“闇”との対峙
「お茶をどうぞ、お祖父様」
一人の娘が車椅子に座る老人に紅茶碗を差し出す。
老人はフィルディング一族の最長老ユーレルン。そして娘は孫にあたるエレナ=フィルディングであった。
「ありがとう。“狼犬”にそなたを託すと決めた時は、もうこの美味い茶は飲めないと思っておったよ」
「お祖父様のご期待に添えず、縁談話は棚上げになりました。せめてお茶のご用意だけならいくらでもさせていただきます」
エレナが微笑む。他の者の前では見せない飾り気のない笑みだった。
ユーレルンが滞在するのは中央王国クレドガルと西の大国ヤルライノをつなぐ複数の交易都市の一つ。ヤルライノとクレドガルの双方に働きかけるため、この交易都市の館に陣取っており、エレナも匿うつもりでここに帰還させていた。
「まったく、そなたのような良い娘を気に入らぬとは若き“狼犬”も見る目がないの」
ユーレルンは孫娘の前だけで見せる好々爺の笑みで茶をすするが、やがて手を止めると告げた。
「……アレッソス=バッソスが死んだ」
エレナが少し驚くが、慌てることはなかった。
「では、“狼犬”が──」
「そうじゃろうな。今回は儂もそれに乗って手を打つことにした。これで奴の口からいろいろと漏れる心配はなくなろう」
ユーレルンが窓の外を眺める。
「ヒュールフォン、ラングトン、そしてアレッソス──フィルディングの重鎮たるべき立場の者がまた消えた……一族の立て直しはまた容易ではなくなった」
老いの刻まれた瞼が伏せられる。
「……儂は“機神”の魔性というものを過小評価していたのかもしれぬ」
「お祖父様……?」
「古代文明最大の遺産たる《アルターロフ》を発見した時、それを管理・支配するのは当然、我らがフィルディング一族と思っておった。しかし、それによって時のフィルガス王を初め、多くの一族の大物がその力を手に入れようとして失敗した。“狼犬”という天敵に邪魔をされた──そう答えるだけなら簡単じゃ。しかし、それは言い訳ではないかと思っておる。“機神”──仮にも神の名を冠するあの古代文明の力は一族にとっても大きすぎた。その力を一族が持て余した結果が現在だと思うのじゃよ」
孫娘は黙って祖父の言葉に耳を傾けていた。
「ルーヴェン=ユールヴィングやその名を継いだ若き“狼犬”。それに一族でありながら叛旗を翻そうとした司祭長ウルシュガル……あの者たちの考えも分かっていた。あの“機神”の力を巡って人々は争い、より多くの運命を狂わせると──しかし、破壊のできぬ強大な力を放置はできん。誰かがその力を支配せねばならん」
ユーレルンは大きく息を吐いた。
「その役目は貴族の頂点である名門フィルディング一族が、どんな犠牲を出すとしても担うべき──儂はそれを信じて一族を支えてきた。しかし、“狼犬”たちの方が運命の先を見ていたのかもしれん………一族の凋落はひとえに儂の不徳の致すところじゃ。一族の祖たちに何とお詫びすればよいか」
エレナが祖父のシワだらけの手に自らの手を添える。
「お祖父様のせいではございません。“狼犬”との戦いや司祭長の造反など多くの事がございましたが、お祖父様は常に一族を支え続けてこられました。不甲斐なきはその期待に応えられなかった私たち、一族の未来を担う者たちです」
そう言ってエレナは祖父の手に自らの顔を乗せた。
「お祖父様、エレナはお傍にいます。力の限りお手伝いさせてください。今こそ一族はお祖父様の支えが必要な時なのです」
ユーレルンはエレナの頭に手を添えた。
「すまん……儂も不甲斐ない姿を見せてしまったな」
甘えるような孫娘を慈しむようにユーレルンがその髪を撫でる。
その時であった。
『ゴオアアアアアアアアアァーーーーッ!!』
二人の脳裏におぞましい咆哮が響き渡った。
「これは──!?」
ユーレルンの目が警戒に鋭くなる。
「エレナ!」
何かに気をとられたような孫娘に声をかけると彼女はすぐに我を取り戻す。
「──お気をつけください、お祖父様!」
エレナがドレスの裾をめくると足に隠していた短剣を抜き、祖父を庇うようにして短剣を構える。
「ユーレルン様! エレナ様!」
同じように咆哮を聞いたのか、警護の騎士たちが部屋に駆け込み、二人を守る。
