剣の道標
マークルフは紙を手にし、それに記された内容に歯を噛みしめる。
「……あの天使め。俺たちの情報網を逆手に取りやがった」
それに記されているのは副長ログの代理としてのサルディンからの命令だ。
副長ログの目的と行き先、天使と決闘になる期日を広く喧伝すること、もし、ログの味方をする者がいればその者は殺して天使が去ること、そして、人質を助けるために副長自身が承知しているという事も付け加えられていた。
傭兵たちは普段から使う独自の情報網を維持し、それを駆使して世界の危機に当たっているが、あの“監視者”の天使はそれを利用したのだ。
「どういうことなんで……」
暗号文を持ってきたウォーレンも困惑した顔をする。
「“機神”に味方する側がログの命を狙って集結するだろう。だが、味方はいない。いや、ログなら加勢も拒むだろう。きっと一人で戦うつもりだ」
「なんてこった……各地で子供たちの隔離が始まり、異形の出現が減っているっていうのに、天使の野郎、いったい何を考えていやがるんだ」
ウォーレンも苛立ちを吐き出すように拳を掌に打ち付ける。
「──何か、あったの?」
後ろから二人の様子を眺めていたリファが声をかけた。
「リファか……いや、ユールヴィング領から繋ぎがあってな。準備は進んでいるがやっぱり俺が戻った方が捗ると思ってな、俺だけでも先行して戻ろうと話していたところだ」
マークルフは紙を握りしめると答えた。
「ウォーレン、腕利きを選んで準備をしてくれ。リファ、お前は本隊と一緒に後から来てくれ」
マークルフは護衛を連れてログの後を追うつもりだった。それは“機神”との戦いに必要な魔剣回収と同時にログの安否を確かめるためだ。
「……何かあったの?」
リファが尋ねる。
「何かあるのは今に始まったことじゃないさ。心配するな、領地に戻るまでには合流するさ」
マークルフは安心させるように軽口で答える。
だが、リファを連れていかないのは最悪の事態を想定してだ。それを見せたくも、見られたくもなかったからだ。
先日、エルマを失ったこともあり、焦燥を隠すことはできなかった。
(ログ、“機神”との決着を前にお前まで脱落なんて、俺は認めねえからな)
とある洞窟の中。
そこにタニアはいた。
左足に重りと繋がった枷を付けられ、その場にうずくまっていた。
「──大人しくしていたようだな」
洞窟の外から人影が現れる。
鎖帷子を頭から纏い、襟巻きで顔を隠した男だ。
「──誰のせいだと思っているのよ!」
タニアが顔を上げると叫んだ。
「これでも人質としては丁重な扱いの方だぞ」
タニアをさらった天使──“監視者”が告げる。
さらわれてから約一週間。確かに長い鎖の枷を付けられて洞窟から抜けられなかったが、それ以外はほぼ放置で自由にできていた。
「元気の出る朗報をやろう。もうじき“狼犬の懐刀”がここにやって来る」
シグの魔剣を求めて追跡するログの話を、タニアも囚われている間に“監視者”自身から聞いていた。
「……それであたしを人質にするつもり?」
「俺が知る限り、あの男に近い位置に居るのはお前だからな。だからこそ、憐憫とやらを覚えるよ。そっちがどんなに好意を抱いてもあの男には届かないだろうにな」
タニアはそっぽを向く。この“監視者”がなぜ、そこまで詳しく知っているのか分からないが、そんな話に付き合うつもりはなかった。
だが、“監視者”は構わずに話を続ける。
「あの男の望みは自分が必要とされなくなった世界だそうだ。つまり、あの男の幸せを望むお前の願いなど、向こうには何の意味もないってことだ。お前はそれで満足なのか?」
タニアは“監視者”を無視する。
