天使たちの脅威
ブランダルクは“聖域”東南部に位置する王国だ。
神の娘“神女”の伝説を持つ伝統の国として知られていたが、愚王ガルフィルスの悪政により長く苦難を強いられて来た。
だが、若き英雄“戦乙女の狼犬”と帰還した“最後の騎士”の尽力によってブランダルクは正当なる王を取り戻し、長い再建の道を進めている途中だった。
その王城ブランテレスの通路に一人の少年が立つ。
赤みがかった髪、窓の外を見つめる幼さの残った顔立ちと、それに似合わぬ豪奢な衣装。
齢十五にしてブランダルクの王となった少年王フィルアネスだ。
「陛下。奥でお茶の用意ができております」
声をかけたのは側近の大臣だった。
「何だ、わざわざ大臣が知らせに来てくれたのか?」
通路の窓から夜の景色を眺めていたフィルアネスは大臣の方を向く。
大臣は恭しく頭を下げたままだ。
「分かってる。今はあまり表に出るなって言いたいんだろ」
フィルアネスはもう一度、外を見つめる。
月の浮かぶ夜空を背に丘がそびえていたが、その丘は半ば崩壊し、徹底的に破壊された建物の残骸が散乱していた。
王城の離れにあった館。そして、その地下にあった秘密施設の成れの果てだ。
「……使者はもうユールヴィング領に着いた頃かな」
フィルアネスは廃墟の姿を見つめながら大臣に尋ねる。
「はい。予定通りなら、そろそろかと――」
「そうか。男爵なら奴らに後れを取るとは思わないけど、用心に越したことはないからな」
フィルアネスはそう言うと破壊された敷地を眺め続ける。
「……陛下。一度、居城を別に移されてはいかがでしょうか?」
「探索の結果、天使に狙われそうな古代エンシアの施設があったのは、あの館の地下だけなのだろう?」
「その通りでございますが、我らも把握しない施設が残っていた場合、危険は残ります」
「案じてくれるのは有り難いが余はこの城を離れない。城に居るかどうか決めるのは余だ」
フィルアネスは宣言するように告げる。
「畏れながら、再びあの“御使い”たちが現れることも――」
「たとえ奴らが現れたとしても、余は逃げる訳にいかない」
フィルアネスは大臣の方に振り返ると厳しい表情で答えた。
「余はブランダルクの王だ。この城は王国の要だ。余が王城を出たら、それこそ奴らに屈するようなものだ。それは断じてできない。たとえ相手が“神”の眷属だとしても――」
フィルアネスの苦悩を知る大臣は何も答えず、ただ恭順するように頭を下げた。
大臣が下がり、やがて代わりに一人の恰幅の良い中年女性が銀の盆を抱えてやって来る。
「フィルアネス様。お茶をお持ちしました」
フィルアネスは微笑む。
「ありがとう、マリアさん」
フィルアネスは盆の上からティーカップを手にする。
この器はユールヴィング家から友好の印として献上された物だった。
「マリアさん、もうすぐ使者団が男爵のところに到着する予定だよ」
「そうですか……城の皆様はやはり不思議がっておられましたよ。他国の男爵様の使者に正規の兵ではなく傭兵を使って良かったのかって――」
「一応、説明したんだけどな。男爵は傭兵の棟梁的な立場の人だから、使者に傭兵を使う方がむしろあの人への礼儀になるって――」
フィルアネスは他の者には見せない少年のような苦笑を浮かべた。
「やはり、少し言い訳としては苦しかったかな」
「宜しいんじゃありませんか。男爵様の型破りな人柄は有名ですからね」
フィルアネスは眠気覚ましの紅茶をすする。
「フィルアネス様もあまり根を詰めてお身体に障わらないようにしませんと――─」
「分かってる。でも、できるうちにたまった仕事は片付けたいんだ」
重臣たちが身を粉にして働いてくれているが、それでも王の裁定を必要とする案件は多い。自分が少しでも早く決裁することでブランダルクの復興が進むのなら、少しでも急ぎたかった。
「……でも、やっぱり悔しいな。俺にも男爵みたいに戦う力があれば――」
「大丈夫ですよ。きっと男爵様はフィルアネス様の意を酌んでくださいます」
「男爵には迷惑のかけ通しだな。いつかこの国を助けてくれた恩返しをしなきゃいけないと思っているのに――」
フィルアネスはティーカップを見つめる。
そこには絵本の挿絵のように赤毛の少年と少女が手を取り合う絵が描かれていた。
カップの制作者である小さな妖精娘が描いてくれたものだ。
「リファ、あんまり向こうで迷惑かけるなよ」