一同は警戒を続けていたが、やがて咆哮は尾を引くように消えていった。
「……消えたか。ここはよい。状況を急いで確認せよ。いったい何があったのかをな」
「ハッ!」
騎士たちはすぐに立ち去り、再びユーレルンたちが残される。
「エレナや。今のあの叫び声、何か気を奪われるようなことがあったのか」
ユーレルンは訊ねる。
「……あれを聞いた時、別の何かを感じた気がしたのです」
エレナが答える。
「うまく説明できませんが……他の制御装置が応答する時の反応とよく似た感じがしたのです」
エレナが持つ“機神”の制御装置は支配権こそ一番下位だが、他の所持者全ての総意を得て特定の制御装置を凍結する特殊な権限を持っていた。それに付随する能力として他の制御装置の応答を感知する機能を持っていた。
「ですが現存する制御装置は私の持つ物が最後のはず。そんなことは……」
ユーレルンも考えるような顔をする。
「フィルディング一族は古代エンシア崩壊後、現存する制御装置を全て回収して秘匿していた。エンシアに遺されていた記録からもそれは間違いない。他に制御装置が存在しているとは思えん」
エレナが目を閉じる。
「それに気のせいかも知れませんが一瞬だけ、何者かの気配を感じた気がするのです」
「誰だね、それは?」
「分かりません。ですが黒髪の……若い男のような気がしたのです」
ヤルライノ大使館の地下。
その石床が淡く輝き、そこから鉄巨人が浮上した。巨人の胸装甲が開き、そこからマークルフだけが飛び降りる。
《グノムス》の中で待機するリーナが目の前の光景に思わず顔を背け、マークルフも思わず声を失った。
館の空気は血の匂いであふれかえっていた。
周囲の壁は血で染まり、床には犠牲者らしき者たちの変わり果てた姿が横たわっていた。
マークルフが返り血のついた壇を見る。ここにアレッソスの遺体が安置されていたはずだったが、何も残っていなかった。
そして床に散らばる機械の破片を睨む。アレッソスの左足に残したはずの装甲のなれの果てだった。
ヤルライノ大使館を後にしたマークルフたちは再び《グノムス》に乗り、地下を潜行する。
大使館は上階も襲撃されていた。生存者もなく襲撃者の姿もなかった。ただ怨恨じみた殺戮の犠牲者の亡骸が残っているだけだった。
マークルフとリーナは王城へと向かっていた。
「マークルフ様、まさかアレッソスが……」
「確かに奴の死体はなかった。しかし、奴一人の力であそこまでできるはずが──」
「もしかして魔女が?」
「分からん。ともかく陛下へ報告して犯人を突き止める。そいつがあの声の主かもしれねえからな」
地下を潜行していた《グノムス》が急に動きを止め、地上へと浮上を始める。
「グーの字、何か見つけたのか!?」
《グノムス》が浮上したのは城下街のどこからの広場のようだ。
その胸の装甲が開くとマークルフとリーナが降り立つ。
ここも血の惨劇と化していた。
中央にある泉の神像は破壊され、通行人たちが物言わぬ姿で倒れている。その全身が何か鋭いもので貫かれたり、斬りつけられたりしていた。
その無惨な亡骸に囲まれ、気丈に振る舞うリーナも悲痛な表情を浮かべる。
マークルフは無言で彼女の手を握り締めると周囲を見渡した。
生存者の存在は絶望的と思われたが、しかしマークルフは視界の端に動く人間の存在を捉える。
それは広場の端の軒下で床にへたり込んでいる二人の子供だった。
リーナも子供たちの姿に気づくと、すぐに手を離して子供たちの方に駆け寄る。
「大丈夫!? 怪我は!?」
子供たちは駆け寄ったリーナの姿を見ると呆然としていたが、やがて凍りついていた感情を取り戻したのか、張り上げるような泣き声をあげて彼女にしがみついた。
「怖かったのね。大丈夫、もう大丈夫よ」
惨劇を目の当たりにしてしまったのだろう。子供たちはリーナから離れようともせず恐怖に震え続ける。
「答えられるか? ここでいったい何があった? 誰の仕業か見たか?」
マークルフも周囲を警戒しながら近づくと子供たちに訊ねる。
しかし、子供たちを抱き寄せたリーナが代わりに首を横に振る。恐怖に怯えきった子供たちにそれを答えさせるのはあまりにも酷であった。
