“狼犬”と“希望”を支える双肩
クレドガル王都内――
“聖域”内の国々の盟主である中央王国の都。
そこを馬を引く男が歩く。
外套に身を包んだ長身の男は街路で足を止め、周囲を見渡した。
破壊された建物や焼失した一帯が目につき、道端では身を寄せ合う人々の姿も目立つ。
だが、同時に建物の復旧を急ぐ人々の掛け声や、それでも遊んでいる幼子たちの笑い声も耳に届く。
ログは空を見上げた。
闇の帳の隙間から漏れるように太陽の光が差す。
彼がここに来る間にも空を覆う闇は少しずつ綻びが広がり、光が地上を照らすようになっていた。
人々も、少しでも光が当たる場所に身を寄せ合うように集っていた。
(――エルマ、本当によくやってくれた。感謝する)
ログは感じていた。
地上を襲う“闇”の侵攻は人々を絶望に落としたが、この光が少しずつ彼らに希望を取り戻させつつあることを――
彼女と初めて会った時の会話を思い出す。
当時、彼は先代ルーヴェン=ユールヴィングに拾われたばかりで、騎士時代とはまったく違う傭兵の生き方に戸惑っていた頃だった。
『ルーヴェン閣下の芝居に付き合っていればいいんです。給金もらって、やるべき事をやって、それで人々が勝手に“希望”を見てくれれば万々歳じゃないですか。今日より明日が良くなることを願わない人々はいないのです。まあ、たまにそのための芝居に罵声を浴びせる悪い観客もいますから、それを追い出す役を貴方がすればいいんです』と――
あの後、仕事をしろと怒るマリエルに首根っこを掴まれて連れて行かれたが、彼女が“狼犬”の生き方を深く理解し、応援していたのだと知った。
それからログは懐刀として、エルマは頭脳として二代に渡る“狼犬”芝居の立役者を務めてきたのだ。
「どけ! どけッ!」
街路から剣を持つ男たちが走って来るのが見えた。
その後ろから兵士たちが追って来る。
ログは近くにいた少年に気づくと、そちらに馬を引く。
「……すまない、手綱を持っていてくれないか」
少年が綱を預かると、ログは腰から鞘ごと剣を抜いて逃げて来る男たちの前に立つ。
「邪魔だ!」
ログと追い払おうとする男たちの姿がすれ違う。
ログは剣を軽々と躱すと次々に鞘で男たちを打ち倒し、昏倒させていく。
最後尾の一人が迂回して逃げようとするが、瞬時に抜かれた剣の刃が男の眼前に突きつけられた。
観念した男が尻餅をつくと同時に追いついた兵士たちが男たちを捕まえる。
隊長らしき男がログの前に立った。
「助かった。こいつらは追っていた強盗たちでな。しかし、良い腕をしているな。どうだ? 人手が足りないんだ。こっちに雇われる気はないか?」
「悪いがわたしには仕えている人がいる」
「ああ、やっぱり、そうだな。このご時世、腕が立つ者は幾らいても足りないからな。ともかく、協力を感謝する」
兵士たちが男たちを縄にかけて連行していく。
周囲から拍手喝采が起こった。
見れば人々がログを称賛している。
目立ち過ぎたと思ったログは静かに馬を預けていた少年の所に行く。
「すまなかったな」
「おじちゃん、強いんだね」
少年が手綱を渡しながら憧れるような目でログを見上げていた。
ログは手綱を受け取ると馬を引いて先を歩く。
背後から人々が歌を唱うのが聞こえた。
ログは昔を思い出す。
あの少年の目は、かつて騎士になりたいと願った幼き自分の目であった。
そして人々の自分たちを鼓舞させる歌も騎士団に在籍していた日を思い出させる。
騎士仲間たちが酒宴の席で肩を組み、国の未来を願ってよく歌っていたものだった。
あの憧れも、仲間たちの姿もログの中から消えた。
全ては“最後の騎士”の名と共に消えたのだ。
だが――
それでも、やるべき事はまだ残っていると思い出は突きつける。
(そうだ、わたしもやるべき事をやろう。エルマ――わたしも戻って来れたら、その時は酒でもおごらせてくれ)
大公バルネスの屋敷。
その応接室でログは座って待っていた。
「待たせたな」
やがて扉が開き、主である大公が姿を現す。
ログは立ち上がると頭を下げた。
「多忙の中、急な訪問をお許しください」
「いや、こうして無事な姿を見られただけでも良かった」
二人は向かい合って座る。
ログは大公に現状を語った。
