リーリとユイ
「リーリ、リーリ、目を覚まして下さい」
「うーんっ」
眠気眼にユイの声が響いた。
窓には朝の光が差し込んでいた。
まだ夜明け前だと思っていたリーリは、あれ?と不思議に思った。
側に置いていた目覚まし時計はちょうど九時まで三分前を示していた。
「・・??」
リーリは時差の調整を忘れたのかと思った。でも、フラン国に着くと時計の針を現地の時刻に合わせたのを思い出した。
九時三分前。
リーリはベッドから起きようとしたけれども、襲ってくる眠気は心地よい。もう一度、布団を頭から被ぶろうとした。
あと三分眠ろう。
「リーリ!」
朝日が昇っているにも寝ぼけ顔のリーリにユイは腹を立てていた。心の中でリーリは「もう少しだけ、もう少しだけ」とぶつぶつ唱えていた。だけれども、ユイは構わず腕を力一杯引っ張ってベッドから引きずりだそうとした。
体を小さく折りたたんで眠っていたリーリは思わず痛み声を上げた。
「痛いっ、痛いよ、ユイ!」
「リーリは寝坊助ですね。そんなことだと、せっかくの朝がもったいないですよ。この瞬間の朝はもう二度と訪れないのですから、寝坊は絶対にしてはいけません。ほら、宿の外を見て下さい、リーリ。重たそうな甲冑を着た騎士達が表通りを歩いていますよ」
リーリはもう少だけ布団に包まりウトウトしていたかった。でも、ベットにうずくまっていると側を離れないユイが布団をめくり上げようとする。それに、窓の外に覗く空は天高く、ユイが言うように朝が過ぎているようだった。
「分かったよ。今起きるから」
冷たい洗面水が頰に気持ちいいけれど、重たいカバンを背負い続けたせいで肩こりがひどい。いつもならグッすり眠ると元通りだが、時差ぼけの影響で体が重たい。
リーリは目ヤニのついた顔を洗うと、騎士の行列を窓から眺めた。
マナ教騎士団。
世界で最も美しいとされる星の守り手。
リーリも目にするのは初めてだった。
その騎士団を一目見ようと、部屋に面する表通りは朝の喧騒に包まれていた。
大通りに面する窓からは、表通りだけでなく、ポプラ並木の歩道を行く商人や、その歩道に並ぶ喫茶店でくつろぐ人々の様子まで見てとれた。その中、マナの装飾が施された鎧の騎士がマナ教会へ向かって行進していた。
「はわぁ。謝肉祭の準備かな」
「謝肉祭?」
「マナ教の始祖の誕生を祝うお祭りだよ。彼らは今でも昔のやり方を尊んでいて、始まりのときから変わらずに何千年と続けているらしい。マナ教以外の人達にとっては年に一度の大きなお祭りって感じなんじゃないかな。このパンフレットの受け売りだけれど」
リーリは木造りの小さい丸テーブルに置かれた謝肉祭のパンフレットを手に取った。
「お祭り、ですか」
ユイはリーリの横に並び同じように窓の外を眺めた。
ゆっくりと進むその行進は像の歩みのようだった。
子供の歩く速さとそう変わらないかもしれない。
リーリは行進をジッと見つめると、またあくびをした。
「パンフレットには、謝肉祭はお昼から始まると書かれているね」
「ユイは初めてです、謝肉祭を見るのは」
「これから世界を旅すれば色々な物を見て聞いて知るようになるよ」
(造られてまだ間もないのだから当然だよ)
リーリは笑って答えた。
機械人形であるユイには、思い出と呼べるほど〈記録〉の蓄積がない。ユイには永遠を記録できるほどの容量があるけれども、今は空っぽの水瓶を抱えているのと変わらない。
ユイの中で記録が記憶に変わるのいつだろう。
機械人形にとって記録と記憶に違いはない。
記録はメモリに焼き付けられたデータに過ぎないし、単に記憶は記録の積み重ねだ。
でも人は違う。
悲しいとか、嬉しいとか、辛いとか、自分ではどうにもできない気持ちの繰り返しこそが経験だ。
そして、その気持ちの繰り返し・思い出の積み重ねこそが記憶として心に残る。
