突然の来訪者
ブランダルクでの決戦から数ヶ月。
戦い抜いた勇士たちも傷を癒し、いつもの日常に戻っていた。
しかし、戦いの運命は確実にこの“聖域”に訪れようとしていた。
「──お父様ッ!」
リーナは目を開けると机から顔を上げた。
そこはユールヴィング男爵領にある城の自分の部屋だった。
目の前の窓からは温かい日の光が差し、机とリーナの姿を照らしている。
どうやら机に向かったまま居眠りしていたようだ。
「申し訳ありません、お休みの邪魔をしてしまいましたか」
リーナが振り返ると、扉の前に畳んだドレスを抱える侍女服の女性が居た。キツい目と他の侍女たちへの厳しさで知られる侍女頭マリーサだ。
どうやら着替えを持って来てくれたらしい。
「いいえ。日差しが気持ち良くてつい──あ、いけない!?」
リーナは机に置いてあるゼンマイ仕掛けの時計を見て慌てて立ち上がる。
「マークルフ様に散歩に誘われていたのでしたわ。いま、どちらに?」
「それならきっと大丈夫ですよ」
マリーサが笑みを浮かべて窓の外を目で示した。
リーナが窓から外を覗くと中庭の木の下で寝そべるマークルフの姿があった。木陰で昼寝しているようだ。
「おやつをご用意してます。男爵様もお呼びして来ますわ」
「マリーサさん、私が行きます」
気持ち良さそうに眠っているマークルフの姿をリーナは微笑ましく見つめていた。
リーナは中庭に来ると木陰で眠るマークルフにそっと近づいた。
彼女の気配に気づいた様子はない。リーナは彼の傍らに腰を下ろした。
(よくお眠りだこと……いろいろあってお疲れなんでしょうね)
リーナはマークルフの寝姿を静かに見つめた。
貴族の礼服を粗野に着崩したいつもの飄々とした格好。その閉じられた瞼の奥には強い意志を湛えた眼差しがあることをリーナは知っている。
伝説の英雄にして傭兵の神と呼ばれた祖父の称号を若くして受け継ぎ、それからは傭兵たちの棟梁として、世間では道化として、そしてその裏では英雄の使命を継ぐ後継者として常に戦ってきたのだ。
リーナがこの地上に目覚め、彼に拾われてから数年。
最初に彼によって発見された時も、眠っている自分を彼はこうして見ていたのだろうか。
何故、地下深くでリーナを守りながら眠っていた《グノムス》がマークルフの前に現れ、彼女を託したのか。
その理由は分からない。口のない《グノムス》から答えを聞くこともできない。
ただ、地下深くに鎮座するという“神”と接触したことは間違いなく、その時にリーナは“神”の娘たる戦乙女として生まれ変わった。
彼の前に現れたのも、彼を勇士とするべく最初から決められていたのかも知れない。
(でも──)
マークルフは遙か過去から脱出してきた彼女を迎え入れ、何も分からない時代の真っ只中で陰謀などから守ってくれた。そして、箱入り娘として育てられた自分には分からなかったいろいろな事を教えてくれた。
リーナもいつしか彼の生き様に惹かれ、彼の戦乙女として共に戦う道を選んでいた。
(これだけは間違いなく言える)
たとえ仕組まれていた出逢いだとしても、この出逢いから始まった運命は全て自分の意志で選んだ道だと──
(いまの私では新たなエンシアは叶いませんが、お父様の願い通り、私を迎えてくれる人に出逢うことができました。そして、正しいと思える生き方も見つけることができました)
地面に投げ出された彼の左腕にリーナは右手で触れた。細い指をそっと這わせていく。
そして感謝の気持ちを込めて驚かすべく、彼の左手を握りしめようとした。
ムギュ
リーナが左手を握るよりも先に、彼の右手がリーナの右胸を握っていた。
「……」
一瞬、何が起きたか分からないリーナだったが、やがて顔を紅潮させる。