「俺に言わせればまったく馬鹿げている。あの男は自分が救いたいと願っている世界の中に、自分自身を勘定に入れていない。奴の正義は“罪人の正義”だ。奴は自分の存在が“罪”だと断じ、それを償うことを目的に生き続けている……くだらん生き方だと思わんか、小娘?」
「ふざけるな!」
タニアは我慢しきれずに顔を向けると怒鳴った。
「ログさんの苦しみをそんな一言で片付けるな! 何がくだらないよ! あんたがやってる事の方がよっぽどくだらないわよ! 天使だったら、あんたこそ世界を救いなさいよ!」
「威勢のいい小娘だ」
“監視者”が襟巻きの下で笑う。
「だが、俺も馬鹿げた男とそれが望む世界のために戦う気にはなれんでな。ただ、問題は奴が厄介なほどに剣の使い手だということだ。俺も手こずるかもしれん──だから人質を用意してみたが、あの男ならお前ごと俺を斬ってくるかもしれん……それでも、お前はあの男に好意を寄せるのか?」
“監視者”は問う。
タニアは黙っていた。
だが、睨みつける彼女の視線を“監視者”は鎖帷子の奥で見つめ続ける。
「……斬られても構わないか」
“監視者”は瞬時に剣を抜いた。
タニアは一瞬、怯むが、予想された一撃は来なかった。
“監視者”は逆手に持った剣を地面に突き刺し、枷の鎖を断ち切っていた。
「用済みだ。消えるがいい」
思わぬ相手の行動にタニアは戸惑うが、“監視者”が剣を収めるのを見て立ち上がった。
警戒しながらも“監視者”を迂回して洞窟の外へと向かう。
「……まったく、小娘のくせにそんな覚悟を決めるもんじゃない」
“監視者”が呟いた。
何気ない言葉だったが、今までの憎まれ口とは違う何かを感じた。
「……あんたは何のためにログさんと戦うのよ」
人質も必要とせず、それでもログと戦おうとする相手にタニアは訊いていた。
「“罪なき者の罪”──」
「えっ?」
「くだらん天使の目的を一言で片付けるなら、そうなるだろうか……とっとと消えるがいい。もうじき、あの男を狙う刺客が大挙して押し寄せてくるかもしれん。巻き込まれんうちに逃げた方がいいぞ」
それだけ言って“監視者”は外を指差した。
「まっすぐに下ることだ。それであの男に合流できるだろう。ただし、安全は保証しない。途中でお前がくたばるなら、それもあの男が支払う代償ということだ」
タニアはしばらくその姿を見ていたが、外に向かって走り出した。
外はすでに暗くなっていた。
いまだ空は闇の力に覆われていたが、幸運にも闇の切れ間から月が姿を見せていた。
タニアは月の光に照らされた林の中を進む。
なだらかな傾斜になっており、このまま下ればログと合流できると言っていた。それが本当かは分からないが今はとにかく下る道を行くしかなかった。
その途中、向こうで灯りを見つける。
誰かがいるのに気づいたタニアはそちらに行こうとして、すぐに踏み止まる。
そして向こうに気づかれないように身をかがめて静かに先を進んだ。
(そうだ、ここにはログさんを狙って人が集まっているって言ってた)
“監視者”が言っていた。
ここには“機神”との戦いを妨害したい連中が集まるだろうと──
世界の救済を望まない者が実際にこの場にいるのだ。
(何でよ……ログさんたちは必死に世界のために戦っているのに……どうして、邪魔なんかしようとするのよ)
“監視者”は言っていた。
世界の救済を望まない悪意は思いのほか多い。世界を生け贄にしてでも自分の救済を望む者の姿を自分はよく見てきたと──
世界の危機にこそ、悪意は牙を剥くと──
タニアは先を進み続けた。
どこにいるのか分からない場所を僅かな光を頼りに一人で進むのは怖かった。
そして同じ人間の持つ悪意が近くにいることが何より怖かった。
「──いま女がいた! 近くにいるぞ!」