記録は上書き可能でも、記憶はそうでない。
リーリはふとそんなことをユイの言葉から想像した。
「ユイ、朝ご飯にしようか」
「はいっ」
(飲み物いかがっすかぁ)
(焼き立てのパン売っていまぁす)
祭り前の浮き足立った雰囲気はどの街でも変わらないな。
普段見ることのできない道沿いに並ぶ露店。そこに並ぶ香ばしいお菓子と飲み物を見てはしゃぐ子供。そんな子供をあやす大人たち。
宿屋から一歩出た世界は謝肉祭前の騒がしい空気が満ちていた。そして、騎士の行列の後にはマナの香りがほのかに残されていた。
海に浮かぶ街コーバリ。
と、言っても実際は月よりも広いと言われるゴーヤ浅瀬の上に作られた学園都市。
初めての訪問者にとっては、月満ちる季節、海水で覆われるコーバリが海の上に佇む美しい光景に映る。
一方、コーバリの住人からすれば、浅瀬に満ちる海水は街に神秘をもたらす存在でもあり、一度浅瀬が水に満ちてしまうとゴンドラでの移動を余儀なくされる迷惑なものでもあった。だからこそ、皮肉を込めて“海に浮かぶ“などと言われることがある。
街の中心には大時計塔。大時計塔を中心とした三角屋根の大きな教会や、石畳が敷き詰められた広場。そして、あちこちに咲く紅の樹の中に世界最大のギーリク大図書館が立っていた。
「ねぇ、リーリ。騎士の人達はお腹を空かせていないのでしょうか?ずっと歩いていたようでしたし、休む時間もなかったんじゃないですか?あんなに重たそうな鎧を着ているとお腹ペコペコになってしまいますよ」
「街中を歩いたぐらいでお腹を空かす騎士なんていない。そんなことでは、世に名を轟かすマナ教騎士団の恥さらしだよ」
子供のような感想を持つユイにリーリは笑った。
「笑うようなことですか、もぅ。お腹を空かせない人はいないと思うけれど・・・」
リーリはホテルの前を通り過ぎ、小さくなった騎士団の背中を見つめた。
窓から眺めたときはあくびが出るくらい遅い行進に見えたが、近くでその様子を見ると頑丈な体をエッセ、エッセと動かす、迫力ある行進だった。
行進の最後尾では地元の男の子達が規則正しく歩く騎士の真似をして遊んでいた。子供たちと騎士団との様子を見比べると、リーリはお腹を空かせても我慢している騎士団というユイの言い方がいかにも可笑しいような気がした。
「あのお店にしようか。空いているし眺めも良さそうだね」
リーリは裏路地で小さな喫茶店を見つけた。
小さなテントを店の表に出してテーブルを幾つか並べてある店で、その奥では三人も入れば一杯になってしまいそうな広さの中、従業員があくせく働いていた。
「後で謝肉祭の様子を見て回ろうか。少しぐらい楽しんでも罰は当たらないかな」
「リーリ、私たちがコーバリを訪れている理由、忘れてないですよね?」
「も、もちろんだよ」
ユイはテーブルに手を付き怒った顔つきでこちらを睨んでいた。リーリはベッドから無理矢理に起こされたときのように、また、小言を言われるのかと構えた。
「この街にあるギーリク大図書館を訪れるためじゃないか。世界最大の図書館。パンフレットに必ず紹介される夢の場所」
「それは目的ではありません。私たちがここに来たのは、ギーリク大図書館に所蔵されている《古文書》を読むためじゃないですか。もぅ、まだ寝ぼけているのですか?」
(それは言葉の綾じゃないか)
リーリは心の中で愚痴った。
ユイは細かなことをよく指摘する。
リーリもキキイもユイと一緒に暮らし始めてから細かな間違いを何度も指摘されてきた。お箸の持ち方が間違っているとか、本の並べ方がデタラメだとか、玄関に脱ぎ捨てた靴の向きがズレているとか。言われてもなかなか分らないことまで指摘してくる。そんなユイを側で見ていると、どうしてこのような性格になってしまったのだろうと、ユイの機械技師であるリーリ自身不思議に思わない訳ではなかった。
