紫記の失敗3
慌てていたために、保健室を通り過ぎてしまったようだ。自分でも、何でここまでヒロインから逃げ回っているのか、よくわからない。ときめきイベントそっくりの状況があったからといって、紫記と桃華が必ずくっつくわけではないのに……
気が付けば校舎から遠く離れた運動場に来ていた。まだ体育祭の練習が始まっていないせいか、今の時間はガランとしている。ここまでくれば、さすがに誰も追いかけてはこないだろう。だけど、こんなところまで来るほどのことだったのだろうか?
ヒロインの登場を心待ちにしていたくせに、彼女が現れてからの私はおかしいと思う。まさかこのまま本当に、男の子になっちゃうんじゃあ……いや、恐ろしい考えはやめよう。
私が立っているのは外にある運動場。
ここは、競技場も顔負けなほど設備がバッチリ整っている。下は土や砂ではなく、赤や白のゴム素材。夜でも使えるようにナイター設備もバッチリだ。そのため学園の陸上部は人気で、いい記録が出やすいと聞いている。
「こら、紫記! お前、なぜ逃げる」
「うわっっ」
びっくりした。紅だ!
彼の足は長くて、走ると速いことを忘れていた。私は女子にしては速い方だけど、男子にはさすがに敵わない。だけどつい、反射的に足が動いてしまった。トラックを一周……とまではいかないけれど、紅に捕まらないように逆走する。
紅は何でわざわざ私を追いかけてきたの? 挙動不審な自覚はあったけど、どうせ自習時間だ。私のことは放っておいてくれたらいいのに。桃華に続いて蒼士、さらに紅輝とまでイベントのようなことが起こったら、さすがにシャレにはならない。ん? 紅輝と桃華のときめきイベントって確か――
学園の運動場だ!
思い出し、焦った私は途端にバランスを崩して転んでしまった。
「わわっ……」
顔から突っ込まなかったのは幸いだ。
けれど、身体を起こした時に手をすりむいてしまったことに気づく。運動神経には自信があっただけに、すごく情けない。
追いついた紅が、私の正面に膝をつく。
「さっきからいったい何なんだ。お前、昨日から変だぞ?」
言いながら私の手を取り、真剣な表情で怪我の状態を調べてくれている。
「擦り傷だけか。捻ってはいないし大丈夫そうだな」
「ごめん、ちょっとビックリしてしまって。でも、大したことはない。心配してくれてありがとう」
さっきからずっと、誰かに謝ってばかりのような気がする。世話役の自分が頼りないと思われてはいけない。あと少し、頑張ると決めたんだもの。私は紅にお礼を言って、元気よく立ち上がろうとした。
「くっっ」
足首に激痛が走り、再び座り込む。
痛みのあまり目に涙が滲んでしまう。
どうやら転んだ時に捻ってしまったようだ。
「痛い……」
俯いて、痛みを堪えようと歯を食いしばる。
「ほら、掴まれ」
紅が私の目の前に自分の肩を出し、掴まるように言ってくれた。肩を借りて痛くない方の足で歩けば、なんとか保健室までは行けそうだ。ありがたく肩を借りることにして、立ち上がろうと手を掛けた瞬間――紅が私の膝の裏と背中に手を回してきた。
「うわっ」
気がつけば横抱きに。
これはいわゆるお姫様抱っこだ。
「え? えぇぇ~~!?」
ちょっと待って。
これでは本当に桃華のイベント通りだ。
相手が私なだけであって、『運動場で怪我したヒロインを、お姫様抱っこした紅輝が保健室まで運ぶ』というゲームの設定通りになってしまう。
「何だ、何か文句でもあるのか?」
「いや。えっと紅、歩けるし、無理しなくても大丈夫だから。私重いし」
言ってて悲しいけれど、桃華の方が小柄だし背も低い。もっと軽くて抱えやすいはずだ。
「は? 紫は華奢だし余裕だろ。俺に抱えられるのが気に入らないとでも?」
「そんなこと言ってないよ。でも、悪いから。ゆっくり歩くよ」
「そして俺の時間を無駄にするのか? いいからもっと手を回せ。落っことすぞ?」
「えっと……それは嫌だ」
言われた通りに手を回し、落とされないようにしっかり抱き着いた。
私を抱え直した紅が、さっさと歩きだす。
お姫様抱っこがこんなに密着するものだなんて、思ってもみなかった。いくら身長差があるとはいえ、よくまあ軽々持ち上げられるものだな、と感心してしまう。
いつの間にか成長していた紅。
肩幅は私より広くて胸板も厚くしっかりしている。私を抱えているのに足どりは乱れず、息も切らしていない。小さな頃は私が守ってあげたのに、今はもうそんな必要はなさそうだ。今まで体格の差はほとんど意識したことがなかったけれど、抱えられた今になってようやく、幼なじみの男の子が大人になっていたことに気づく。
時の流れは速い。
私の守るべき小さな紅はもういない。
あと少しで世話役も必要なくなるから、寂しく感じてしまうかもしれない。
櫻井家に頼らず離れたい。彼らの幸せを見届けた後で、自分も頑張りたい――そう望むのは私自身なのに、寂しく思うなんて勝手だと本当はわかっている。
紅が大人だと意識してしまったことで、この体勢が急に恥ずかしくなってきた。それに、私は攻略対象なのにヒロインと同じ扱いを受けるのは、どうかと思う。
「まったく、どうして突然逃げたんだ。あの転校生とケンカでもしたのか?」
身体がピッタリくっついているせいか、紅の声が響いて伝わる。昔からよく知る幼なじみの声が、何だか知らない人のようだ。どうしよう、やっぱりすごく恥ずかしい。
「もういいよ、あとは自分で歩くから」
「いいから。しっかり掴まっていろ」
時間はまだあるのかな?
紅はまだ、ヒロインのことを『花澤さん』とも『桃華』とも呼んでいない。だったらイベントは先かもしれない。ヒロインを好きになるまでもう少し、猶予があるのかも。よく考えたら、桃華が怪我をするのは体育祭の練習の時。それなら紅とのイベントは来週以降だということになる。
今日は場所だけ一緒でも、時期と相手が違っている。私はヒロインなんかじゃないから。焦る必要は全くなかったのかもしれない。
「……紫?」
「ん? ああ、ごめん。ボーっとしてた」
「まったく、昨日から本当に変だぞ? あまり心配させるな」
紅が笑う。
変なのは紅の方かと思っていた。そうか、おかしくなったのは私の方なのかも。
だって、紅の低く優しい声とくぐもったような笑い声をもっと聞いていたいと思うなんて。
――そんなの、以前の私にはなかったことだから。