「ユールヴィング卿! 貴殿も来てくれたか!」
野太い男の声が響いた。
それは部隊の騎士たちを引き連れたディエモス伯爵であった。
伯爵も凄惨な現場に悼むように目を伏せるが、すぐに険しい顔を向ける。クレドガルの猛将と呼ばれるだけあり、この非道への怒りはあっても臆した様子は微塵もない。
「ユールヴィング卿は犯人を見たのか?」
「いや、俺もいま来たばかりだ。不幸中の幸いか子供が二人、生存していたが今は犯人を聞ける状態じゃない」
伯爵がリーナの庇う子供たちを目にとめると、部下に保護を命じる。
「ディエモス卿、あんたもあの咆哮は聞いたか?」
「ああ、この世のものとは思えぬ叫び声であった。その直後に通報があり、駆けつけたのだが……何が起きているのだ」
「分からない。先にヤルライノ大使館を見てきたが……そこも全滅だった」
「なんと……?」
突如、慌ただしく鐘の音が鳴り響く。それは城の危険を知らせる王城からの警鐘であった。
「おのれ! 城を狙ってきたか!?」
「ディエモス卿、俺たちが行く。リーナ! グーの字!」
マークルフの前に《グノムス》がやって来る。
リーナも騎士に子供たちを託すとマークルフの許に駆け寄る。
「先に行ってくれるか。我らもすぐに追う。気をつけてくれ」
「いや、ただの相手じゃなさそうだ。陛下たちは俺が助ける。ディエモス卿は付近の住人たちを避難させてくれ」
「貴殿だけで戦う気か? これだけの仕業、ただの相手ではないぞ」
「俺も伊達に“狼犬”の名を背負ってはいない。そう簡単に遅れをとるつもりはないさ。それに──その方がやりやすい」
マークルフの意を汲んだのか、伯爵はそれ以上は聞かずにうなずいた。
「分かった、引き受けよう。そちらは頼んだぞ」
「……まって!」
《グノムス》に乗り込もうとしたマークルフを子供の一人が呼び止めた。
「あいつ……あいつ! 鉄の……鉄の包帯まいたみたいな奴だった!」
怯えたまま子供が、振り絞るように告げた。
「からだじゅうに紅い水晶みたいなのがついてた……」
もう一人の子供も懸命に答える。
「それで……包帯みたいなのが……」
子供が何とか伝えようとする。思い出せば恐怖の惨劇が目の前で甦ってしまうだろうに、だ。
マークルフは子供たちの前に来ると二人の頭のそれぞれに手を添えた。
「もういい。それで十分に分かった……ありがとよ」
「お兄ちゃん……あの“狼犬”なんでしょ? “機神”と戦った、あの──」
「あの……あの化け物! 倒してくれるよね!?」
どうやら伯爵との会話を聞いていたらしい。
子供たちのすがるような目に、マークルフは穏やかに、そして不敵に笑みを浮かべた。
「ああ、教えてくれたおかげでそいつをぶっ倒しやすくなった。後は“戦乙女の狼犬”に任せろ」
英雄の名を信じて勇気を振り絞ってくれた子供たちの頭を撫でると、マークルフはリーナと《グノムス》の前に戻る。
「聞いたな、リーナ」
「はい。あれはまさしく──」
「そうだ。なおさら俺が戦わなければならなくなった。行くぞ」
二人は鉄巨人に乗り込んだ。鉄巨人は地中に潜行し、残された伯爵の部隊は急遽、周辺住人の避難を呼びかけて動き出すのだった。
「ここも危険です! 早くご避難を──」
近衛兵たちに守られながら、国王ナルダークと王妃は城の階段を降りる。
城が突如、何者かに襲撃されていた。城の一部がすでに破壊され、無差別殺戮を繰り返していた。
親衛騎士たちが迎撃しているがとても彼らで太刀打ちできる相手ではなく、避難の時間を稼ぐのが精一杯の状況であった。
だが身重の王妃を庇いながらでは避難もままならないでいた。
「陛下だけでもお先にお行き下さい。万が一のことがあれば、この国が──」
自分が足手纏いと悟った王妃が言うが、その手を執る国王は頭を振る。
「バカなことを申すな。妃と子を見殺しにして男に国王を名乗れというのか!」
階段を降りて二階まで来た国王たちはさらに下の階段を目指そうとする。
しかし、天井が砕け粉塵の中から何かが着地した。
それは全身に鋼を巻き付けたような黒き異形であった。
近衛兵たちが国王を庇って前に立つ。