エルマが“聖域”の復活に成功した事。
それに伴い、自分もシグの魔剣入手のために動いている事。
そして、その魔剣を追ってこの王都まで来た事を――
「……そうか。皆、自分の使命に従い戦ってくれているのだな。すまんな、この老いぼれには現状、何もしてやれん」
「いえ。ここまでやって来れたのは大公閣下のご尽力があったからこそ。ここまで来た以上、何としても“狼犬”の悲願を果たすために舞台を整える――それがわたしのやるべき、副官としての最後の役目と思っています」
「坊主も辛抱しているんだろうな」
「はい。魔女たちを排除できない限りは閣下も動けません。この現状、自分が真っ先に動けないことに歯がゆい思いをされているようです。それに……」
ログは言い淀む。
「リーナ姫のことか。この世界で今、一番に戦っているのはあの姫かもしれんな。祖国に背を向け、“狼犬”を導く戦乙女としての運命に殉じようとしている」
大公が目を伏せた。
「あの少年と少女は今までよく戦ってくれた。これはもうルーヴェンの時代から引き継いだ戦いではない。あの子たち自身の戦いだ。この戦いの果てにどのような答えを出そうと儂はそれを認め、従うとしよう」
「ありがとうございます」
「無論、戦いはこれからだ。ここでもいろいろと起きている。まずは王妃殿下が城に戻ってきた」
「王妃様が!? しかし、王妃様は魔女の依り代にされているはず! 陛下をお近づけになるのは――」
「分かっている。だが、殿下の身を案じる陛下を無理に止めることもできん。監視は常につけているがな。それにいまだに目を覚まされん。まるで時が止まったように眠ったままだ」
大公が両手を組む。
「お腹の御子に関しては?」
「母子の健康を考え、手術で取り上げる案も出ている。ただ、殿下があの状態では何があるかも分からず、従医たちも二の足を踏んでいる」
王妃は戻って来たが問題は何も解決していない。国王陛下をはじめ、城にいる者たちの苦悩は察して余りあるものだった。
「大公閣下。“機神”と同化しているヴェルギリウス=エンシヤリスは、古代エンシア王家の血を引くあの御子を受肉先として転生する計画のようなのです。ならば、この戦いでの決着がつくまで出産を引き延ばそうとしているのかも知れません。だから、一番安全な場所としてこの王宮に身柄を返したのかもしれません」
大公も苦渋の顔を見せる。
「無理な引き延ばしが母子の健康に及ばねばいいがな」
「わたしも急ごうと思います。魔剣の存在がここから離れているようです。これからわたしもここを発ち、追おうと思います」
「急ぐか。だが、その前にそなたに検分してもらいたい遺体がある」
「わたしに? その者に何が?」
「ここに戻る前に報告を受けたのだがな、城下街の広場で女の遺体が見つかった。いつの間にか転がっていたそうなのだが、実は報告にあった魔女の一人と特徴が一致しているのだ」
「魔女が!?」
「にわかには信じ難かったが、おぬしが追う魔剣を持つ天使がここにいたとすれば話は違ってくる。その遺体をここに運ばせている。確認してくれんか」
ログと杖をついた大公が遺体安置室に足を踏み入れた。
奧の石台に問題の遺体が布に覆われて安置されている。
ログは台の前に立つと布をめくり、顔を確かめた。
それは褐色の肌を持つ若い女だった。
「間違いないか」
「……はい。トウという名の黒剣使いの魔女です」
致命傷は正面から胸への一撃。正確に心臓を捉えている。
傷口から見るに至近距離から突き刺されたようだ。
「誰にやられたか分かるか?」
「この魔女は相当の剣の使い手でした。それを剣で倒すとなれば――わたしが追ってきた天使の仕業と考えます」
「そうか。やはり、その天使と交戦して返り討ちに遭ったと考えるべきか」
ログは布をかけ直す。
あれだけ苦戦させられた魔女が目の前で物言わぬ骸となっている。そのことに戸惑いは隠せなかったが、それでも朗報には違いなかった。
「大公閣下。この事を急ぎ隊長へ伝えていただけますか?」
「無論だ。魔女の一人が討たれたとなれば、それだけ坊主も動きやすくなるだろう。急いで繋ぎを送るとしよう」