近くで声がした。
タニアは息を殺し、静かに進み続ける。
近くで雑踏が聞こえた。
目的は分からないが、捕まったら間違いなく酷い目に遭わされる。
その恐怖から必死に逃れようとタニアは隠れ続ける。
(ログさんも……きっと、こんな恐怖とずっと戦いながら──)
ログが属していた〈白き楯の騎士団〉が殲滅され、彼一人だけが生き延びた戦い。
周りにいる全ての兵士が自分を狙ってくる戦い。
敵意と悪意の包囲に味方は誰もいない。
自分の首を狙って襲ってくる数多の敵を、きっと無我夢中で斬り捨てながら逃げたのだろう。
正義でも、理想でも、信念でも、義務でもない。
ただ、生き延びるために斬り続けたのだ。
(ログさん……)
「いたぞ!」
その声にタニアは脱兎のごとく駆け出す。
悲鳴も出せない。声も出ない。少しでも余計なことをしたら背後にいる悪意に捕まる。
その恐怖だけが足を動かし、足をもつれさせようとする。
林を抜けた。
その先はなだらかな傾斜になった草原だ。
不意に視界が傾く。地面のくぼみに足をとられ、タニアは勢いをつけたまま坂道を転がり落ちた。
思いっきり身体を叩きつけ、目の前が揺れる。
どこをどう打ったか分からないが全身が痛く、すぐに立ち上がれない。
そして、背後から男たちの声が聞こえた。
タニアは声にならない叫びをあげた。
誰も聞いてくれない絶望の底で挙げるしかない、心の底からの悲鳴だった。
「──ゴハァ!?」
タニアを正気に戻したのは奇妙な声と何かが地面に倒れた音だった。
そしてタニアの横を何かが過ぎ去る。
そして続けざまに起きる悲鳴──
やがて静寂に包まれた。
「……大丈夫か、タニア?」
絶望で動くことを拒否していた身体に力を取り戻させたのは、聞き覚えのある優しい声だった。
振り向こうとしたタニアの頭をがっしりした手が止める。
「見るな」
声がした。視界の隅に地面に倒れた人の姿が見えたが、すぐに担ぎ上げられて、それも見えなくなる。
「すまない。怖い思いをさせたな」
左腕でタニアを抱えあげたログが声をかける。
「……ログ……さん?」
安堵が押し寄せ、嗚咽が喉元まで迫り上がる。必死にそれを押し殺そうとするが、その姿をログは優しく見つめる。
「我慢しなくていい……ここで泣けないと後で泣けなくなる」
今までになく優しいログの双眸だった。
タニアはログの胸に顔を埋めると、堰を切ったように涙と嗚咽があふれ出す。
ログが泣きじゃくるタニアを抱えた歩き、やがて近くの岩のかげに下ろした。
「すみません……ログさん……あたし……」
タニアは涙を拭う。
「それでいい」
ログはそれだけ答えると振り向いた。
「わたしがここに来たのは気づかれた。タニア、君はここから逃げるんだ」
ログは右手に剣を握って一歩前に踏み出すと、森の方を睨む。
「……ここから先、君が見てはいけない光景になる。行くんだ」
「ログさん! 行くことはないです! 一緒に戻りましょう!」
タニアは叫んでいた。
「魔剣を取り戻す方法はみんなで一緒に考えればいいじゃないですか! あたしも手伝いますから! ログさん一人が背負うことなんて何も──」
ログが振り向いた。その穏やかな視線がタニアに注がれる。
「ありがとう。だが、ここで魔剣を取り戻さねば“機神”との決戦に間に合わなくなる。それに、これがあの天使が用意した試練なのだ。逃げるわけにはいかない」
「でも! また──」
タニアは必死に引き止めようとするが、言葉がでない。
「ダメです……行ったら……」
ここで止めないと、ようやく近づくことができたのに、またあの恐怖と闇の向こうに行ってしまう──なのに言葉が続かない。引き止める言葉が出てこない。
「──二百十三人」