『ゴアアアアッ!』
異形が叫ぶと全身から鋼のツタが飛び交う。それは黒い刃となって近衛兵たちを薙ぎ払った。
国王が王妃を抱き寄せて目の前の光景から庇うが、断末魔の悲鳴に王妃が悲痛に顔をしかめる。
「陛下ッ!!」
後続の騎士たちが剣を抜くが、異形が彼らに指を向ける。そこから紅い光弾が銃弾のように発射され、騎士たちを次々に貫いていく。さらに続く悲鳴から妃を守るように国王はその姿を覆うように抱きしめた。
やがて護衛を全て倒され、国王と王妃だけが取り残される。
『……き……さま……は……』
国王が王妃を庇って異形と対峙するが、真紅の甲殻に覆われた異形は何を見ているのか分からないまま呟く。
異形が一歩一歩詰め寄っていくが、その死の宣告のような歩みが不意に止まった。
足許の床からすり抜けた鋼の手が異形の脚を掴んでいた。その巨大な手が異形を投げ飛ばして柱へと叩きつける。
『ゴ……ラアァア』
戸惑っているような異形の姿。そしてその反対方向から新たな靴音が近づいて来る。
「陛下、ここは私たちにお任せを──」
靴音の主はマークルフ=ユールヴィングであった。
「ユールヴィング卿!?」
マークルフは驚く国王たちの横を通り過ぎながら上着を脱ぎ捨て、首元の襟を緩める。
その後ろからは黄金の髪をなびかせたリーナが付き従っていた。
マークルフの目は初めて見る、しかし見慣れてしまった姿の異形を睨みつけていた。
「陛下、あの化け物はこの“狼犬”めがお引き受け致します──リーナ!」
マークルフの全身に魔力の紋章が展開し、その右手をリーナに差し出す。
「はい!」
リーナが左手で真紅の紋章に包まれた右手を掴む。
『ガアアアアァ──ッ!』
異形が叫び、その背中から無数の鋼の触手が伸びる。しかし、その攻撃はマークルフの前で見えない光に阻まれて弾き返される。
リーナの姿が光の粒子となって散り、マークルフを中心に渦巻いた。
マークルフは異形へと詰め寄っていく。
再び鋼の触手が伸びるが、それも光の粒子に弾かれた。
その間にも手足に光の粒子が収束し、黄金の装甲となってマークルフの全身に装着されていく。マークルフは鋼糸を装甲で弾き返しながら踏み込むと、その異形の腹に蹴りを決めた。
異形は外壁を突き破り、城外へと落下する。
『陛下、王妃殿下。ここからは少々、手荒な戦いになります。お膝元を荒らすことになりますが、どうかご容赦を──』
目の前で変身した黄金の鎧姿に国王たちは目を奪われていたが、やがて国王は王妃の手をとって共に立ち上がる。
「頼みます。これ以上の人的被害拡大だけは何としても阻止してください」
国王が言うと、王妃を連れて避難しようとする。すると王妃が立ち止まって国王から離れると、マークルフの前で手を組む。
「……お願いします。生まれてくるこの子をこれ以上、血で染まった地で迎えたくはありません。どうか──」
普段、物静かな王妃が初めて見せた、切実な頼みだった。
『王妃殿下のたっての頼み、この“狼犬”がしかと聞き届けました』
黄金の鎧を纏ったマークルフがいつものように大仰に臣下の礼をする。
『それ以上の心労はお身体に障ります。どうか心を痛めるのはここまでにして、後はお任せを──』
「……頼みます。ユールヴィング卿」
国王たちが避難するのと同時に外から咆哮が響き渡る。
その咆哮は間違いなく、あの“咆哮”と同じものであった。
“黄金の鎧の勇士”となったマークルフが城壁の風穴の前に立つ。
『てめえがアレッソスなのかどうかはもはや関係ねえ──』
眼下は城の一部の崩壊で瓦礫に埋まっている。その瓦礫の上に黒き異形が起き上がっていた。
それは紛れもなく、人型の“機神”だった。
それはかつて二度──ヒュールフォンとオレフとの戦いで見た、“機神”の力を取り込んだその分身ともいえる姿であった。
足許の瓦礫の山から《グノムス》が浮上した。背中の装甲が開き、そこから黄金の槍が飛び出す。
マークルフは射出された黄金の槍を掴んだ。
『──その醜い姿を“狼犬”の前に晒した以上、逃がすわけにはいかねえ。今度こそ葬ってやる!』
黄金の武具を持つ勇士と黒き異形が、崩れ落ちた城の只中で対峙するのだった。