「わたしも天使の追跡を続けます。次の目的地は――エールス村方面に向かうと一緒にお伝えください。お願いします」
「エールス村――その魔剣を管理していた村ではないか。天使はそこに向かっているというのか?」
「はっきりとは分かりませんが、その方面から剣の呼びかけを感じるのです。ともかく向かいます」
「――待て」
ログは先を急ごうとするが、大公が呼び止める。
「何度も引き止めるようですまん。これは個人的な頼みだが――奴にも挨拶をしてやってくれんか」
大公の部屋。
ログは用意された簡素な祭壇に向かって黙祷を捧げる。
そこには回収されていたルーヴェン=ユールヴィングの小さな骨壺が安置されていた。
「いずれ“狼犬”亭の女将に託そうと思っておったが、それもままならんでな。ここに置いたままでいる」
背後に立つ大公が告げた。
黙祷を終えたログが目を開ける。
「ルーヴェンの前だ。一つ、聞かせてくれんか?」
大公がログの隣に並ぶ。
「ログ、そなたは最後まで“剣”として生きるつもりか?」
ログは長い沈黙の後、答える。
「そうなると思います」
「〈白き楯の騎士〉を捨てたそなたに、ルーヴェンは“狼犬の懐刀”の称号と生き方を与えた。だが生涯、その称号を背負って生きろと言った訳でもない」
「はい。ですが、わたしはそれで良いと思っています。光差す世界の片隅で地面に突き立った剣――先代様から教えられたその生き方が、わたしが選ぶべき生き方と考えます」
大公は亡き友の遺骨に向かって静かに息を吐く。
「――だ、そうだ。ログのことも頼まれていたが、どうやら、お前以上に頑固者のようだ。お前が適当に並べ立てた言葉に従って生きるとなれば、儂ももうお手上げだ」
大公が呆れたように言う。
だが、それはログの決意を認めてくれた事でもあった。
「先代様、わたしは貴方に拾われた恩を決して忘れません。血に染まり、生き方を見失っていたわたしに“剣”の道を説いてくださった事も決して忘れません」
ログは一歩下がると、大公と先代の遺骨に向かって深々と頭を下げた。
「大公閣下にもいろいろとお世話になりました。この恩は“狼犬”の悲願を叶える手伝いを果たすことでお返ししたいと思います」
大公閣下は手にした杖を持つと、その先でログの額を突いた。
「今生の別れのように言うでない。天使と相討ちになってでも魔剣を取り戻すように聞こえるではないか」
「あの魔女を倒した相手となれば、そうなることも辞さないつもりでいます」
「ログよ、礼を言うのはこっちだ。ルーヴェンと坊主、二代に渡って“狼犬の懐刀”をよく務めてくれた。おぬしがいなければ坊主も“狼犬”を名乗れなかっただろう――だから、戻って来い。あの世のルーヴェンに土産話を持っていくのは儂だけでいいのだ。いいな?」
「――ありがとうございます、大公閣下」
夜――
マークルフの居る天幕に伝令が駆け込んで来る。
「どうした!?」
「て、天使がここに――」
椅子に座っていたマークルフは立ち上がる。
「どの天使だ!?」
「こ、小娘の天使です! すでにマリエルさんたちが――」
マークルフは《戦乙女の槍》を手にすると天幕から飛び出た。
確かに陣営の外れに少女天使クーラが立っているのが見える。
そして同じように報告を受けたのか、マリエルとアードたちの姿もそこにあった。
マークルフもそちらに急ぐが、少女天使の掌に妖精たちの姿があるのを見ると離れた場所で足を止める。
やはり《グノムス》をこの手で倒した自分がプリムの前に現れるのは気が引けた。
離れた場所にリファも立っていたが、マークルフの姿に気づくとそちらに近づいて来る。
リファも不安を隠せないようだ。
マークルフは静かに彼女の頭に手を乗せる。
「姉さんは? あの狼頭の天使も――」
姉の姿を探すマリエルが尋ねる。
それを聞いたプリムの表情が泣き顔に変わった。
「……ごめんなさい……ごめんなさいッ」
プリムが涙を流しながら天使の手の中でうずくまる。
「すまん……二人はプリムを助けるために残ってくれたんじゃ」
ダロムがプリムの背をさすりながら説明した。
エルマは霊力の乱れの影響で動けなくなったプリムを助けようとして脱出を途中で止めた事。
そして狼頭天使ファウアンは妖精たちを拳の中に隠して岩盤に埋め込み、自らの身体を盾にして庇った事を――