「もぉおッ! 男爵さんの所にまで出てくるなんて、あぁッ、あいつら本当にむかつく!」
執務室の革椅子に座ったリファが手足をばたつかせながら癇癪を起こしていた。
「分かった、分かった。腹が立っているのはよーく分かったから、こっちにも分かるように話せ」
向かいの席に座るマークルフがげんなりした顔をしながら、なだめる。
城に帰還したマークルフは主だった者たちを自分の執務室に召集していた。
マークルフとリーナが並んで座り、その両脇にはログとエルマが立つ。
対面の席にはリファとサルディンが座っていた。
傭兵によって構成されたブランダルク使者団の代表として、領主であるマークルフに謁見しているという形だ。
「これにお目通し願います。使者団の役目はこれを若に渡すことです」
そう言ってサルディンが懐から親書を取り出す。
マークルフは親書を受け取ると封を切ってそれに目を通した。
国王となったルフィンの形式に則った挨拶文が並び、親しみを込めるように献上した紅茶碗についてのお礼が述べられていた。
そして本題に入り、ブランダルクが現在、直面している脅威について記されていた。
「……やはり、ブランダルクにも天使どもが現れていやがるんだな」
「そうなの! 兄ちゃんがせっかく国を立て直そうと頑張っているのに! 酷いでしょう、男爵さん!」
「わ、分かったわ、リファちゃん。気持ちは分かるから、もう少し読む時間をちょうだいね」
リーナが地団駄を踏むリファをなだめた。
その横でマークルフは親書を読み続ける。
ルフィンが国王の座に就いてから後、光の翼を持つ“天使”が各地で目撃され始めた。彼らは神出鬼没で、ブランダルクの各地に遺されている古代文明の遺跡などを見つけては、主に兵器などを破壊しているという。
先日には王城にも現れ、先王ガルフィルスが利用していたエンシアの地下施設を襲撃している。幸い、ルフィンは無事だったが地下施設は破壊され、阻止しようとした警備の騎士たちにも犠牲者が出ていた。
ルフィンが使者を送ったのは古代技術を擁するユールヴィング領にも天使が襲撃する危険を警告するためで、最後にルフィンの言葉で十分に気をつけて欲しいと記されていた。
「サルディン。ルフィンは強化装甲や俺自身が奴らの標的になると思ったわけだな」
「そうです、若。もっとも俺たちが来る前に天使どもの方が先に来ちゃいましたけどね」
サルディンが答えると、横で会話を聞いていたエルマが腕を組む。
「“聖域”決壊部分に直面するブランダルクはその影響を一番に受けます。決壊の影響で“聖域”の作用が不安定になり、その隙を狙って天使たちは現れているのでしょう」
“聖域”は均衡の力である大地の霊力を集めることで魔力を枯渇させ、“機神”を封じている地だ。
それは同時に魔力の対の力である輝力も枯渇させることであり、そのために今まで“神”の眷属も出現することがなかったといわれている。
「その天使たちが“聖域”の影響が消えた間隙を狙ってここにも出現しました。距離に関係なく“聖域”の影響がない場所なら自由に出現できると考えるべきでしょうね」
マークルフは親書を懐にしまった。
「リファ、兄貴は現在も王城から離れてないんだな」
「うん。国王の自分がここから離れるわけにはいかないって――」
リファが心配そうに答えた。
「ようやく正統の王として立ったというのに、あいつも苦労しているな。ブランダルクは“神”の娘だった神女の伝説が根強い国だ。そこに天使たちが現れて暴れるのは厄介な話になりそうだ」
サルディンが頷いた。
「おっしゃる通りで、若。一部では神女信仰を利用して人心を集めようとする輩が出たり、フィルアネス王のやり方を気に入らない連中が神罰だ何だと無責任に触れ回ったりしてましてね」
ギシリと音がする。横に立つログが革手袋に包まれた左手を握り締めていた。
「……神女は民自身の手で国の命運を切り拓くことを望んでいました」
ログが口を開く。
「それを為そうとする国王を追い詰めるために自分の名を出されることなど、決して神女は望んでいません」
ログは神女が創設した〈白き楯の騎士団〉最後の生き残りだ。神女の剣と遺志を受け継いだ最後の男の言葉は、淡々としていたが重く一同の耳に響く。
「そもそも、あの天使たちが悪いのよ! もう、思い出すだけで腹が立ってくる!」
リファが立ち上がってやり場のない怒りを吐き出す。
サルディンがなだめながら説明を続けた。