ユイは機械人形だ。
見た目こそ人と変わりない。けれども、その体は無数の機械部品からできている。記憶力も人のそれよりずっと優れていて、目に見て聞いたもの全てを”記録”出来ると言っても過言でない。
しかし、造り主であるリーリであってもユイの性格までコントロールすることはできない。
ユイの心はユイ自身のものだ。
何千、何億という部品を取り付けても、心まで機械にすることは出来ない。
機械人形制作のための教科書の一ページ目に書かれている、機械技師への戒めだ。
「ごほん、ごほん」
顔を上げると、エプロン姿のウェイトレスがメニューを抱えて側に立っていた。
ブロンドの長い髪を綺麗にまとめ大きな笑顔が印象的な人だった。
リーリは思わずしゃんと背筋を伸ばした。
「お二方は、コーバリを訪れるのは初めてかしら?」
「はい、そうです。ギーリク大図書館を訪れるために来たのですが、お祭りが行われていて驚いているんですよ。もっと静な所だと想像していました」
「ふふ、マナ教の謝肉祭は決して規模は大きくないけれど、この地方で何百年と続く伝統行事ですもの。冬支度をしなければならない時期の少し前に訪れる貴重なひとときだわ。だって、この謝肉祭が終わるとコーバリには秋の終わりが訪れて冬の音があちらこちらに落ちるんですもの。映画のようでしょ?」
「冬の音?」
リーリはつい疑問形の声を出してしまった。
ウェイトレスは、意外だという表情をした。
「冬の音というのは、聖典書に記述されている季節が移ろうための合図のことよ。冷たい風が吹き、太陽の日差しが弱くなることを指すわ。コーバリの人々は冬の音を聴きながら自分たちの生活を楽しむのよ」
ウェイトレスはそう言うと、くるくるその場で回り風が吹く様子を踊りで示した。
ウェイトレスは楽しそうに踊ったけれど、リーリにはよく意味が分からなかったし、ユイも同じ感想を持ったことが顔に出ていた。
「??」
そんな困った顔のリーリとユイを見ると、ウェイトレスは恥ずかしそうに大人しくなった。
「ごほっ、ごほっ。失礼しました。でも、ご覧になったと思うけれど、今朝の騎士団の行進は秋の終わりと冬の訪れを祝うマナ教の伝統的な儀式なのよ。コーバリではマナ教騎士団がゆらーり、ゆらーりと街をグルっと歩いて、季節の移ろいを祝福するものなのよ」
ウェイトレスはそう説明すると、さあ料理を選びなさいといった仕草をした。
朝のメニューだけでもズラリと何十種類もあり、料理の名前だけを見てもどんな食べ物なのかリーリには見当もつかなかった。
ほうれん草とケイルを煮込んだパンプキン味のスープ、じゃが芋を蒸して味付けたサラダ、塩と絡めて炒めた茄子。オニオンをベースとしたチキン煮込みスープ。ガーリックとほうれん草を一緒に炒めたライス。おろし大根と特製ソースを添えた煮込みハンバーグ。フライドポテトとチーズ味の薄焼きブレッド。
他にも目で追いきれないほどの品が並んでいた。
「すごいメニューの数・・・」
ホットミルクとスクランブルエッグのような単純で軽いものを考えていたリーリだったが、それらを見つけるのにも一苦労した。
「あの・・・朝ごはんに何かオススメはありますか?」
迷っている間にユイはさっと注文を決めてしまったようだった。
早く決めてよ、というユイの視線がチラリとメニューの間から見えた。
「ふふふ、コーバリ産ミルクと薄切りナス&キャベツの細切り炒めはいかがかしら?よろければ、卵で包んでお出ししますわ」
「はは・・・それにします」
リーリの注文が決まると、ウェイトレスはニコッと笑い、しばらくお待ちくださいと言い残し店の奥へ消えた。別の客から声がかかると、例のウェイトレスが忙しそうにそちらの方へ行く姿が見れた。