ログが不意に呟いた。戸惑うタニアに彼は続ける。
「あの戦いで“最後の騎士”に倒された騎士・兵士たちの数──わたしが斬り捨てた数だ」
「ロ……ログさんは悪くありません! みんながよってたかってログさんを殺そうとしたから、無我夢中で戦うしかなかったんじゃないですか!」
「いや、無我夢中ではない。わたしはもっと多くの人間を斬っている。何人か斬ったら他から剣を代えるために数えていた。おそらく実数は三百人を超えているはずだ」
「やめてください! そんな、自分を殺人鬼みたいな言い方なんて!」
淡々と答えるログの姿がタニアには痛々しく思えてならなかった。
「ログさんは本当はとても優しい人なんです! あたしだって、他のみんなだって大好きなんです。そんな自分を傷つけるようなことを言ったらダメです! 団長さんだって、アデルさんだって、ログさんにそんなことをさせるために後を託したんじゃ──」
ブンッ
風を切る音がして、自分の顔に何かが当たった。
ログが剣を振り下ろしていた。
タニアは訳が分からぬまま、顔に手を当て、その手を見つめる。
手に血糊がついていた。手だけでなく服にも血が染まっていた。
「アアッアッ!?」
タニアは悲鳴をあげた。
ログはその姿を今までになく悲しげな眼差しで見ていた。
「今のわたしには斬り伏せた相手の断末魔の悲鳴よりも──タニア、血を見てあげたその当たり前の悲鳴が堪えられない……そんな男でしかないんだ」
ログが再び背を向けた。
林の向こうから人の喧噪が聞こえる。多くの雑踏が押し寄せようとしている。
「タニア、行くんだ。そしてこの事を閣下に知らせてくれ」
「ログさん! せめて、あたしも何かお手伝いを──」
「来るなと言ったはずだ!」
追いすがろうとしたタニアに向かって向けたログは語気を強めた。
ログは剣を逆手に持ち、地面に突き刺した。
血に染まった剣がタニアとログを隔てるように刀身を光らせる。
「ここから先、来てはいけない」
ログは歩くと倒れていた男の一人から剣を取り上げ、素振りをした。
鋭い刃がこれからログが踏み入る道を暗示するようだった。
「いたぞ!」
林の向こうから一団が姿を現した。
思い思いの姿、思い思いの武器──
ただ、ログに対する敵意だけで結びついた者たちの姿が──
「行け!」
ログが叫び、先頭を走る男を迎え撃つ。男の剣を受け流したログは返す刀で男の首に刃を押しつけていた。
「ま、まってく──」
「タニア!」
命乞いを無視した剣が翻り、タニアは思わず目を背けていた。
「目を背けろ! 耳を塞げ! ただここから背を向けて走るんだ! 行くんだッ!!」
タニアは立ち尽くす。
「行くんだッ!!」
その声に押されるようにタニアは走り出した。
目を背け、耳を塞ぎ、背後で始まった惨劇から逃げ出すように走り出した。
「うあああああぁッ!!」
タニアは叫んだ。涙を流しながら叫んだ。
ログを見捨てて逃げる自分に叫ばずにはいられなかったのだ。
ログは刺客たちに囲まれながらも、逃げていくタニアの気配を背で追っていた。
(そうだ、それでいい……ここから先を君が知ることはない)
ログは右手の剣を構えた。
あの時は何も分からぬまま地獄に放り込まれ、気づいた時には血に染まりきった道に踏み込んでいた。
だが、今度は自分の足で血塗られた道に踏み込み──
「死ねえッ!」
襲いかかってきた刺客たちをログは一刀の下に斬り捨てた。
そう、今度は自分の意思で惨劇を始めるのだ。
ログの動きに残った者たちは怯み、化け物を見るような畏怖の目で彼を凝視する。
ログは進む。
彼の背後で地面に突き立てられた剣──月明かりに照らされた血塗れの刀身は、まるでここから先の惨劇を示す道標のようであった。