「国王は領内にある古代遺産の破壊と未発見の古代遺跡がないか探索を急いでます。天使どもが襲撃する前に先手を打って衝突を未然に防ぎたいようです。本当はあいつらを倒してしまいたいところですけどね。俺の部隊も一度、天使どもと遭遇しましたけど全く手も足も出ませんでした」
サルディンも打つ手がない現状を落胆するように肩を落とす。
マークルフは立ち上がった。
「ルフィンの伝えたい事はだいたい分かった。俺もリファと同感だ。ブランダルクでは随分と苦労したんだ。あの連中に邪魔されるなんざ腹が立つぜ」
双子の兄とブランダルクの行く末を願ったリファこそが、神女の願いを受け継いだ少女だと思っている。その彼女の怒りこそがブランダルクの義憤そのものだろう。
「サルディン、お前はブランダルクに戻るんだな?」
「ええ。返事をお伝えしなければなりませんし、こう見えて向こうじゃ“龍聖”と並んで国王に頼りにされてる傭兵なんですぜ」
「だったらルフィンに伝えてくれ。そっちの頼みは引き受けたってな」
マークルフはいつもながらの不敵な笑みで言った。
「リファはこちらで預かる。天使どもが来たら倒すつもりでいる、とな」
「さすが若、話が早い。検閲される親書じゃ頼めませんのでね。それを若に頼むのが俺の本当の仕事だったんですよ」
リファの正体は古代エンシア文明の技術で生まれた〈ガラテア〉という人造生命体だ。天使たちにとっては破壊すべき標的となるかも知れない。
ルフィンが使者団を傭兵で構成し、その中にリファを含めたのはマークルフに守ってくれるように頼みたかったからだ。
離れていても双子の妹の身を案じる兄貴なのは変わらないのだ。
「国王も悩んでおいででした。“狼犬”としての戦いがある若に迷惑を押しつけるようで本当に申し訳ないと。自分の手で天使たちに太刀打ちできないのが悔しいと――」
「気にするなと伝えてくれ。盟友の頼み一つ引き受けられないで“狼犬”は名乗れないからな。それに天使たちとは、どのみち戦うつもりでいた」
マークルフはそう言うと、これ見よがしに顔をリファへ近づける。
「それよりも聞いたぜ。ここに着いた矢先、天使どもが襲ってると知った瞬間、一人で突っ走って来たらしいな」
「それは……ブランダルクを荒らしてるアイツらが男爵さんところにまで来て暴れていると思ったら、もう居ても立ってもいられなくて……あたしでも役に立つことがあればと――」
「実際、そのおかげでこちらも助かったから怒りはしないけどな。しかし、天使どもに気づかれて何かあったら俺がルフィンに顔向けできなくなる。今後は無茶な真似はするな」
「……反省してます」
リファが身を縮めて頭を下げるが、すぐに顔を上げた。
「ともかく、そういうことなので必要ならあたしの身体いくらでも使って良いからね。あたしもここにご厄介になるからにはそれ相応の覚悟はして来ているからさ、男爵さん!」
隣にいたリーナが目を丸くするが、マークルフは思わず吹き出す。
「まったく相変わらず面白い奴だな。まあ、必要になった時だけ魔力を使わせてもらうぜ。魔力を吸い出すのってかなり痛いらしいからな」
「ところで男爵さん?」
「何だ?」
「さっきから居るこのお爺ちゃん、だれ?」
リファが部屋の隅で安楽椅子に座っていた大公バルネスを指差す。
リーナが再び目を丸くする。
「リ、リファちゃん!? そ、その方はね、クレドガルのバルネス大公様よ」
「クレドガルって中央王国の? タイコウ様……それって偉い方の大公様!?」
今度はリファが目を丸くする。
「し、失礼しました! あの、あたしリファといいまして、男爵さんたちにはお世話になってまして、その、無礼は謝りますので、どうか兄ちゃんの方にだけは――」
「気にするな、リファ。この城に居る間はただのお節介な爺さんだ」
マークルフは笑いながら、ペコペコと頭を下げるリファに言う。
「初めまして、お嬢さん。エルマから聞いておるよ。若いながらに兄王共々苦労して来たそうだね。儂もここでは客の身だが歓迎させてもらうよ」
バルネスは和やかに答えるが、その目が鋭くなりマークルフに向けられる。
「坊主、天使たちと戦う理由が増えたな」
「ああ。祖父様の時から引き受けてる約束もあるしな」
リファが不思議そうにしながらマークルフの顔を見る。
「男爵さん、約束って何?」
「そのうち教えてやるが――ユールヴィングがあの強化装甲を手に入れた時から、天使どもとは戦う宿命にあったって事さ」
