」
中学生だったため、不審者だとは思われなかったようだ。きょとんとした様子のその子は、僕をじっと見つめて首を傾げた。僕もこの緑の瞳のせいで、幼い頃いじめられた覚えがある。もしかしたら、瞳の色のことでからかわれたり、悪口を言われたのかもしれない。
「目のことで何か言われたの?」
言い当てられて驚いたような顔をしている女の子。けれど、かすかに頷いた後で、彼女は僕にこう言ったのだ。
「今のなし。見なかったことにしてくださいっ」
「どうして? 泣きたい時は泣いてもいいんだよ」
話しかけた僕に、彼女は意外な答えを返した。
「でも、あたしが泣いていたら、三人が泣けないでしょう?」
話していて判明したけれど、三人とは我が従弟達のことだった。迷惑をかけているようで、逆に申し訳ない。黄司はまだしも、紅輝と蒼士は彼女と同い年だ。この年齢は、男の子よりも女の子の成長の方が早いと言うけれど、それにしても情けない。女の子を泣かせて平気だとは。
「ちがうの。あたしが『強いゆかりちゃん』になりたいの」
「じゃあ、君の名前はゆかりちゃん?」
「……あ」
だいぶ話した後で初めて、知らない人に名前を教えてしまったことに気がつく彼女。慌てる姿が何だかとっても可愛くて、思わず笑ってしまった。
「こんにちは。僕の名前は島崎 碧。挨拶したし、名前も名乗ったからもう知らない人じゃないよね?」
「そうね!」
泣いていたはずの彼女が、納得したのか泣き止んだ。顔いっぱいの笑みを見た時、僕は何とも言えない気持ちになった。父性愛というのがあるなら、こんなものかもな。柄にもなくそう思ったことを覚えている。
「ゆかりちゃん、いっしょに帰ろう」
「ゆかりちゃん忘れものない?」
「おーも。ゆかりたんとかえる」
彼女に比べれば我が従弟達は幼く、まだまだだ。分家に生まれた身としては、それが歯がゆい。
その子に次に会ったのは、伯母の葬儀の何日か後だった。伯母はハーフのモデルで櫻井黒江の妻のレナ。まだ若く美しかった伯母――母親を亡くした従弟達は、葬儀後もかなり打ちひしがれていた。彼らを慰めに寄った時、偶然彼女と出会った。
その子――紫ちゃんは一人静かに、伯母の好きだった庭を眺めていた。間違えようのない紫色の瞳と、泣くのを我慢しているような顔を見て、僕は彼女だと確信した。
「紫ちゃんだよね。どうしたの?」
「こんにちは。えっと……」
「初めまして。島崎 碧です。三人の従兄の」
僕は再び自己紹介をした。
あの時まだ小さかった君は、僕を覚えていないだろう。別に構わない。櫻井家の使いと間違われることは、しょっちゅうだったから。
「あの……初めてではありませんよね? 若葉のような緑の瞳を見たことがあります」
そう言って彼女は笑った。
飾らない素直な言葉を嬉しく感じる。
緑の瞳で良かったと、初めて思えた。
「どうしてここにいるの? もしかして帰るところだった?」
隣の家であることは聞いていたから、変に引き留めるのも失礼だ。
「いえ、ちょっと。思い出話で込み上げるものがあったので……」
「だったら泣けばいいのに。泣きたい時は泣いてもいいんだよ?」
気づけば、以前と全く同じことを言っていた。
「それはできません。だって私が泣くと、もっと悲しい三人が泣けないでしょう?」
彼女の方も同じことを言う。従弟達は、相変わらず面倒をかけ続けているようだ。
「じゃあ、君は? 君はいつ泣くの?」
「全てが終わったら。レナさんとの約束を果たせたら、その時にでも」
そう言った彼女の凛とした横顔が、今でも印象に残っている。子供と大人が混在しているその表情を、綺麗だと感じた。自分は別に幼い子が好きというわけではないし、容姿を重視する性質でもない。だけどなぜか一瞬、この子を近くで見ていたいという考えが、脳裏に浮かんだのだ。
「そう。じゃあ君はもう、泣かないのかな?」
「はい? いや……えっと、全然泣かないわけじゃなくって、きっと普通のことでは泣くっていうか……」
慌てる姿も昔のようで、とても可愛らしかった。大人びてはいるけれど、まだまだ子どもの君には甘えさせてくれる誰かが必要だ。だったら僕は君の近くで、君が約束を果たすのを見届けようかな?
「ところで、約束って何?」
「お母さんの代わりに、三人を幸せにするって約束したんです! 素敵な子を見つけてあげないと」
うーん、それはちょっと違うと思うな。その年で見合いを薦める仲人おばさんみたいになろうというの? 三兄弟の幸せは、むしろ君に直結しているんじゃないのかな。
「あの……。話を聞いていただき、ありがとうございました。お会いできて良かったです。おかげですっきりしました。本人達に、こんな話はできないので」
「役に立てたのなら嬉しいよ」
彼女は僕を、この場限りでも必要と言ってくれた。「櫻井家に取り入り負けるな」と母に散々たきつけられていたこの僕を。
約束の話は、三人には当分内緒にしておこう。
代わりに後継者争いからは降りるから。
それが僕の、母と櫻井の家へのささやかな抵抗だ。
「またね。君とはきっと、長い付き合いになりそうだ」
翌日、大学に進路変更を申し出た。
経営よりも興味のあった医学を学ぶために。
小さくても、人の役に立ちたいと願う子がいる。彼女にできて、僕に出来ないわけがない。
誰に何を言われようが構わない。僕は僕の意志で、直接誰かの役に立つ仕事がしたい――
こうして僕は、学園の校医兼養護教諭になった。仕事をしながら君を近くで見守るために。
「僕も甘えているかな? 紅に偉そうには言えないかもね」
自嘲気味に呟いた僕は彼女のことを頭から閉め出し、残していた仕事を片付けることにした。