「きゃあああッ!?」
「のあぁあッ!?」
驚きに仰け反ったリーナの後頭部がマークルフの顔面を直撃。二人とも悲鳴をあげた。
「……な、何をする、リーナ!?」
「それはこちらの台詞です! いきなり何をされるのですか!」
顔を押さえて地面をのたうつマークルフに、リーナは腕で胸を庇いながら叫んだ。
「いやぁ、すまんな。驚かそうと手を掴むつもりが目測を誤って胸を掴んでしまった」
マークルフが胡座をかきながら答えた。
「どこをどう目測を誤ったら、手と胸を間違えるのですか!」
「まあ、寝ぼけていたからなぁ」
目を背けてしらばっくれるマークルフにリーナは口を尖らせて背を向ける。
「……まったく、出逢った頃のマークルフ様はもっと紳士的でしたのに。間違ってもいきなり胸に触るなんてされませんでしたわ」
「そりゃあ騙されてるな。殿方なんてそんなもんだ」
反省の色なしのマークルフにリーナは呆れてため息をつく。
「マリーサさんがおやつをご用意されてるそうです。お伝えしましたからね」
「そんな時間か。分かった。マリエルと少し話があるから、その後で行くと伝えてくれ」
「かしこまりました」
リーナは投げやりに答えると、歩き去っていく。
(まったく、お調子者のところも相変わらずですこと──)
リーナは内心で再びため息をついた。
「……少しやばかったな」
リーナが館の中に入っていくのを見届けたマークルフは、リーナが握ろうとした左手を睨む。
指が微かだが勝手に震えていた。握られていたら左手の意変に気づかれていただろう。
「男爵、お待たせしました」
やって来たのは一人の妙齢な女性だ。
傭兵部隊の根城では場違いな女性らしい身だしなみをしており、知的な双眸が整った美貌を引き立たせていた。
ユールヴィング家の許で古代科学を研究する科学者の一人マリエルだ。
「ああ、待ってたぜ。すまないな」
マリエルは水の入った杯と小さな小物入れを手にしていた。
「いえ。それより、姫様の悲鳴が聞こえましたが──」
「それは気にするな。リーナに男の本性というものを教えただけだ」
マークルフは冗句で答える。
普段なら訝しむだろうマリエルだが、いまの彼女はただ思い詰めた表情を浮かべていた。
「もらうぜ」
マークルフは小物入れから丸薬を取り出すと、水と一緒に飲み干した。
「余計なお使いをさせて悪かったな。気合いを入れて遊びにいくところだったんだろ?」
「それはお気遣いなく。どうぜ、あいつらに新しい服を買わせようとしただけでしたから」
マリエルが苛つくように腕を組む。
あいつらとは彼女の姉エルマの下で働く部下二人のことだ。
「まったく姉さんが戻ってきてから、あいつらのだらしなさが一段と酷くなりましてね。また最初から叩き直しですよ」
「もう諦めたらどうだ? あの姐御あってのあの子分らだ」
「そうはいきませんよ。いまは《アルゴ=アバス》の修復という大仕事の最中です。気を緩めて、何かやらかされては困りますからね。気を引き締めさせるためにも、まずは身だしなみからしっかりさせないと」
いま研究部門ではユールヴィング家に伝わる家宝、古代エンシアの遺産でもある強化装甲の修復が進められていた。
「ま、そうギスギスするな。あいつらだって、いざという時はきちんと仕事してくれてるじゃねえか」
「いいえ。そういう気持ちが油断になり、失敗につながります」
厳しい態度だが、マリエルがいてこそ研究部門の運営がグダクダにならずに済んでいるのも事実だ。
そうしている間にも、マークルフの左手の痺れが収まっていった。
マリエルが持ってきたのは強化装甲装着の後遺症を抑える薬だ。先代装着者ルーヴェンが晩年、使っていたものをマリエルが密かに調合して用意していたのだ。