マークルフは辛くも撃退した天使たちの姿を思い出していた。
「あれは俺が見た魔導王国の強化装甲にそっくりだった。いや、複製と言ってもいい」
洞窟の壁に背を預けながら、狼頭の天使ファウアンが言った。
場所は“聖域”外縁部のさらに外側にある夜の荒野。“聖域”の影響のない岩山の洞窟内に天使たちは集っていた。
ファウアンの言葉に他の三人の天使たちが注目する。
「貴方の推測があるなら聞かせてください。我々よりも魔導技術に詳しい貴方の意見が必要です」
仲間たちの中心に立つ少女天使クーラが話をうながす。
「魔導王国の王女を名乗る娘が本物の戦乙女とするなら――あの黄金の鎧は装着者自身が持つ強化装甲の情報を基に戦乙女が武器化したものと考えている」
「“神”の娘が魔導王国の武器に身を変えたとでも言うのか!?」
地べたに座っていた森人の天使ドラゴが反発する。
魔導技術を禁忌とする天使たちにとって、それは神聖な存在が忌むべき存在に自ら堕ちる愚行そのものだった。
「あくまで推測だ。強化装甲の装着者、戦乙女、そして“聖域”……この特殊な要因が揃えばあり得ると思っただけでな」
「馬鹿な! “光”と“闇”の均衡を無視するような存在があり得るわけがない!」
「確かに信じ難いが、その姿を我らは揃って目撃しているのも事実だ」
苛立つ森人に獣人が冷静に答えた。
その姿を交互に見ていた外套の天使が獣人に尋ねる。
「ねえ、ファウアンが見たその強化装甲は破壊できたの?」
「破壊するつもりだったが、邪魔が入ってできなかった」
「貴方の邪魔をするほどの者がまだいたというのですか?」
クーラが尋ねる。
「そちらが考えるような戦士ではない。昔の友だった妖精族の男だ」
ファウアンの頬を掠めるように壁に何かが刺さった。黄金の針枝だ。
投げたドラゴが険しい表情を浮かべる。
「まさか昔なじみの情にほだされて見逃したわけではあるまいな」
ファウアンは黙って針枝を引き抜くとそれを投げ返す。
針枝はドラゴの足許に突き立った。
「見くびらないでもらおう。そんな情で見逃すことはせん。俺の邪魔をしたのは奴そのものではなく、奴に感じた本能だ」
「本能?」
天使たちが一斉に訝しむ。
「ああ。俺は強化装甲を破壊しようとした。しかし、それを奴に阻まれた時、本能的に身体が動かなかったのだ。あれは畏怖というべきものだった」
ドラゴが針枝を引き抜く。
「まったく意味が分からん。その妖精族の男に恐れるほどの何かがあるというのか?」
「奴は口を閉ざしているが、その背後に大きな意志を感じた。俺の中の天使としての本能がその意志に手を出すなと訴えているように感じたのだ」
「それが貴方を畏怖させるほどの何かだと? それは何だと思うのですか?」
クーラがファウアンの前に立ち、その狼頭を見上げる。
「それこそ推測でしかないが、天使の本能が畏怖する存在は限られている」
ファウアンはその名を口にする。
「我らを覚醒させ、しかし、いまだ誰も謁見したことのなき“神”――」
「それこそあり得ん! 魔導王国滅亡は“神”の意志だったはずだ! その“神”が魔導王国の尖兵を助けているというのか!」
ドラゴは認められないとばかりに憤慨する。
「……考慮しなくてはなりません」
クーラが他の天使たちに告げた。
「戦乙女があの者を“勇士”として選んでいるのは事実。しかし、その戦乙女自体は“神”の娘としては不完全な存在でした。あの尖兵が“神”の意に添った存在かどうか、まだ決めることはできません」
「どちらにしろ、あの力は油断できんか」
少し冷静になったドラゴが呟く。
「“聖域”は今まで俺たちが手を出せなかった場所だ。強力な魔導王国の兵器が残っている事には注意せねばならんな」
森人の隣で外套の天使がお手上げとばかりに両手を挙げる。
「どちらにしろ、僕らは“聖域”の影響のない場所にしか干渉できないし、次にいつあの場所に干渉できるか分からないしね。その時で様子を見るしかないんじゃない?」
「ええ。“聖域”の監視役であるあの人も力を貸してくれます。こちらはこちらでやるべき事をやりましょう。ウェドの前に魔族も現れています。あの者たちとも戦いになるでしょう。注意してください」
クーラが“聖域”の外郭である山脈を見つめた。
「あの者たちの目的もわたしたちと同じ、“聖域”の真の“中心”でしょうから――」