「儀式が完了した後、“要”と“神”の力の解放による凄まじい地形の変動が発生しました」
少女天使が言った。
「それに伴い、地下空洞は崩壊しました。自由になった私が探した時にはファウアンもあの科学者の姿もどこにもありませんでした」
「……ファウアンの最後はワシが見ている」
ダロムが続けた。
「ワシとプリムを握ったまま奴は地下の崩壊からワシらを守ってくれた。変動が収まった後、奴の手は光の粒子となって消えていきおった……姐さんも、あの崩壊では逃げ場所はあるまい」
マリエルの唇が震える。アードたちも目を強く閉じた。
「ごめんなさい……プリムのせいで……プリムが……」
言葉にならず嗚咽を続ける妖精娘。
それを見たマリエルは妖精娘にそっと指を伸ばした。
「……ありがとう、プリムちゃん」
マリエルは微笑み、指で小さな頭を撫でる。
「おかげで姉さんの一世一代の作戦は成功したわ。これで“聖域”も立て直せる。大変だったでしょう? ごめんね」
マリエルの優しい言葉に、プリムは顔を上げて呆然とする。
「姉さんはいつも勝手なことばかりする人だから……気にすることはないわ。ゆっくりと休んでちょうだい」
プリムは黙ったまま、静かになる。泣いているのは確かだが、マリエルの言葉に多少は救われたようだ。
様子を見ていたマークルフにダロムが気づくと、天使の手から飛び降りて地面に立つ。
「そちらにも伝えておきたいことがある。あの黒髪の魔女が森人の天使と相討ちになって倒れた」
それは間違いなく朗報であった。
苦しめられた魔女の一人が倒れたことは大きな戦果だ。
だが、その代償は余りにも大きかった。
「それに姐さんからの言葉も預かっておる――『土壇場は用意できそうです。そこに立つかどうかは男爵にお任せします』と言っておった」
ダロムがマリエルの方にも向く。
「そっちにもある――『マリエル、アードくん、ウンロクちゃん、後は頼んだわよ』とな」
その言葉にマリエルが拳を握り締める。
天使がプリムをアードに渡すと、光の翼を広げて浮いた。
「私も儀式で力を使い果たしました。しばらく休息します。“聖域”の復活によって私もどこまで手伝えるか分かりませんが、必要になればまた出てくると思います。それでは――“槍”に選ばれた勇士よ」
クーラが槍を持つマークルフにそう告げると姿を消した。
沈黙に支配されたその場をマークルフはしばらく見つめていたが、やがて口を開く。
「……妖精のじいちゃんもプリムもよく無事に戻って来てくれた。今はゆっくり休んでくれ」
マークルフはリファに顔を向ける。
「リファ、妖精たちはそっちの天幕で休ませてやってくれ。それとアード、ウンロク。お前たちは“機神”の動向の監視を続けてくれ」
マークルフはそれぞれに命じた。
皆もその意図を汲み取ったのか、何も言わずに妖精たちと一緒にここを離れた。
その場にはマークルフとマリエルが残される。
「……本当に勝手よ」
マリエルが背中を向けたまま呟く。その背はマークルフの目にも分かるほど震えていた。
「自分はいつ消えてもいいなんて言っておいて、ホイホイと戻ってくるくせに――慌ただしく出て行った時に限って……何で戻って来ないのよ!」
マリエルが堪えきれないように叫んだ。
「まだ戦いは終わってないのに……何でもかんでも押し付けていくな……バカぁ……バカァッ!!」
そう言ってマリエルは一人、泣き始める。
その姿をマークルフも悲しみをもって見守っていた。
彼にとってもログと並ぶ“狼犬”の双肩だった同志を失ったことになる。
ここまで“機神”との戦いを続けられたのは彼女のおかげだ。
だが、それでも嘆くことはできなかった。
彼女は最後の導きを遺したのだ。
“狼犬”と“機神”の因縁に決着をつける舞台への階段を――
マークルフは空を見上げる。
闇の帳の綻びは先日よりも広がり、星の光が所々に見え始めていた。
(ログ……てめえも勝手に消えるんじゃねえぞ)
もう一人、彼を決戦の舞台に上げるために動く腹心の無事を彼は願う。
そして祈る。
科学は人々と世界の発展に寄与すべし――誰よりもその信念に殉じた一人の科学者に敬意と哀悼の祈りを捧げるのだった。