「さすがによく効くな。丁度、近くに居たのがマリエルで運が良かったぜ」
マークルフは左手の発作が現れたため、居合わせたマリエルが薬を持ってくるまで昼寝とごまかしながら待っていた。
だから、リーナが起こしに来た時は正直、冷や汗ものだったのだ。
「何が運が良いものですか。もしものために薬は用意してましたが、正直言えばこの薬を使う姿は見たくありませんでした」
「ものは考えようだ。リーナに悪戯する言い訳ができたと思えば悪くはねえさ」
マークルフは軽く笑って立ち上がるが、マリエルの表情は暗い。
数ヶ月前のブランダルク決戦直後から、マークルフは後遺症の症状が現れ始めていた。あの激しい戦いが肉体に大きく負担を与えたのは間違いない。
まだ頻度や症状は大したものではないが、確実に強化装甲使用の負荷が肉体を蝕み続けているのだ。
この事実を知るのはマリエルとエルマ、そして腹心のログだけだ。
他の者にはまだ事実を隠している。特にリーナにだけは知られるわけにはいかなかった。
リーナは大破した《アルゴ=アバス》に代わる“鎧”として共に戦い、自分を守ってきた。彼女自身も危機に何度も陥っていたが、それでも挫けずに自分を支え続けてくれている。その彼女の献身が彼の命を削っているという事実は、たとえ彼自身が騙していたとしても伝えることはできなかった。
「……後で常備薬を持ってきます。ですが、薬はあくまで症状を抑えるものです。休息は必ずとってください。これは装着者の体調を管理する立場としての命令です」
「分かってるさ。それよりも、どうやってリーナのご機嫌を取り戻すかの方が頭が痛いな」
憂慮するマリエルにマークルフは腕組みをして首を傾ける。
「こちらでしたか、閣下」
その声と共に現れたのは黒の外套を纏った長身の男だ。ユールヴィング家に先代から仕える若き副官ログだ。
「どうした?」
「どうやら到着されたようです」
マークルフは顔をしかめた。
「チッ、リーナのご機嫌取りも後回しか」
「どうされたのです?」
マリエルが訊ねる。
「本国から爺さんがわざわざ来たらしい」
マリエルが目を丸くする。
「まさか──そんな連絡なんて受けてもないですよ」
「お忍びのつもりなんだろうさ。当然、俺たちの情報網に引っ掛かることは計算の上でな。それよりも気になるのは爺さん自ら出向いて来た事だ」
マークルフは頭をかいた。
「ログ、すまんが出迎えに行ってくれ。お忍び気分なら、どうせ最初に立ち寄る場所はあそこだ。老人の寄り道に待たされたくないからな」
「承知しました」
「こんにちは~」
侍女服の少女が《戦乙女の狼犬》亭を訪れると声をかける。
最近、意識して伸ばしつつある栗色の髪と相変わらずな平たい体型の彼女の名はタニア。ユールヴィング家に下働きに出された侍女だ。
「女将さーん」
タニアは見回すが店内には女将の姿はなく、代わりに隅の席で酒を飲んでいる男三人組を見つける。男爵の部下である傭兵たちだ。
「よお、タニア。女将さんなら奥にいるぜ」
「何であんたたちがここに居るのよ」
「非番だよ、非番」
タニアがこれ見よがしに呆れた顔をする。
「真っ昼間から酒臭いわね、あんたら」
「そう言うなって。隊長と違ってちゃんと自腹で注文してるんだぜ」
別の男が答える。
「そうだぜ。先代様だって賑やかな方が楽しんでくれるだろ」
さらに別の男が柱に掛かった肖像画に向けて酒の入った杯を掲げる。先代のユールヴィング当主ルーヴェンの肖像画だ。
「調子良いわね。先代様の名前まで使ってさ」
「そう言うなよ。女将さんはもうすぐ戻るがそれまで一杯、飲むか?」
「あたしは仕事中!」
タニアたちが言い合っていると、扉が開いて杖を突いた一人の旅人が入ってきた。
外套をすっぽり被ってよく分からないが老人らしい。やがて一人でタニアたちの近くのカウンター席に座った。
「お客さんですか? 待っててください。すぐ女将さん呼んできますから」
タニアが気を利かせて奥の女将を呼びに行こうとしたが、老人の手がタニアの肩を掴んだ。
「いやあ、構わんよ。別に急がん。それより、良かったら儂と一緒に飲まんかね?」
「エッ、いや、あたしはその──」
「遠慮せんでも良かろう。久しぶりに若い娘と飲むのも一興じゃて」
「こ、困ります。あたしは城の用があって──」
タニアが困っていると、傭兵の一人が老人の手を払った。
「おう、ジジイ。うちの城のもんに手を出そうってのか」
「タニア、気をつけろよ。おまえのような飾りっ気と男っ気のない方がこういう変態ジジイに狙われやすいんだぜ」
他の傭兵たちもタニアと老人の間に割って入る。
「じいさん、あんたも年を考えろよ、年をよ」
「そうそう。手を出すにしても、もう少し人を選びやがれよ。若けりゃ何でもいいのかよ」
最後の奴は食事の量を減らしてやると誓いながら、タニアは事態を見守る。
外套姿の老人もいかつい傭兵たちに囲まれながら怯んだ様子はない。
「ほう、おぬしらは《オニキス=ブラッド》の傭兵か。なるほど、ルーヴェンの頃と雰囲気はちっとも変わっておらんの」
老人が肖像画を見ながら外套の奥で笑う。
「ルーヴェン? おい、ジジイ! いま先代様を呼び捨てにしやがったな!」
傭兵の一人が詰め寄ろうとするが、その眼前に杖が突き出される。ただの老人とは思えない動きだった。
「確かに、仮にも先代の領主を呼び捨ては良くなかったな。これは失言じゃったかな」
だが傭兵たちの腹の虫は収まらない。
「おい、ジジイ! 何様か知らねえが上から物を言ってるんじゃねえぞ。傭兵舐めるのもいい加減にしろよ!」
「ねえ、ここであんまり騒がない方がいいんじゃないの?」
「そうはいかねえ、タニア。傭兵の神様と呼ばれた先代様への無礼を許すわけにはいかねえ」
タニアがなだめに入るが、酒も入っているのか傭兵たちの苛立ちは収まらない。
その様子を前に老人も杖を下げると、外套に手をかけた。
「やれやれ。お嬢ちゃんが気づくまでの冗談のつもりじゃったが、女将の店でこれ以上は騒ぎを大きくできんな」
そう言って老人は外套を後ろにずらして顔を見せた。
タニアが大きく目を見開き、表情が驚愕に変わる。そして男たちを突き飛ばすと老人の前に土下座でひれ伏した。
「す、す、すみませんでした!! ま、まさか、こんな所に来るとはちっとも気づかずッ!!」
タニアの何時にない慌てふためきように傭兵たちも面食らう。
「お、おい、どうしたんだ?」
「早く! あんた達も謝るのよ! とんでもなく無礼なことをしちゃったのよ!」
「どういうことだ?」
慌てるタニアと戸惑う傭兵たちの前に酒瓶を持った細面の老婦人が現れる。
この酒場の女将だ。
女将は老人を見て、すぐに和やかな笑みを見せた。
「あら、懐かしい声と思いましたが、やはりバルネス様でしたか」
「久しぶりだな、女将。驚かないということは儂が来るのを知っていたか」
「若様が来るかもしれないと言ってましたから。ご壮健そうで何よりですわ」
「いや、最近、忙しいのだが身体が追いつかん。やはり無理はしたくないな」
なごやかに話す老人と女将の間で傭兵たちは呆然としていた。
「……女将、その人は──」
「あら、ご存じなかったの? それにタニアちゃんも来てたのね」
床にひれ伏すタニアに気づいた女将は酒瓶をカウンターに置いて答えた。
「クレドガル本国のバルネス大公様ですよ」